2020年8月16日日曜日

今日も猛暑日…

 

夜中に暑さで目を覚ますほどの熱帯夜が続き
5時前に起きて戸を開けても
朝の爽やかさが感じられない日が続いています。

加藤登紀子さんがリツイートされていました。

なんか、いいな。
RT @GruneRaupe病院でおじいちゃん先生

「結婚してる男がいるとするでしょ?この人を好きになっちゃいけないんだって思った時にはもう好きになってるんだよ」

「夏は喉が渇いたと思ってからじゃ遅いのでこまめに水分を取ってください」と看護師さんが訳してくれました

サヘルローズさんのTwitter

今夜23時からです。
本当に誤解しないで、私は哀れみも可哀想も求めてない。
これをお涙頂戴、人生の切り売りだと感じられる方も少なくはないと思います。
でもね、違うんだ。
この番組を見終わった時に『優しさ』をかみしめてほしい。
大切な人、アナタ自身を抱きしめていてね。


昨夜の
ETV特集「サヘルの旅~傷(いた)みと生きるということ~
再放送は、8月20日(木)午前0:00~(19日深夜)

8月16日
 鎌倉公方(くぼう)足利持氏が永享(えいきょう)の乱をおこした。 1438(永享10)年

 この年6月、持氏(もちうじ)は先例を破って、将軍の名前の一字をもらうことをせず嫡子(ちゃくし)の元服式を強行した。
管領(かんれい)上杉憲実(のりざね)はこれまでも度々主君持氏が幕府に反抗的態度をとるのを諫(いさ)めてきたが、これを機会に領国の上野(こうずけ)に帰る決意をし8月14日鎌倉を出奔(しゅっぽん)した。
持氏はこれを討つためこの日武蔵府中(むさしふちゅう)の高安寺(こうあんじ)に出陣した。
永享の乱の始まりである。
 幕府は憲実の要請に応じて2万5千の大軍を派遣し、憲実自らも武蔵の分倍河原(ぶばいがわら)で持氏の軍勢と対陣した。
幕府軍が関東に入り味方に裏切りが出ると、持氏はたちまち動揺して憲実に和平を申し入れ鎌倉に帰った。
そして翌年2月鎌倉永安寺(ようあんじ)で自殺した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

第三章 「天皇家」の成立
 4 権威の構造
  「将軍」のディレンマ


 称光(しょうこう)天皇に半年ほど先んじて、応永(おうえい)35年正月18日、前将軍足利義持(よしもち)が死去した。
後継者指名を求める周囲の嘆願を義持は最後まで容れなかったため、いずれも仏門に入っていた4人の弟を候補として籤が引かれ、当たった青蓮院義円(しょうれんいんぎえん)が「室町殿」を嗣ぐこととなった。
還俗(げんぞく)して当初「義宣」を名乗った後の義教が、後小松(ごこまつ)院のサボタージュに遭ったり、将軍宣下以前の自身の判を政務決裁に用いることを制せられたりしたことについては前述した。
つまり、「室町殿の後継者」というだけでは、義教が自ら政務を決裁することに十分な根拠とはならない。
義教の政治的な権能は、籤に示された「神意」に根拠を求められるものではなく、少なくともそのスタートにおいては、武家の長たる「将軍」という形式に依存するところが大きかったのである。
(『天皇の歴史4 天皇と中世の武家』河内祥輔、新田一郎 講談社学術文庫 2018年)

 そしてひとたび形式を獲得し条件を満たすや、義教はその形式の内部において苛烈な専制を揮(ふる)うわけだが、人為世界に与えられた形式によって作動した義教の「権力」のアキレス腱もまた、この形式性に存した。
こうした形式は義教のパーソナリティに固着したものではなく、原理的には、他に適格な担い手がおれば入れ替え可能である。
義教の嗣立当初に鎌倉公方足利持氏(もちうじ)への将軍宣下の風説が流れたのは、そのことのあらわれである。
持氏は義教の襲職以前から将軍の地位を望み、その後も同じ形式を争う競争相手として、しばしば義教に対する対抗意識を示していた。
その持氏との間に明示的な差をつける仕掛けが必要とされたのは永享(えいきょう)10年(1438)のこと、持氏と関東管領上杉憲実(のりざね)との対立に端を発した永享の乱において、持氏追討の軍を派遣するに際し、義教は後花園天皇に「治罰綸旨(ちばつりんじ)」の発給と「錦御旗」の賜与(しよ)を「隠密」のうちに求めたのである。

 今谷明氏は、「天皇権威の復活」を恐れた義教がこの「治罰綸旨」発給の事実を「京都ではひた隠しに秘匿した」としている(今谷『武家と天皇』岩波書店、1993年)。
錦旗調製の情報は比較的速やかに公家社会に伝わり、「関東御退治、朝敵御征伐のため」との理解もそれなりに流布していたようだが、西園寺公名(きんな)の日記には、1ヵ月ほど後に、「持氏追討のために治罰綸旨が発せられた」との「巷説」が書きとめられ、あらためて「錦御旗はこのためであったか」との推量が述べられ、ついで綸旨文案が書写されている。
義教が努めて秘匿しようとしたかは措き、綸旨発給にせよ錦旗賜与にせよ、京都社会に対して積極的に誇示はされなかったことが知られる。
持氏を「朝敵」として追討の対象とすることの効果は、もっぱら関東において発揮されることが期待されたのである。

 同じように持氏追討の命ずるにしても、遡って応永30年、持氏が関東の親京都派の武将を攻撃したのに対して、義持が今川範政(のりまさ)らに持氏追討を命じた際には、公家に奏請することなく、「武家御旗」を調製賜与している。
この局面では、この局面では、直接の対抗関係は追討軍を率いた今川範政らと持氏との間に設定され、その関係を条件づける作用が「武家御旗」に求められている。
この二つの事例の間には、「義持と持氏」「義教と持氏」の関係の差違が作用しているに違いない。
持氏は、義持に対しては同格の争いを挑んでいないが、義教に対しては義持の後継「将軍」の地位を争う姿勢を見せている。
そしていずれの事例においても、「御旗」の効用は、拮抗する関係の外部から条件を導入して有意な「差」を生み出すことに、求められるのであろう。

 こうしたことを踏まえてみるならば、桃崎有一郎氏が「錦御旗」の効果の勘所を「他者と同等の正当性を備えることに主眼があり、いわば正当性の相対的価値を主軸に備えた発想」に求めているのは、興味深い洞察である(桃崎「書評 菅原正子著 『中世の武家と公家の「家」』」『史学雑誌』118-2、2009年)。
桃崎氏はまた「地方で繰り広げられる権威・正当性誇示競争は案外そのようなレベルでしかなかった事例が少なくないのではないか」とも推測的に述べている。
問題は正当性の有無ではなく、拮抗する相手との間に差分を設け、あるいは相手方につけられた差分を打ち消して、相手と同等(以上)であることを誇示することにある。
ハードケースに解を導く条件が外部から導入される、という構図が、ここにも登場する。

 なお、嘉吉の乱で「将軍」を欠く状態で赤松満祐(あかまつみつすけ)追討の軍を起こす際、後花園天皇の治罰綸旨が求められた一方で、「公家御旗」の賜与は求められず、その理由として、細川持常・山名持豊が「武家御旗」を与えられて既に先発しており、「山名・細川よりも上の者で、只今御旗を給わって進発することができる者がいない」ことが挙げられている。
この局面で、少なくとも「御旗」に関する限りは、「公家御旗は武家御旗よりも上位の者に賜与される」という優劣の関係が認識されていたようである。

 こうして、「将軍」という形式は、ひとまずは京都社会において協力な作用を持ち、他の候補を排して義教に「天下の事を判断する」役割を付与することによって、その専制を演出したわけだが、その作用はそうした形式を生成し意味を付与するメカニズムの構造によって規定され、そこに公家政務の作用が介在する場合がある。
このことは勿論、「天皇の権威」というお馴染みの問題と関わり、水林彪氏が近世の天皇制について「武家政権にとっての『法』」と表現した(水林「近世天皇制研究についての一考察」『歴史学研究』596・597、1989年)構造へとつながる萌芽といえるのだが、その種の問題が政治史の表面に浮上したこの局面を指して「天皇の権威の復活」などと簡単に括ることは、必ずしも適切ではない。
この問題はまず、この世界における「権威」の仕組みに関わる。
(『天皇の歴史4 天皇と中世の武家』河内祥輔、新田一郎 講談社学術文庫 2018年)

ヘクソカズラの香り
 乙女たちの化学防衛

 残暑の街。線路際のフェンスでは、赤と白の釣り鐘の花が、つるいっぱいに咲いている。

 愛らしい花なのだが、名は気の毒にも「屁糞葛」。

そっと嗅ぐだけではわかならいが、花や茎葉を指先で揉むと、おならに似た強烈なにおいが鼻をつく。

野山や道端に多いアカネ科の多年草で、柔らかな毛の生えた茎で藪や垣根に巻きつく。

 花の中心の赤をお灸の火と見立ててヤイトバナ(灸花)、花の形を若い娘の乙女笠に見立ててサオトメバナ(早乙女花)など、優雅な名もなくはない。

普通、多年草とされるが、つるの一部は年を経て木質化することもある。

つるは強くしなやかなので、昔は柴(焚きつけに使う小枝)を束ねるのに使われた。

実の搾り汁はひびやあかぎれの民間薬にされた。

 花期は8~9月。

花筒の中には細い毛が密集している。

花は確実に花粉を運んでくれるハチにだけ報酬の蜜を支払い、行動範囲が狭く、花粉や雌しべに触れずに蜜を「盗む」アリに対しては毛のバリケードで侵入を妨げるのだ。

(後略)

(『したたかな植物たち―あの手この手のマル秘大作戦【春夏篇】』多田多恵子 ちくま文庫 2019年)

(ところでクマバチは体が大きく花筒に潜り込めませんし、舌も短いのでどうするか?)

自分の体より狭い花や、自分の舌よりも深い花では、しばしば花の横から穴を開けて蜜だけを盗む「盗蜜」がおこなわれる。
中にはクマバチのように、体が大きく舌が短いためほとんど盗蜜にたよっている種類もいる。
盗蜜するときハチは雄しべ・雌しべに触らないので、花は受粉できずに蜜を採られ損になってしまう。
(『虫のおもしろ私生活』ピッキオ編著 主婦と生活社 1998年)