2020年8月6日木曜日

広島平和祈念の日

朝から気温がぐんぐん上がっている(^-^;
いつもはクマゼミやアブラゼミとばかりなんだけど…
今朝はニイニイゼミにも会えました。

午前中から猛暑日 熱中症に警戒」(関西NHK)
熱中症対策には、水分補給が大切です。
麦茶を持参しているのですが、一口、口の中に入れたらしばらく含んだままにしています。
ごくごく飲んだ方が美味しいのだけど、心筋梗塞を発症してICUにいたときには、
水分制限で、たしか1日に150㏄だったと思う。
50㏄ずつ3回に分けて飲んでいました。
看護師さんが冷たくして飲ませてくれた。
すぐ飲み込むのはもったいなかったので一口一口嚙むようにして飲んだ。
点滴を受けているので水を飲まなくてもいいのだと思うけど、喉が渇く。
1945年8月6日、被爆者の方が水を欲しがってもまともに飲むことができなかった。
友だちからメールで感動したと教えてくれたので見ました。
小学6年生の子ども代表による「平和への誓い
真っすぐ前を向き言葉を丁寧に語る姿、
友達が「うるうるした」と知らせてくれた気持ちが分かる。

「75年は草木も生えぬ」と言われた広島の町
75年が経った今、広島の町は、人々との活気に満ちあふれ、緑豊かな町になりました。
この町で、家族で笑い合い、友達と学校に行き、公園で遊ぶ。
気持ちよく明日を迎え、様々な人と会う
当たり前の日常が広島の町には広がっています。
しかし、今年の春は違いました。
当たり前だと思っていた日常は、ウイルスの脅威によって奪われたのです。
当たり前の日常は、決して当たり前ではないことに気付かされました。
そして今、私たちは、それがどれほど幸せかを感じています。
75年前、一緒に笑い、大切な人と過ごす日常が奪われました。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
目がくらむまぶしい光、耳にこびりつく大きな音
人間が人間の姿を失い、無残に焼け死んでいく
町を包む魚が腐ったような何とも言い難い悪臭
血に染まった無残な光景の広島を原子爆弾がつくったのです。
「あのようなことは二度と起きてはならない」
広島の町を復興させた被爆者の力強い言葉は、私たちの心にずっと生き続けます。
人間の手によって作られた核兵器をなくすのに必要なのは、私たち人間の意思です。
私たちの未来に核兵器は必要ありません。
私たちは、互いに認め合う優しい心をもち続けます。
私たちは、相手の思いに寄り添い、笑顔で暮せる平和な未来を築きます。
被爆地広島で育った私たちは、当時の人々があきらめず
つないでくださった希望を未来へとつないでいきます。
令和2年(2020年)8月6日
こども代表
広島市立安北小学校6年  〇〇菜摘
広島市立矢野南小学校6年 〇〇駿佑


広島平和記念式典(25分頃)」(NHK:見逃し配信8月13日まで)
小学生の二人は被爆者から体験を聞き、私たちに伝えてくれた。

今朝のニュースで「〝被爆者の声伝えたい〟新たな歩み」(43分40秒頃)には、
5年前に高校生平和大使を勤めた〇〇つぐみさんのことが紹介されていました。

高校生平和大使の時は大人のサポーターの力を借りて活動してきたので
今の私に出来ることは署名活動のサポートと思って、今も活動を続けています。


高校生の時(2015年)にスイスの国連軍縮会議で核兵器廃絶を強く訴えていました。
被爆70年の今こそ核兵器廃絶に向けて大きな一歩を踏み出すべきです。
その後、広島大学医学部に進学した今、新たかな活動に取り組んでいます。
高齢化が進む被爆者に代わり体験を語り継ぐ「被爆体験伝承者」を目ざそうとしています。
伝承者になることは高校生の時からの目標でした。
被爆者の体験が後世に伝わらなくなる危機感を抱き続けてきたからです。
私たちが被爆者の生の声を聞ける最後の世代ともいわれているので、
核兵器の恐ろしさを訴えていらっしゃる被爆者の方の声を途絶えさせてはいけない
3年間の研修が必要な伝承者の研修が、新型コロナの影響で被爆者と直接会うことは見送られてきました。

7月に体験者にようやく会うことができました。
川本〇〇さん(86歳)は、小学6年生で疎開中、家族を探すために広島市に戻り〝被爆〟
家族6人を失い原爆孤児になりました。
平和大使をしていたときに川本さんに出会ったつぐみさんは、当時印象に残っていたことを聞きました。
「(飢えに苦しんで)石ころをしゃぶったり、新聞紙を食べたりという話を伺ったんですが、
その時に感じた気持ちを教えていただけますか。


「(石ころや新聞紙は)おいしくはないですよ。
口の中に物があるというだけで、落ち着いたんです。ただそれだけです。
自分が生きるために、とにかく出来る事をやった。


つぐみさんは、川本さんに不安を訴えます。
戦争を経験していない私たちが川本さんたち、被爆者の話しを伝承することはどのようにお考えですか
川本)「どのようなしゃべり方をされても、とにかく、私のような人間がいたことだけ伝われば…
6日に起こったこと、14万人がその年の12月までに亡くなったこと。
これだけは伝えていってもらいたい。
これが伝われば戦争の怖さは伝わっていくと思うから。
私は、それ以上は望んでないです


面会の最後に、川本さんの思いがこもった折り鶴が手渡されました。
つぐみさん)「継承のバトン(折り鶴)を受け継いだととらえて、これからも頑張っていきたいと思いました。
川本さんのおことばをひと言ひと言、大切に伝承していきたいと思っています

(なお、番組では、フルネームが表示されています)
8月6日
 広島に原子爆弾が投下された。 1945(昭和20)年

 午前8時15分、B29爆撃機から投下された原子爆弾(ウラン)が広島の上空で爆発した。
7月16日にニューメキシコ州で最初の原爆実験が成功してから一ヵ月もたっていなかった。
アメリカがそれほど急いだわけは、ソ連が参戦するまえに独力で日本を降伏させたいと考えたからである。
まだ空襲をうけていない大都市、広島が投下地点に選ばれたのだった。
死者は1950年までに約20万人に達したと推定され、その後現在まで原爆症で死ぬ人はあとをたたない。
3日後の9日には、もう一発(プルトニウム)が長崎に投下された。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
広島と長崎」(小学6年 動画)

「日本に原爆を落とす必要なかった」米有力紙 異例の論説掲載〟(NHK)

「平和への誓い」にもありましたが、新型コロナに通じるものがあります。
被爆後、白血病などの後遺症に人々は苦しみ、次は我が身かと恐れていました。
当時、放射能の知識がなかったので伝染するのではないかという差別や偏見にも苦しまれています。
直接の被爆者ではありませんが、「食べ残された水蜜桃半分」を転記しますφ(..)
 食べ残された水蜜桃半分 
     村木〇〇子(71歳・山口県柳井市)

 私は、1946(昭和21)年8月24日、広島に原爆が投下された翌年、誕生致しました。
 幼い頃からの母の行動、様子についての疑問が解けたのは、私が高校二年生の時でした。
母が緊張感をもちながら、「今から話す事はね、今後二度と話すことはない、苦しい、辛い内容じゃけねぇ」と、納得済みであるはずの母自身を更に納得させるかのような強い口調で、私にとり鮮明に記憶にのこる話でした。
(『戦中・戦後の暮らしの記録 君と、これから生まれてくる君へ』暮らしの手帖社 2018年)
 この時の話から判(わか)ったのは、私には昭和20年8月6日の朝まで間違いなく兄が居たという事でした。
 母が毎年、8月6日には必ず広島へ出掛けていた事。
私が幼い頃からずっと、家族全員が母の体調に不安を持ち続けていた事。
手許にたった一枚のこる一歳位の男の子の色あせた写真。
何より印象深く記憶にあるのは、毎年8月6日には我が家の仏壇には必ず水蜜桃が供えらえていた事――。
 昭和20年8月6日の午前8時15分まで、戦時中で穏やかとは言えないまでも、朝げ、夕げを囲む親子三人の家庭があったのです。
爆心地より1.2キロ、広島市二葉の里、一歳を目前にした兄との散歩に、饒津(にぎつ)神社がありました。
戦時下に身をおきながら、戦争のない暮らしを望んだ深い願いがあった事でしょう。
力無い者たちが出来得る最大の願いの神社への散歩だったと思います。
 水蜜桃に戻ります。
 8月6日の朝、父の出勤後、兄は水蜜桃を食べ、機嫌良く一人遊び、更にのこり半分の水蜜桃を欲しがり、母は台所に立ちました。
 包丁に手をかけたその瞬間、ガラス越しに見たものは、マグネシウムを燃やすような青白い閃光(せんこう)、目を開けていられない程の強い光線。
同時に爆風が起き、母が腕を見ると、恐怖のあまり痛みを忘れる程の血。
家の梁(はり)は落ち、ガラスは跡形もなく、この世に存在する全ての機器をつかっても、起こり得ないような破壊の現実。
 母は急いで、先程まで一人あそびをし、水蜜桃をねだったわが子のもとに行きました。
 そこで母が目にしたものは、大きな梁の下敷になり、頭に大きなガラスの破片がささった兄の姿。
 傷を負った体で兄を抱き、崩れた家から外へ出ました。
どれ程の母の思いの力だった事でしょう。
 どの位の距離を歩いたのか?
いつも見慣れた光景とは程遠い人、建物の姿。
ここまでの破壊力とは何なのか?
 兄の重みで母も歩けなくなり、兵隊の方々に戸板にのせられると、「この赤ちゃん、すでに亡くなっていますよ。火葬にしましょう」と言われたそうです。
「子供を手放す時の親としての感情も何も持てなかった」と、母は言いました。
 一歳にも満たなかった兄の、これらかの人生全てがこの世から消えたのです。
今生存していれば、73歳の生活があったはずです。
兄が生きていれば、兄の人生を見せてもらえた私の人生があり、共にどんな幸福な時をすごせたであろうか。
全て想像の中です。
 不幸な状況にもかかわらず、母の命はとりとめられ、山口の地で心身の痛み、苦しみにも堪え、昭和21年8月24日に私が誕生しました。
そして私も二人の息子を授かり、命のつながりを見る事が出来たのです。
 息子たちによく言います。
「戦争の中、つながれた命が今の命となっている事を思い、命のありがたさを大切にして生きるように」と。
 母が私にこの話をしたのは私が17歳の夏、それから二度と口にはしませんでしたが、母の没後も、8月6日には仏壇に必ず水蜜桃を供えています。
我が家の忘れてはならない歴史、命の歴史ですから。
(『戦中・戦後の暮らしの記録 君と、これから生まれてくる君へ』暮らしの手帖社 2018年)
今朝の父の一枚です(^^)v
プリントをリクエストした画像です。
真っ青な空。
あの日、もし広島の天気が悪ければ…

京都や横浜も原爆投下の有力候補地だった」(高橋浩祐 東洋経済 2018年)