2020年8月25日火曜日

暑いけど…

 

顔見知りの方とセミ(クマゼミ)の声が聞えなくなりましたねと話していました。
数日前からあまり聞こえなくなっていたのだけど…
暑いけどやはり秋がやってきているのかなと話し合っていました。

今村顕史さんのTwitter

闘うべき相手はウイルス、決して人ではありません。
歴史の中では、感染症による差別偏見が繰り返されてきました。
もう同じことは起こさない。
それが本当に成熟した社会となる条件です

→『感染者への中傷・差別に対応 政府WG、来週にも初会合 弁護士や知事ら』(毎日新聞)

前にも書いたけど、誹謗中傷するような電話は、人権侵害や営業妨害になるので録音して訴えたらいいと思います。
例えば企業へ電話をすると、「サービス向上のためにお客様との会話を録音させていただきます」とアナウンスが流れることがあります。
また、非通知に対しては拒否設定にするといいと思う。
メールや郵便物は警察に届けるシステムが必要だと思う。
でないとこれから無症状の人は、だんまりを決め込み感染が拡大するだけです。

ショウワノートのTwitter

ジャポニカ学習帳に「昆虫」が戻ってきた!
50周年記念シリーズ発売へ 開発担当者に復活の裏側を聞いた

リアルな写真が苦手な子にはかわいいイラストのノートもあるようです(*´▽`*)
虫を好きになる必要はないけど、虫の知識がないとスズメバチなどへの対応を誤ってひどい目にあう。

8月25日
 ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えた。 1543(天文<てんぶん>12年)

 九州の南にうかぶ種子島の西村小浦に一隻の大船が着いた。
船には百人余の人々がいたが、みなれない顔つきで言葉も通じない。
しかしその中に明(みん)の人がいて彼らは西南の方からきた商人だと教えた。
 領主の種子島時堯(ときたか)が彼らと面会したとき、二人の長(おさ)は長さ三尺(90センチメートル)ほどの重い棒のようなものをもっていた。
それが大きな音を出し鉛の玉を発射させるのをみた時堯は、2挺(ちょう)とも大金で買いとり、火薬の調合法を家臣に学ばせた。
こうして我国に伝わった鉄砲はまず紀州根来寺(きしゅうねごろじ)や泉州堺(せんしゅうさかい)に伝えられ、またたくまに全国に広まった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

鉄砲伝来」(中学・高校 動画)

story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』より「鉄砲」を転記しますφ(..)
優秀な技術があって鉄砲を造ることができたけど、
戦乱が終わった江戸時代になり鉄砲は必要性がなくなりました。
そのため鉄砲は、発達しなかったのですが、平和の象徴ともいえるものが発達し、現代でも私たちを楽しませてくれています。
続いて〝梅原猛の新「授業・仏教」第12講「一遍」〟の続きを転記しますφ(..)

鉄砲
鉄砲伝来


 1543(天文<てんぶん>12)年、東シナ海を一艘(いっそう)の中国船が中国の港をめざして航行していた。
そして、暴風雨に遭い8月25日、九州の南の種子島に漂着した。
倭寇(わこう)の大頭目王直(だいとうもくおうちょく)の船とされるこの大船に、鉄砲を持った2人のポルトガル人が乗船していた。
この鉄砲伝来の有名な話は、17世紀初頭の史料『鉄炮記(てっぽうき)』の内容である。
ところが、ポルトガル人の記録では、3人のポルトガル人が1542年に漂着とある。
どちらが正しいかはともかく、実質は倭寇の活躍があったからこそ鉄砲が伝わったことになる。
王直は五峰(ごほう)ともいい、海外渡航を禁じる明(みん)の海禁政策(かいきんせいさく)を破り、東アジアで活躍し、日本でも五島列島に屋敷を構えていた。
この頃の倭寇のほとんどは中国人であった。
(『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』日本史教育研究会 山川出版社 2001年)

 ともあれ、種子島に着いたポルトガル人は「手に一物を携(たづさ)う。長さ二三尺、……」の不思議なものを持っていた。
早速、試射(ししゃ)が行われ、島主種子島時堯(たねがしまときたか)はすぐに2挺(ちょう)を買い入れ、翌年には火薬の製造も含め模作(もさく)に成功した。
そしてこれらの技術や製品は、紀伊(きい)の根来寺(ねごろじ)、和泉の堺、近江の国友(くにとも)などに伝わり、それぞれが鉄砲生産地として名をなす。
見本が示されるとすぐに製造を試み大量生産に進展するという、この中世以来の日本の製鉄や鍛冶(かじ)などの技術水準の高さは、注目に価する。 

 この時の鉄砲は、いわゆる先込(さきご)めの火縄銃(ひなわじゅう)である。
種子島から国内に広まったので、火縄銃のことを種子島ともいった。
国内に古いものと伝えられる鉄砲の形式は、東南アジアのそれによく似ているという。
東南アジアには倭寇が交易に出かけている。
そこで、倭寇を通じて鉄砲が伝来したとの説もある。
ともかく鉄砲は、破壊力や射程距離などでそれまでの武器より優れていたが、発射までの準備時間や雨に弱いことが難点であった。
また、火薬の原料となる硝石(しょうせき)はほとんどが輸入品であったので、鉄砲の豊富な使用は莫大な費用を要した。
そこで、鉄砲を使用するようになっても、弓や槍も重視されていた。

鉄砲隊
 この鉄砲を、もっとも効果的に使ったのが、織田信長である。
1575(天正3)年の長篠合戦(ながしのかっせん)で、鉄砲隊を組織、武田勝頼(たけだかつより)の騎馬隊を迎撃(げいげき)し大勝したのである。
先込めの火縄銃の有効な利用法を知った各大名たちは、常時訓練した足軽鉄砲隊をどう使うかという集団戦法に転換した。
ここに武士は、一人の武人(ぶじん)としての戦闘能力もさることながら、鉄砲隊、槍隊、弓隊など足軽の集団をいかに組織的に動かせるかも大切な資質となった。
また、築城(ちくじょう)法も大きく変化した。
射程距離が遠く大きな破壊力をもつ鉄砲を意識して、広い堀・高い石垣・厚い土塀・大きな櫓(やぐら)を備え、そして城内に数千・数万の城兵が籠(こ)もれる広さの城が築かれるようになる。
今の私たちが思い浮かべる城のイメージである。
豊臣秀吉が築城した大坂城はその典型例であるが、秀吉の時代には鉄砲より大型の火砲(かほう)が登場し、1614~15年その大坂城を攻撃した徳川家康は大砲の開発に熱心であった。

花火
 それ以降は、大砲まで工夫した高度な技術が、あまりいかされなかった。
大きな戦乱がない中で、武士が戦いの武術として剣法(けんぽう)を重視したからである。
それは、刀剣(とうけん)の鍛造(たんぞう)の技術としては洗練されたが、鉄砲の改良工夫にはつながることはなく、幕末の洋式銃まで火縄銃が一般的であった。
しかし、火薬製造の技術は、花火という芸術を生み、夏の風物詩として、武士にも庶民にも親しまれるようになった。
日本が世界に誇る、平和な時代の象徴的楽しみ「花火」の開発は、江戸時代である。
(『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』日本史教育研究会 山川出版社 2001年)

 (梅原猛の新「授業・仏教」第12講「一遍」の続き)

詩には遊行のリズムがある
 一遍は捨聖にふさわしく、著書などというものをまったく残さなかった。
彼の作品として残るものは『一遍上人語録(しょうにんごろく)』だけであるが、そこには彼の説法(せっぽう)と、「別願和讃(べつがんわさん)」「百利口語(ひゃくりくご)」と題する二つの和文の長詩と、即興の和歌が含まれている。
(『仏教を歩く 12号 一遍』朝日新聞社 2003年)

「一年(ひととせ)熊野にまうでつゝ 証誠殿(しょうじょうでん)にまうぜしに あらたに夢想の告有(つげあり)て それに任(まかせ)て過(すぐ)る身の 後生(ごしょう)の為に依怙(えこ)もなし 平等利益(びょうどうりやく)の為ぞかし 但し不浄(ふじょう)をまろくして 終(つい)には土とする身を 信ぜん人も益(やく)あらじ謗(ぼう)せん人も罪あらじ」(「百利口語」)

 これは、熊野の神のお告げを受けて、新たに時宗(じしゅう)の信仰に目ざめたときの心境を表したものであろう。
自分は一切のことを捨てて遊行しているが、それを信じる人にも益はなく、非難する人にも罪はないという。
一遍はまったく利害得失を離れた自由な心に立っている。

 この長詩は彼の遊行の人生を歌うもので、実感がこもっている。
家族を捨てればすべての人が父母となり、共に欲を捨て、遊行を続ける。
泊めてくれる家も多いので、雨露をしのぐには不自由せず、供養(くよう)をしてくれる人もいるので、へつらうことなく何とか命を継ぐこともできる。
飢え死にしても必ず極楽へ行くことができるので結構ではないか。
このような詩には遊行のリズムというべき独特のリズムがある。

 一遍は空也と西行を彼の先駆者として称(たた)えるが、西行はもちろん空也も詩人であった。
そして7世紀の唐の浄土教の僧であった善導(ぜんどう)もまた比類なき詩人であった。
善導はこの世の無常さ、苦しさを嘆き、清く美しい極楽浄土に憧れ、往生を勧める詩を多く作った。
「偏依善導(ひとえにぜんどうによる)」といって、善導の説を自分の説とした法然は、詩人ではなくむしろ理論家であった。
法然はみごとに善導の説を、口称(くしょう)念仏によってどのような人間も極楽往生できるという簡明な説を結晶させて、念仏の教えを広めた。
親鸞は、自分の内面にある罪の懺悔(ざんげ)と阿弥陀仏によって救われた喜びを漢文や和文の詩にした。
それに対して一遍は、捨聖としての遊行の旅を何の飾りもなく飄々(ひょうひょう)と歌う。

 また和歌がよい。


  心をばこゝろの怨(あた)とこゝろえて
   こゝろのなきをこゝろとはせよ
  こゝろをばいかなるものとしらねども
   名をとなふればほとけにぞなる

臨機応変のユーモアと機知
 西行もよく心を歌っているが、一遍は心を捨てよという。
これらの歌は徹底的に捨聖の生活をした一遍でなければ歌えない。

   下野国小野寺(しもつけのくにおのでら)といふ所にて、
   俄(にわか)に雨おびたゞしく降(ふり)ければ、
   尼法師(あまほうし)みな袈裟(けさ)などぬぐを、見給ひて

 ふればぬれぬるればかはく袖(そで)のうへを
   雨とていとふ人ぞはかなき


 尼たちがにわか雨にあって着物が濡(ぬ)れ、袈裟を脱いでしどけない格好をしていたのであろう。
雨が降れば袈裟は濡れ、また乾く道理であるから、そんなみだりがわしい格好をして体を拭(ふ)くのははしたない仕業ではありませんかと一遍はたしなめる。

 一遍にはユーモアがある。
近江(おうみ)の守山(もりやま)のほとりの閻魔堂(えんまどう)というところで踊り念仏を興行していたとき、兵部堅者重豪(ひょうぶじゅしゃしげとし)という人がそれを見て、踊り念仏はけしからんといったので、一遍は次のような歌を返した。

  はねばはね踊(おど)らばをどれ春駒(はるこま)
    のりの道をばしる人ぞしる


 もちろん「のり」は馬に乗るという意味と、法(のり)とが掛詞(かけことば)になっているが、春の馬のようにその喜びを跳ねたり踊ったりして表す仏の教えをあなたは知らなくても、知る人ぞ知るでしょうという歌である。

そこで重豪が、

  こゝろ駒のりしづめたるものならば
   さのみはかくや踊
(おどり)はぬべき

 と踊り念仏を批判したのに対し、一遍は即座に、

  ともはねよかくてもをどれ心ごま
    弥陀の御法
(みのり)と聞(きく)ぞうれしき

 と返した。
禅僧顔負けの臨機応変の機知に富んだ問答である。
(『仏教を歩く 12号 一遍』朝日新聞社 2003年)

今朝の父の一枚ですが…
実は、鷹(チョウゲンボウ?)が枝に止まっているのを教えてもらって写したそうです。
ところが白く飛んでしまっていてほとんどわからない状態の画像になっていました。

いつもなら一枚以上画像を印刷するのですが、今日は、リクエストがありませんでした。


父が使用しているカメラは、2011年に購入したコンデジ
長年使っているので…
でも、このタイプのカメラが製造されていない…

今月中は猛烈な暑さ 原因は台風」(えりの気象日記 8月24日)