2020年8月2日日曜日

刺すような日差し…

梅雨明けのニュースが入ってきたと思ったら、台風4号が発生。
沖縄では県独自に「緊急事態宣言」を出すほど、感染拡大が続いているほどなのに…

台風4号 あす先島諸島に最接近の見通し 暴風などに警戒を」(NHK)
今日は、日曜日とあって親子連れが多かったです。
3歳くらいの女の子がお父さんを写してあげていました。
遠くからなので分からなかったけど、ミラーレスかな?
将来、「カメラマンになりたい」といったらお父さん喜ぶかな(*´▽`*)
ミラーレスのように軽いカメラとレンズが欲しいな…
今朝も、日差しが刺さるような暑さの中、重たい望遠レンズで撮影している方に出会いました。
本当は、私も、望遠レンズで撮影したいのだけど歩くだけで精一杯(^-^;
サクラの太い枝が折れていました。
折れたところが赤い…
枝には赤いキノコがついていました(ヒイロタケ?)。

Ⅲ 樹木が受ける障害」(国土技術政策総合研究所研究資料 37/56)
望月衣塑子さんのTwitter

#臨時国会 は開かないのに、 #菅義偉 #官房長官 の会見は減らす?
#内閣記者会 の在京の一部の社だけで決めていい問題だろうか。
異論も出ないとは。


コロナ禍なのに?菅長官会見を削減 8月の「慣例」に「あり得ない」と危惧の声 #京都新聞
菅義偉官房長官も安倍首相にならって「逃走宣言」をしているのかな?
2020年7月22日の記事
最近、よく話題なるのが憲法53条なのですが、これを読むと、内閣が臨時会を開かないのは憲法違反になる。
また、衆議院解散、選挙をしない理由がわかるような気がする。

 第12講国会
 第4節活動法
 (二)臨時会

 「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」(53条)
 国会閉会中、臨時の必要に応じて召集される会期が臨時会である。
その召集の決定は内閣がおこない、憲法は、
(ア)内閣単独の判断による場合と、
(イ)一院の総議員の四分の一以上の要求をうけて義務的に決定する場合とを規定しているが、国会法は、さらに次の場合にその召集をなすべきことを規定している。
すなわち、衆議院議員の任期満了による総選挙、参議院議員の通常選挙があった場合には、他院の議員選挙期間中でない限り、新議員の任期開始の日から30日以内に召集しなければならない。
あたらしい議院の議長・副議長を選出する等、院内体制を早急に決定する必要が存するからである。
(後略)
(『憲法概説』小嶋和司 良書普及会 昭和62年)
8月2日
 政府がシベリア出兵を宣言した。 1918(大正7)年

 1917年のロシア革命以来、日本政府は革命の波及を防ぎ、さらにシベリアに勢力を拡大しようと、派兵のチャンスをねらっていた。
そうしたおり、ヨーロッパへ帰るため、ウラジオストックにむけて進軍中のチェコ軍がソビエト軍と衝突をおこした。
この事件は革命に干渉したいと考えていた列強にとって絶好の口実となった。
アメリカの同意を得てこの日、日本はチェコ軍救出を名目に出兵を宣言したのである。
その後、日本は約7万の軍を投入し、出兵後およそ3カ月でバイカル湖以東を勢力下に収めた。
しかし冬になると厳しい寒さで凍傷になるものが続出した。
さらにロシア人パルチザンの攻撃にも悩まされた。
4年2ヵ月の歳月をかけたにもかかわらず、1922年10月、日本軍は得るものもなくウラジオストックから引きあげた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
米価が徐々に上がっている時にシべリア出兵が発表されると、米を買い占める動きがでて、そのために、米が不足して値上がりし、米騒動が大きくなる原因となりました。
シベリア出兵について『日本の歴史22 政党政治と天皇』より転記しますφ(..)
第二章 第一次世界大戦と日本の跳躍
 シベリア出兵の実施


 アメリカ合衆国政府内では、日本の極東における膨張政策を警戒していた。
また、本野一郎(もとのいちろう)外相と同様に、「古き良きロシア」への共鳴から、革命後のレーニン政権を倒したいとの感情もあった。
しかし、高原秀介氏によると、アメリカ合衆国は第一次世界大戦に全力を尽くしており、多数の兵力をシベリアに派兵する余裕がなく、軍を中心に慎重論も強かった。
熱心なクリスチャンで、元大学教授の理想主義者のウィルソン大統領は、シベリア出兵への強い名目がないことから、出兵するか否かを迷っていた。
そこに1918年(大正7)6月、チェコスロバキア兵救出問題が起こった。
(『日本の歴史22 政党政治と天皇』伊藤之雄 2010年 講談社学術文庫)
 チェコスロバキア兵は、オーストリア=ハンガリー帝国からの独立をめざしたチェコ人・スロバキア人がロシア帝国の支援を受けて軍団を結成していた。
十一月革命後、レーニン側と対立し、シベリア鉄道経由でウラジオストックに出て海路ヨーロッパに帰ろうとしていた。
 1918年1月8日、ウィルソン大統領は、十四ヵ条の平和綱領を発表し、第一次世界大戦の大義を公表しており、民族自決はその重要な柱であった。
チェコ人・スロバキア人が少数ながら民族の大義を掲げて奮闘しており、これを見殺しにするのは人道上許されず、チェコ軍団を早く救出すべきである、との世論が出てきた。
そこで同年7月6日、アメリカ合衆国は、この限定的な目的のもとに、アメリカ合衆国軍7千名と同数の日本軍をまずウラジオストックに集結させる方針を決定した。
 アメリカ合衆国の提議は、7月10日朝に前任の本野外相の後を継いだ後藤新平(ごとうしんぺい)外相に伝えられた。
後藤外相も参謀本部も、外的制約を受けずに、必要なだけの部隊をシベリアに派遣するとの方針であった。
7月12日の閣議で、このようなアメリカ合衆国への回答案は了承され、山県有朋(やまがたありとも)も支持していた。
 外交調査会では、7月16日、原敬(はらたかし)・牧野伸顕(まきののぶあき)が対米協調を重視して政府の方針を批判した。
ジャーナリズムでも、7月17日付で『大阪朝日新聞』が、出兵の理由および目的が明らかでないと出兵を批判したように、出兵への批判が強かった。
そこで、翌17日にアメリカ合衆国政府を刺激するような字句を修正する形で、妥協がなされた。
これは、アメリカ合衆国との共同出兵という名目の下に、日本独自の出兵を行う余地を残したものであった。
 原が妥協したのは、第一に、寺内正毅(てらうちまさたけ)首相から、出兵兵力が平時編成か戦時編成かのいずれにしても、二個師団を超えないことや、アメリカ合衆国から提議があれば協議を進める等の、出兵数や日米協議ので保障を引き出したからである。
第二に、それ以上に、政府の出兵提案に山県が賛成であることを原が察知していたこと(『原敬日記』)が、重要であった。
 すでに述べたように、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣以来、原の政治戦略は、山県ら山県系官僚閥と妥協して、政友会の基盤を再強化し、寺内内閣の次の政権を獲得して、政党内閣を実現することであった。
寺内内閣成立から2年近くなるこのこの時期に、シベリア出兵をめぐって山県系官僚閥と正面から衝突することは、政権への夢を雲散(うんさん)させる可能性が強かった。
おそらく原は、原内閣さえできてしまえば、日米関係の調整やシベリアからの撤兵は、それほど困難でないだろうと、自らを納得させたのであろう。
 こうして、1918年8月3日に軍司令部が形成され、翌4日に浦塩(ウラジオ)派遣軍司令部と命名された(9日付で大谷喜久蔵<おおたにきくぞう>大将が司令官に任命)。
8月23日には第二師団(仙台)に、24日には第三師団(名古屋)に出動命令が下った。
満州駐在中の第七師団(旭川)は北満州里(まんしゅうり)に北上し、28日、その一部がザバイカル州進攻を開始した。
出兵宣言から三ヵ月経った11月4日の陸軍省の調査によると、この時点の出征部隊の人員総計は7万2千4百人にのぼった(7万3千4百人という数字をあげる陸軍省内部の資料もある)。
1918年中にシベリアに派遣された連合国の部隊は、アメリカ合衆国軍9千人、イギリス軍(含カナダ軍)5千8百人、中国軍2千人、イタリア軍1千4百人、フランス軍1千2百人と、日本軍が抜きん出て多かった。
この日本軍の兵力は、将兵を2倍に増強した戦時編成の三個師団であり、寺内首相の二個師団以内という言質(げんち)すら守られなかった。
(『日本の歴史22 政党政治と天皇』伊藤之雄 2010年 講談社学術文庫)