2020年8月5日水曜日

どこまで上がるのかな…

危険な暑さとニュースにあるのだけど、確かに朝から暑かった(^-^;

危険な暑さ予想 熱中症厳重警戒」(関西 NHK)
ヤマボウシ(ミズキ科 ミズキ属)
(略)
 花後、小花同士は癒合して1個の丸い実に育ちます。
小花の境は、表面の線として残っています。
秋にサンゴ色に熟れた実は、とても美味。
果肉はマンゴーに似て黄色く甘くとろけ、生食のほか果実酒やジャムにもできます。
 ヤマボウシに似た花をつけるのがハナミズキ。
同じ祖先から分かれた兄弟分ですが、北米に渡ったハナミズキは小花が1個ずつ実になるので金平糖状になります。
秋に赤く熟しますが、味は苦くて食べられません。
 日本のヤマボウシはサル向けの大粒のフルーツになりました。
でもサルのいない北米大陸の仲間は、鳥に適した小粒の苦くて赤い実になったのです。
(『実とタネキャラクター図鑑』多田多恵子 誠文堂新光社 2017年)
小さな女の子とお父さん。
暑いけど頑張って歩いています!
お父さんが小さな団扇であおいであげていました。
クサギの花の香りがするかな?
公園での感染チェック(*´▽`*)
その前に朝ごはんの味がするかもチェック項目。
日々の体調の変化に気をつけていると感染拡大を小さくすることができると思う。
異常を感じたらPCR検査を受けることができる体制が必要だと思います。
また、公表することで誹謗中傷を受けることのない社会にしないと
感染が隠蔽されて拡大するだけだと思います。

タカラジェンヌなど4人が感染」(関西 NHK)
最近、妹とやっとうがい薬が棚に並ぶようになったなと話していました。
父は、ズーッとイソジン、妹は、イソジンでうがいするとしばらく咳が出るので
ケロちゃんでうがいをしているのですが、いずれも棚から姿を消した。
私は、うがいをしていると飲み込んでしまいそうになるのでお茶。
ちなみに山小屋では、何もつけずに歯ブラシだけで磨いた後、お茶で口をすすいでいました。

今村顕史さんがTwitterで注意喚起をしています。

ヨード系のうがい薬は、妊婦や甲状腺疾患の方は使用を避けなければなりません。
また、過剰な使用もすすめられません。
PCR等の検査前に使うと、検出感度が低下する可能性があることにも注意が必要です。


唾液による検査の信頼性がゆらぐのではないかな?
唾液を用いたPCR検査の導入について」(厚労省)
8月5日
 戒厳令が制定された。 1882(明治15)年

 元老院(げんろういん)の審議を経て、この日戒厳令が布告された。
1882年という年は、壬午事変(じんごじへん)がおき、朝鮮での緊張が高まった年であった。
戒厳令(かいげんれい)の第一条は「戦争または事変のときに、軍が治安を維持するのがこの法の目的である」と定めていた。
 1945年に戒厳令が効力を失うまで、5度戒厳令が発動された。
初めの2度は、日清戦争と日露戦争のときで、国民の気持を戦争にむけて一つにまとめ、軍事機密がもれるのを防ぐことがそのねらいであった。
残りの3度は国内の内乱や混乱にさいして発動された。
日比谷焼打ち事件(1905年)、関東大震災(1923年)、二・二六事件(1936年)のときである。
二・二六事件のさいの戒厳令発動は反乱軍の鎮圧が最初の目的であったが、実際には陸軍の都合のよい内閣をつくる一種のクーデターの手段とされた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
関東大震災の時に発動された戒厳令について転記しますφ(..)
今年も都知事は、追悼文を出さならしい。

小池都知事 追悼文、3年連続送らず 関東大震災で朝鮮人虐殺」(東京新聞 2019年8月10日)

関東大震災」(中学・高校 動画)
関東大震災
 戒厳令くだる


 「朝鮮人来襲」の流言がひろがると、水野錬太郎(みずのれんたろう)内相は戒厳令施行の方針を決めた。
非常徴発令にしても戒厳令にしても、これをこれを公布するには枢密院の議を経る必要がある。
しかし震災のために枢密顧問官を集めることができないので、伊藤巳代治(いとうみよじ)顧問官の諒解を得て、政府の責任で公布することにした。
戒厳令の一部が東京市と府下の荏原(えばら)・豊多摩(とよたま)・北豊島(きたとしま)・南足立(みなみあだち)・南葛飾(みなみかつしか)の5郡に施行されたのは、2日の夕刻近いころであった。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中央公論社 昭和41年)
 戒厳令が施行されたその2日の夕刻に、赤坂離宮の庭にある萩の茶屋で、ロウソクの火をたよりに第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の親任式があげられた。
一刻も早く震災の惨状と混乱に対処するために、組閣工作中の行きがかりをしてて後藤新平(ごとうしんぺい)が内相となり、組閣をすませた。
 ところで戒厳とは、戦時または事変すなわち戦争に準ずる内乱や暴動のばあいに、軍事上の必要にこたえて行政権と司法権を軍司令官に移し、これに平時の法をこえた強大な権限を与えることである。
しかし今回の戒厳令は、本来の臨戦戒厳ではなく、いわゆる行政戒厳であった。
震災による混乱を防いで人心の安定と罹災民の救護をはかることが、警察の力だけでは困難なため、軍隊の力をかりたのである。
したがって本式の戒厳の宣告ではなく、緊急勅令による戒厳令の一部施行である。
これによって戒厳司令官は、戒厳の目的に必要な限度で、地方行政事務と司法事務の指揮権をにぎり、集会・新聞・雑誌・広告の停止、兵器・火薬等の検査・押収、郵便・電信の検閲、出入物品の検査、陸海通路の停止、家屋への立入り検査などの権限をもつようになった。
 しかし、朝鮮人暴動の流言が戒厳令施行のきっかけとなったことにも見られるように、この戒厳は臨戦戒厳の一面も帯びていた。
まず戒厳司令官となった森山東京衛戍(えいじゅ)司令官は、指揮下の軍隊にたいして「万一この災害に乗じ非行を敢てし治安秩序を紊(みだ)るが如き者あるときは、これを制止し、もしこれに応ぜざる者あるときは、警告を与えたる後、兵器を用うることを得(う)」との訓令を発した。
戒厳は、混乱を防ぎ罹災民を救護するよりも、暴徒を鎮圧することが直接の目的であり、戒厳令のもとでは「切捨て御免」だという考え方があらわれている。
 東京衛戍司令部は、地震がおこるとすぐに活動をはじめ、1日夜には近衛・第一両師団の全部隊を東京によびよせた。
戒厳令がくだると陸軍では、習志野(ならしの)から来ていた二十数騎の騎兵に東京全市をかけめぐらせて、軍隊の到着を知らせた。
騎兵の馬蹄のひびきは、恐怖と不安にみちた人びとに活気をよみがえらせた。
男も女も老人も子供も、これをよろこび迎えた。
大正デモクラシーのなかで軍閥と非難され、無用の長物として軍縮を要求されていた軍隊は、震災によって絶好の活動舞台を与えられ、国民のあいだに権威と親近感をうちたてるチャンスをつかんだのである。
 陸軍は2日から3日にかけて東京地区への配備をおわり、孤立していた横浜地区にも、3日から4日のあいだに海陸両路から警備隊が到着した。
3日に宇都宮の第14師団が来援したのをはじめ、地方師団からの派遣部隊もぞくぞくと到着した。
3日には、戒厳令の施行区域が東京府と神奈川県に拡大されるとともに関東戒厳司令部が新設され、山本内閣の陸相の下馬評(げばひょう)にものぼった福田雅太郎(ふくだまさたろう)大将が関東戒厳司令官に任命され、阿部信行(あべのぶゆき)参謀本部総務部長をはじめ中央部の軍人が幕僚となった。
4日には埼玉・千葉両県も戒厳地区にふくめられた。
10日までに出動した総兵力は、歩兵57大隊、騎兵22中隊、砲兵34中隊、工兵47中隊、鉄道14中隊、電信13中隊、それに内地全師団の衛生機関など、兵員約5万に達した。
 朝鮮人暴動の流言がひろがると、各地で青年団・在郷軍人会・消防組などを中心に自警団がつくられ、女子供をまとめて避難させるとともに、朝鮮人をかりたてては迫害を加えた。
戒厳令による軍隊の出動は、ただでさえ気のすさんだ罹災地付近の人びとのあいだに、いっそう血なまぐさい殺気をもちこんだ。
刀や竹槍・棍棒・鳶口(とびぐち)・鎌などで武装した自警団は、要所要所に検問所をつくって通行人を訊問した。
顔つきが朝鮮人らしいとか、言葉が不明瞭だとかであやしいとなると、半死半生の目にあわせて警察につきだしたり、残虐な方法で殺害したりした。
演劇ずきの学生伊藤圀夫(いとうくにお)も、2日の晩、千駄ヶ谷の自宅付近を警戒中、朝鮮人と間違えられてこづかれたが、顔見知りの酒屋の若い衆が来合わせたのであやうく助かった。
センガガヤのコレヤン(朝鮮人)、これが千田是也(せんだこれや)の芸名の由来である。
 戒厳令で出動した軍隊も、とくに江東方面においては朝鮮人を「敵」として追い立て、殺害した。
当時中学生だった清水幾太郎(しみずいくたろう)は本所で焼け出され、千葉県市川国府台(いちかわこうのだい)の兵舎に避難していたが、夜おきてみると大勢に兵隊が銃剣の血を洗い、得意気に朝鮮人を殺してきたというのに、腰がぬけるほどおどろいたと回想している。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中央公論社 昭和41年)