2020年8月4日火曜日

暑いけれど…

今朝も暑い…
マスクが汗に濡れて滴が落ちるのではないかと思うほど。
今まで使いきりの不織布マスクを数日使っていたけど1時間ほどの散歩で駄目になる。
最近は、洗濯の出来る布マスクを使っています。
暑くて歩くのは辛いのだけど、たとえ1時間でも歩いて汗をかくようにしています。

4日は大阪も初の猛暑日に? 各地厳しい暑さ」(えりの気象日記 8月3日)
動いている。
小さなアリが何匹か集まって巣まで運ぼうとしていました。
アリなんて指についても重さを感じないほど軽いのだけど…
†意外に重い昆虫の体重

 私たちから見ればとても小さな昆虫たちだが、大きさは様々だから、見える世界、感じる世界はそれぞれの昆虫にとってずいぶんと異なるだろう。
昆虫たちの大きさや重さはその生き方に大きな影響を与えている。
例えばカブトムシは窓ガラスに激突するとダメージを受けるが、小さな昆虫は高いところから落ちても、物にぶつかっても死ぬようなことはない。
それは体重が軽いことと、小さくなるほど体重に比べ表面積が大きくなるので、重力と空気の抵抗でショックが少ないからである。
(『昆虫の世界へようこそ』海野和男 ちくま新書 2004年)
 そこでちゃんと昆虫の重さを知りたいと思った。
そこで精密な秤を使って、昆虫たちの重さを計ってみることにした。
結果は31頁の表(省略)の通りで、その結果を見て、最初は昆虫ってなんて軽いんだろうと思った。
何しろ大型のカブトムシでも10グラムもない。
カブトムシぐらいの大きさに見えるニワトリの卵が60グラムほどもあることを考えれば、ずいぶんと軽いなと思ったわけだ。
テントウムシにいたってはわずか0.04グラムほどしかない。
 昆虫ほどに軽いとなかなか実感として捉えることができないものだ。
そこでもしヒトがテントウムシぐらいの大きさだったら、いったいどれくらいの体重になるのだろうか。
ヒトの体重を60キログラム、身長を170センチメートルとして計算してみた。
テントウムシの大きさはおよそ8ミリメートルだからヒトの200分の1の大きさしかない。
重さは長さの三乗に比例するから、60キログラムをこの三乗で割ってみれば答えがでるはずだ。
計算の結果はヒトが8ミリメートルの大きさになったら0.0075グラムぐらいということなった。
(註:本には計算式が載っています)
 実際のテントウムシの重さは0.04グラムだから、テントウムシの世界に迷い込んだら、私たちの体重はテントウムシのおよそ5分の1しかないことになる。
テントウムシはずいぶんと太った昆虫であるわけだ。
 テントウムシの体は丸いから当然とも思うので、人間と比較的体つきのよく似たクロオオアリで調べてみることにした。
体長9ミリメートルのがっしりとしたクロオオアリをつかまえてきて計ってみた。
そのクロオオアリは0.03グラムあった。
やはり身長9ミリメートルのヒトと比べれば2倍以上の重さがあることになる。
クロオオアリにもいろいろな大きさのものがいるが、このクロオオアリはプロレスラー並みの体格ということになる。
 けれど考えてみればヒトの身長は足を含んでいるから、実際にはもっと小さいと考えてよいかもしれない。
そこで人間の足のような突起物のある昆虫で調べてみることにした。
ちょうどノコギリクワガタがたくさん採れたので計ってみた。
クワガタムシのオスは大顎が飛び出しているから、意外と人間の形態に近いのではと20匹あまりのノコギリクワガタのオスの体重を計ってみることにしたのだ。
 20匹のノコギリクワガタの体長は大顎まで入れて平均57ミリメートル、体重は平均2.63グラムだった。
ノコギリクワガタがヒトと同じ身長になったとすると、およそ70キログラムという計算が出た。
ノコギリクワガタは同じ大きさのちょっと体格の良いヒトとほとんど同じくらいの体重だ。
体型を考えれば、同じ大きさの人と昆虫に体重差はあまりないと考えてよいのかもしれない。
 さて昆虫界のやせ型は何だろうかと調べてみた。
計った昆虫の中で同じ大きさのヒトと比べて、最も体重が軽かったのはアキアカネだ。
アキアカネが体長170センチメートルになったとしても21キログラムしかないことになる。
同じ体長のヒトの3分の1しかない。
トンボはだいたい胴体が細いから、それは当然の結果かもしれない。
けれどアキアカネには大きな翅がある。
それを含めての重さだから、やはりずいぶん軽い。
トンボは飛ぶのが上手だといわれるが、この体重の軽さが飛翔能力の高さに関係しているのだとも思える。
トンボは昆虫の中でも特に歴史の古い昆虫で、体の作りを変えることなく長い間地球上で生息し続けることができた原因が、この飛翔能力にあるのではと考えた。
(『昆虫の世界へようこそ』海野和男 ちくま新書 2004年)
8月4日
 紀伊国隅田荘(すだのしょう)に住む与二郎(よじろう)が下人(げにん)を売った。 1452(享徳<きょうとく>元)年

 足利義政(よしまさ)の時代のことである。
下人を買った人は同じ隅田に住むかつわら(葛原)殿で、この日作られた証文が高野山に残っている。
その内容を訳してみると、およそ次のようなものである。

   永代(えいたい)に売渡す下人の事
  この下人は、先祖から代々伝えられてきたものですが、今必要があって八百文(もん)の値段で隅田のかつわら殿に永久に売り渡します。
  こののち異議を申しません。
  もし売った下人をとりもどしてよいという徳政令などが出されてもとりもどすことはいたしません。
  もしのちに異議を申したなら処罰して下さい。
  むまの二郎という名のこの下人は永く子々孫々まで貴方(あなた)の下人であります。
  万一、証文をもっているといってこの売買に異議を申す人は、親類でも他人でも盗人として処罰されるべきです。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
下人・所従

 寛喜(かんぎ)の飢饉のとき、下総(しもうさ)でも餓死するものが多く、動垂弥太郎国光(くにみつ)の継父や親類はみなゆくえしれずになってしまった。
国光は困窮のはてに国を出て、下野(しもつけ)に行き、堀籠(ほりごめ)郷に落ちついて、「住人」といわれるようになったが、それから20年ほどたったのちも、なお継父の借財の質として、馬をとられている。
みずから「住人」と名のる人ですら、このような状況であった。
(『日本の歴史 第10巻 蒙古襲来』網野善彦 小学館 1974年)
 すこしのちのことになるが、尾張の長母寺にいた無住は、つぎのような話を『沙石集(しゃせきしゅう)』に記している。
文永(ぶんえい)年中、ひでりがひどく、美濃・尾張には餓死する人、他国に落ちていく人々が多かった。
そのころ三河の矢作宿(やはぎのしゅく)で、ある人がたくさんの人々を引きつれて東国にくだる人商人(ひとあきびと)をみた。
そのなかの一人の若者が人目もはばからず声をあげて泣いているので、わけをたずねたところ、「私は美濃のものですが、母をたすけるために身を売って、こうして東国につれていかれるところです。別れを嘆き悲しむ母親に『命があればまた会えることもありましょう』となだめすかして、出てきましたが、もう母の姿をみることもなく、あずまの奥のどこにさすらい、どこで命を終えるのかと思うと、たまらなくなりました」といって、またはげしく泣いた。
このような話は、無数にあったにちがいない。
 もちろんこれは飢饉のときにかぎらない。
年貢を納めきれず、借財をしたあげく、結局、屋敷やそれに付属した田畠もろとも、身を売る人々も多かった。
安芸(あき)の国の有力な在庁官人で、田所(たどころ)・船所(ふなどころ)などを世襲・掌握していた田所氏の、正応(しょうおう)2年(1289)の譲状(ゆずりじょう)には、多くの田畠・屋敷とともに、56名の所従(しょじゅう)があげられているが、その大部分はこうしたいきさつで所従となった人々であった。
そしていったん、所従・奴婢(ぬひ)となれば、その子孫も「重代(じゅうだい)の所従」として、やはり主人のものとなったのである。
たとえば南浜乙若丸は、祖父の宗門が五貫文の借財のかわりに、屋敷・田畠をはじめ、自分自身も、あげて田所氏のものとしたので、その孫であるがゆえに所従とされた。
おのずと、当時の下人・所従たちは「一類」とよばれる不完全な家族をなして、主人に召しつかわれるものがひじょうに多い。
 大隅(おおすみ)国の在庁官人、禰寝清綱(ねじめきよつな)は健治(けんじ)2年(1276)、94人の所従を、16人の子息・娘などに分けゆずっているが、このばあいも「新次郎一類四人 袈裟(けさ)・僻童・娘袈裟」とか「松女母子二人」のように、小家族をなしてゆずられるものが多かった。
奴婢を畜類と同様にあつかい、生まれた子は母に帰属するとした律令とは異なり、「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」は主人の異なる奴婢の子供について、男は父に、女は母に属するという原則を定めている。
しかしこの禰寝氏の所従には、母子家族が多く、この原則のとおりにはなっていないようにみえる。
田所氏も禰寝氏も御家人(ごけにん)であるが、この時代の武士は、この程度の所従をもつのが一般的だったとみてよかろう。
 これらの下人・所従は田畠を給され、それを耕作していることが多い。
なかには、かつて自分のものだった屋敷にそのまま住み、主人のものとなった田畠を給恩としてあたえられることもあった。
さきの田所氏のばあいには、そうした例がいくつかみられるが、このような人々は、主人に従って戦闘に参加することもあったろう。
(あるじ)にとって、下人・所従は基本的な労働力であり、軍事力にもなったのである。
それゆえこのころの地頭は、さまざまな理由をつけて百姓を下人・所従にしようとし、また百姓の逃亡したあとの家屋(在家)にみずからの所従をいれ、その屋敷・田畠を自分のものにしてしまおうとこころみた。
なぜなら、主の所有物である下人のものは、すべて主のものとなるべきであったから。
 このように、家族・屋敷をおち、田畠を耕作する点から、この時代の下人・所従を「農奴(のうど)」とみる学説が、現在は有力である。
しかし家族をなしているとはいえ、それは主人の意思でいつでもばらばらに売買・譲与されてしまう。
近江(おうみ)国のある所従の子供が、一人一人、主の子息のものとされている例もあるし、さきの田所氏・禰寝氏の所従にも、「一類」をなさないものが多数みられる。
耕作する田畠についても、事実上の占有が所従に認められているばあいはたしかにあるが、あくまでそれは「給恩」としてであり、所従に対する主人の人格的支配は貫徹しているといえよう。
まして、人商人に売買される下人については、いうまでもない。
とすると、「奴原(やつばら)」とか「奴(やつこ)」といわれた下人・所従は、やはり主人に人格的に隷属し、その所有のもとで扶養されることによって、生命をたもたざるをえない人々であり、農奴への傾斜はみられるとしても、基本的には奴隷と考えざるをえない。
 当時の武士の主従関係は、こうした隷属関係をその基礎においていた。
そして地頭・御家人がそうである以上、幕府自体もまた、それを一つの主柱としていることはまちがいない。
しかし、地頭による強引な下人・所従化に対し、頑強に抵抗する多数の百姓たち、その集団があったことも忘れてはならない。
さきの太良(たら)荘の勧心たちはそのよい例であり、時頼(ときより)時代の幕府はこの抵抗をささえることに、「撫民(ぶみん)」の道を見いだしている。
もとより地頭による下人・所従の所有それ自体を非としたわけではないが、限度をこえた荒々しい行動は非法とされ、人身売買・人商人は人倫にそむくものとして、きびしく禁止されたのである。
時頼がおちいらざるをえなかったジレンマの一つは、ここにも姿をあらわしているが、ただここで幕府がすくなくともたてまえのうえで強調しつづけた方向は明らかであろう。
それはさきのような百姓を農業に落ちつかせ、それを基盤とする支配体制の安定であり、百姓に対して主人としてでなく統治者としてのぞむことを地頭にもとめる「政道」の実現であった。
(『日本の歴史 第10巻 蒙古襲来』網野善彦 小学館 1974年)
昨晩からEテレ100分de名著「モモ ミヒャエル・エンデ」が始まりました。
講師の河合俊雄さんがモモを「座敷童」に例えておられたのを聞いてなるほどと思いました。
胆石で入院した時に再読していました(2018年3月6日の記事)。
今回、河合俊雄さんの解説もなるほどと思いますし、伊集院さんの解釈も面白い。
そして#のんさんの朗読がいいなぁ(*´▽`*)