2020年8月1日土曜日

8月になり…

昨日、梅雨が明けたと思ったら一気に高温注意報が出る暑さになっている。
公園に来ると、顔見知りの方がクサギの花が咲いていますよと教えて下さった。

各地で30℃超 熱中症に注意」(関西NHK)
ガガイモの花も咲いていました。
古事記に少彦名(すくなひこな)神が「天之蘿摩船(あめのかがみぶね)」に乗って海からやってきたという話があります。
このガガイモの果実が、「天之蘿摩船」になるそうです。
少彦名神を祀っている神社が道修町(どしょうまち)にある少彦名神社(神農さん)
文政5年(1822)に大坂でコレラが流行したときに薬種仲間が疫病除けの薬として「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさつきうおうえん)」という丸薬をつくり、合わせて「神虎」のお守りをつくって神前で祈願した後、施与したそうです。
新型コロナの終息を祈願してお参りする方が増えているようです。
2018年10月26日の記事
なかのとおるさんのTwitter

このエリアが今回のピンポイント自粛要請地域に入ってるのが泣けます。
さすがに説明責任があるでしょう。

道頓堀で「食のまち・大阪」再始動イベント 吉村知事・松井市長らもPR

大阪でも第二波と思えるほど感染確認が増えましたね。
すると一転して
休業・営業短縮要請で対策強化」(関西NHK)
8月1日
 日本が清国(しんこく)に宣戦布告した。 1894(明治27)年

 朝鮮半島の緊張は日に日に高まっていた。
全羅道(ぜんらどう)で東学党(とうがくとう)の乱が起きると、朝鮮政府は清国に軍隊派遣を要請した。
清国の勢力が強くなることをおそれた日本は、強引に仁川(じんせん)に軍隊を上陸させた。
こうして両国軍は一触即発のにらみあいとなった。
7月25日、仁川近くの豊島(ほうとう)沖で、日本の3隻(せき)の巡洋艦吉野・秋津洲(あきつしま)・浪速(なにわ)がたまたま輸送船を出迎えにきていた清国の2隻の軍艦済遠(せいえん)・広乙(こうおつ)と出会い、砲撃戦になった。
激戦の末、1隻は逃走し、1隻は降伏した。
公式の宣戦布告は7日の後のこの日になされた。
日清戦争のはじまりである。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
 「日清戦争」(中学 動画)
日清戦争が始まるきっかけになった「東学党の乱甲午農民戦争<こうごのうみんせんそう>)」について転記しますφ(..)
日清戦争
 東学党の乱


 朝鮮に在勤すること前後10年近くにおよび、「すこぶるその国情に通暁する」ということで、ときの外務大臣陸奥宗光(むつむねみつ)の信任のあつかった朝鮮代理公使杉村濬(すぎむらふかし)は、明治27年(1894)春のを朝鮮情勢をつぎのように記している。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
 「全羅道(ぜんらどう)の東学党(とうがくとう)の勢はますますさかんで、その西南部一帯に蔓延(まんえん)し、その地方に配属された韓兵の力ではこれを鎮圧することができず、危急をつげる報告が頻繁にくるので、朝鮮政府は国王の親任あつい洪啓薫(こうけいくん)を招討使(しょうとうし)とし、京兵八百を引率し、五月五日京城を出発させた。これより先、王妃一族の有力者内務府督弁(とくべん<大臣>)閔泳駿(びんえいしゅん)は東学党蔓延の急報に接すると、ただちに京兵をだしてこれを討伐しようと企てたが、緒大臣中に不同意の者が多い。かれらはいう、東学党は良民なり、地方官の虐政にたえず蜂起したものなるゆえ、むしろこれを招撫(しょうぶ)すべきで討伐すべきではないと。ついに出兵をこばんだので、閔泳駿も内部に頼み少ないと思ったからであろう、ひそかに清使袁世凱(えんせいがい)と謀(はか)るにいたった。
 この時にあたり、東学党の勢力はますます増加し、京兵は一戦して敗北し、かつその半数は会戦前に逃亡したとの風説が伝わっていたので、朝鮮政府は応援として江華軍営の兵四百を派遣することに決定したが、上下ともにこれによって平定の功を奏するであろうとは思わず、一に清兵の来援に頼ろうとする傾きがあるので、わたくしは当局の人々にむかい、内乱鎮定のため外援をかりることのよろしくないゆえんを論じ、忠告するところがあった。たいていの人はわたくしの説に異議はなかったが、同月三十一日全州城陥落の報に接するにおよんで、宮中・政府あげて大いに驚き、にわかに清国にむかって援兵を請うの議を決定し、清使袁世凱にむかい、援兵請求の公文をしたためた」(『明治二十七八年在韓苦心録』)
 ところで、杉村や袁世凱が大きな関心をよせた東学党とはなんであるか。
東学はもともと西学、すなわち西方の教学である天主教(てんしゅきょう)が民間に広まり、人民をまどわすことを慨嘆し、これと対抗する使命感にもえて、19世紀はじめに生まれた朝鮮の新興宗教である。
この成立のいきさつからも知られるように、志をえない不平知識人をリーダーとしていたが、呪文(じゅもん)と護符(ごふ)の力で病気をなおすということで、南部諸道の農民のあいだに急速に広まっていった。
それは、救いようのない窮乏のなかに日々を送らなければならない朝鮮農民の苦悩と結びつくことによって、官憲側からは邪教として強圧されながらも、強圧されればされるほど農民のなかに根をおろし、やがてはっきり農民一揆としての性格をもつようになっていった。
 農民たちは、平生、地方官の専横をいきどおり、とくに政府に収める貢米(こうまい)の何割増しをも徴収して、自分たちのふところをこやす官憲の重税と不正をうらみ、くりかえし中央政府に陳情書を提出し、その苦痛を訴えてきたが、中央政府はなんの手もうたない。
農民の困窮・不満は日一日とはなはだしく、ついに「坐して餓死せんよりは、むしろ干戈(かんか)にうったえて潔(いさぎよ)く倒れるにしかず」ということになったのである。
 だが、ここで注目しておくべきことは、かれらが漢城周辺に進出するころともなると、汚吏貪官(おりたんかん)の追放とならんで「斥倭洋倡義(わようをしりぞけぎをとなう)」すなわち日本人・西洋人を排撃し、正道を主張する攘夷論を、積極的にとなえるようになったことである。
朝鮮農民にとって、開国後しだいに進出してくる日本商人の活動や、外国商品の浸透は、かれらの生活をおびやかすものとして立ち現われていたのである。
 商品経済の発展していなかった当時の朝鮮では、日清商人がもちこむイギリス製綿布は朝鮮綿布を圧倒して打撃を与えたし、大量に米を買い、綿布や雑貨を売る日本商人は、商取引きなれない朝鮮商人や民衆の無知に乗じて暴利をえていた。
それはやがて、かれらの反撃をうけなければならなかったのである。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
Ⅶ 朝鮮王朝時代
 5 東学教の成立と欧米列強の侵攻
 天主教への弾圧と民乱の拡大

(略)
 1860年、崔済愚(チォエジュウ)が東学を創始する。
両班(ヤンバン)階級の腐敗政治と苛酷な階級差別と搾取に対して、各地で民乱や軍乱がおき、一方、世界の列強からの内政干渉で、社会秩序は乱れ、社会不安が生じていた。
民百姓の不安を和らげ取り除くために東学という新しい宗教をおこしたのである。
東学を基点とした東学革命(東学乱)がおこるのは、それから24年後のことである。
(『物語 韓国史』金両基(キム・ヤンギ) 中公新書 1989年)
 1894年2月15日、全羅北道の古阜(コブ)郡庁を、東学の指導者全琫準(ジウォンボンジゥン)を先頭にした一千余の農民が襲い、貯蔵米や兵器などを奪って蜂起した。
反乱(東学乱)は全国的規模に拡大する動きを見せ、それが清国や日本に、反乱鎮圧に協力するために派兵するという口実をあたえることになった。
両国の軍はそれを口実に進出し、日清戦争開戦へと向っていった。
全琫準と孫秉熙(ソンビョオンフィ)は各1万の農民兵を率いて漢城に向って北進し、官軍と日本軍がそれを公州で迎撃し、鎮圧した。
全琫準は捕らえられて漢城に連行され、処刑された。
これをもって1年にわたる東学乱の戦いは終ったが、四、五十万の犠牲者をだした。
反乱(革命)は成功しなかったが、民衆パワーを為政者に認識させ、その後の民衆運動を誘発する強烈なインパクトになったと同時に、民衆に勇気をあたえた。
しかし一方で、国内運動が外国勢力の進出を招くという苦い体験をも味わった。 
(『物語 韓国史』金両基(キム・ヤンギ) 中公新書 1989年)
台湾 李登輝元総統の葬儀に森元首相が参列の方向で調整」(NHK)

政府の「特使」ではなく、民間の立場での参列になるようです。
靖国神社には「私的参拝」をされる方が、
特使を派遣しないのは、中国の反発を恐れているのでしょうね…
今朝の父の一枚です(^^)v
私は、蓮の蕾に気がつかなかったです!
8月になったからかな?
何の操作もしていないのだけど
画像が今までと違って、大きく表示されて、しゃしゃり出ているような…?
画像には自信がないので、以前のように控え目の方がいいのに…