2020年8月7日金曜日

我慢の季節…

 

暑いと文句を言っても始まらない…
キジバトのように無の境地(?)になって我慢我慢…
昼にはもう…
西・東日本 太平洋側中心 すでに猛暑日も 熱中症に警戒」(NHK)

もう「六道参り」の時期なんですね。
今年は、感染防止のために初盆を迎える人に限定されているそうです。

お盆を前に「六道まいり」〟(関西NHK)

「きみたち日本人は腹が立たないのか」チェ・ゲバラは、広島の原爆資料館で憤った。〟(安藤健二 HUFFPOST 2020年8月6日) 

チェ・ゲバラが日本を訪れていたことを知らなかったなぁ!
映画のことも知らなかった…

映画「エルネスト」が伝える“ゲバラの真実” 「なぜ日本人は怒らないのだ!?」とゲバラは広島で怒った〟(産経WEST 2017年10月13日)

8月7日
 室町幕府が撰銭令(えりぜにれい)を出した。 1508(永正<えいしょう>5)年

 近年、新潟県湯沢(ゆざわ)町で一カ所から27万枚余という大量の銭(ぜに)が発掘された。
そのうちでは、621年唐で鋳造(ちゅうぞう)された開元通宝(かいげんつうほう)が最も古く、数もかなり多い。
宋や元、明(みん)の銭も多く出土した。
わが国の皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん<奈良・平安時代の12種の銭貨>)は少ない。
 鎌倉・室町幕府は貨幣を発行しなかったので、商業や年貢の納入には中国から輸入した渡唐銭(ととうせん)が使われた。
しかし次第に悪質の私鋳銭(しちゅうせん)も多く出まわり、悪銭の授受(じゅじゅ)をめぐって混乱や争いが絶えなかった。
そのため幕府は1500年からたびたび撰銭令を出して、みだりに銭を撰(え)ることを禁止した。
この日の撰銭令もその一つで、京銭(きんせん)、打平(うちひらめ)を悪銭として排除するとともに、その他の銭を精銭と定め、撰銭を禁じた。
新しい明の永楽(えいらく)・洪武銭(こうぶせん)などは三分の一の割合で使用するよう命じた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)

日本の歴史 11戦国大名』より 「えりぜに」を転記しますφ(..)

村の姿
 えりぜに

 政基(まさもと)は永正元年(1504)5月1日、近臣の長法寺というものに、こっそりと番頭らを集めさせ、三カ条の村定(むらさだめ<村法>)を言い渡せさせた。
(『日本の歴史 11戦国大名』杉山博 中公バックス 1971年)

 一、当村の米麦などを他郷の商人に売ってはいけない。
 もし売買しているものがいたら、番頭と職事らは、見つけしだいに没収して上納せよ。

 二、料足(りょうそく<貢納銭>)のうち、永楽銭は往古から使用してきたところである。
 しかるに近ごろは、これを撰(えら)んでいる(排斥している)。
 まことに理由のないことだ。
 ただし貢納銭百文のうち、永楽銭が二十文以上あったら、これをえらべ。

 三、破銭(われぜに<破損銭>)・今銭(きんぜに<南京銭・京銭とも書く>)・洪武銭(こうぶぜに)は、これをえらべ。

 この中の第二、第三条はえりぜに(撰銭)にかんするものである。
貨幣経済が泉南の一山村をもその流通網のなかに組みこんだ結果、反銭は銭納され、年貢をとる政基にしてみれば、良貨・悪貨を撰別する必要があったのだ。

 ここで政基のえりぜにからはなれて、えりぜに一般について述べておこう。
 日明(みちみん)貿易によって、幕府や大内・細川両氏は多量の銅貨を輸入した。
その種類は、洪武通宝・永楽通宝・宣徳(せんとく)通宝・弘治(こうじ)通宝などであり、新銭(制銭)といわれ、わが国に入って渡来銭ともよばれた。
これらはいずれも一貫文・五百文・三百文・二百文・百文の小銭であった。
新銭は当時の明国でも悪銭とされ、わが国でも歓迎されたわけではない。
貨幣の需要に追われた幕府や諸大名らが、唐・宋・元から渡来した古銭の代わりに輸入したものである。

 当時の日本には、唐・宋・元の古銭のほかに、日本古来の皇朝十二銭があり、これに明の新銭が加わっていた。
このほか、貨幣の流通するところかならず私鋳銭(しちゅうせん)がつきものであるが、日本と明国でつくられた私鋳銭が氾濫していた。
こうなると、最初のうちは悪銭といわれていた新銭は、その品質・品位が古銭と近かったので、16世紀中・末期には良銭とよばれるようになっていた。
したがって、古銭・皇朝十二銭・新銭を良銭とし、それ以外は一括して悪銭とされた。
撰銭令の発布を考える場合には、はじめ永楽銭はけっして良銭でなかったことを忘れてはならない。
洪武・永楽などの新銭は、いわば良銭と悪銭との中間的貨幣であった。

 悪銭を大別すると、まず日・明両国の私鋳銭、いま一つは破損・磨滅などによって不完全となった破欠(われかけ)銭であった。
この悪銭を、良銭とおなじ表示価格で流通させておくと、良銭はたちまち市場から姿を消すことになる。
なぜなら、人々は良銭ばかりを貯蓄し、それを溶かして悪銭をつくりはじめるし、窃盗のときも良銭ばかりを盗むようになるからである。
つまり、悪貨が良貨を追放するというグレシャムの法則である。

 このため、幕府や諸大名は、ともに撰銭令をださざるをえなくなった。
つぎに大内氏が出した撰銭令を例としてあげてみよう。

 一、反銭の上納のときは、えりぜにをして納めよ。そのときは、百文に永楽・宣徳通宝を二十文まで混入して納めよ。(大内氏掟書)

 一、里で使用したり、売買取引きのときは、永楽・宣徳通宝はえりぜにをするな。
 さかい銭と洪武銭と打平(うちひらめ)の三種だけをえらべ。
 しかしこのように定めたからといって、永楽・宣徳通宝ばかりを使用してはいけない。
 この二つは百文のうちに三十文まで混用すること。(大内氏掟書)

 一、近年さかんにえりぜにをやっているが、けしからぬ。
 日本の新鋳の私鋳銭は、これを厳密にえらばなければいけないが、永楽・洪武・宣徳の渡唐銭は、えりぜにせずに流通させること。
 ただしほかの銭と混用して使え。(追加法)

 これらの撰銭令はいずれも15世紀末か16世紀はじめのもので、幕府や諸大名らが、悪銭である永楽銭を良銭として使用させようとして、発布したものである。
幕府や諸大名らは、輸入した多量の新銭をなんとかして流通経済の中で、悪銭としてではなく良銭として使用させたかったのである。
さきほどみた政基の村定三カ条に述べられた、えりぜにについての規定は、この幕府の撰銭令を忠実に守ったもので、反銭納入の場合に限られていた。
大内の場合は、さらに市場や村々でおこなわれるえりぜにのことまで規定し、えりぜにを領国経営策の一つとしてとらえていた。
ここに没落貴族と新興大名の現実に対する感覚の相違を読みとることもできるだろう。
(『日本の歴史 11戦国大名』杉山博 中公バックス 1971年)

今朝の父の一枚です(^^)v
休憩所をネットで囲んでいるようですが…
父に聞くと朝顔の鉢植えがあったそうです。
これから朝顔が伸びてのびて日除けになってくれるのでしょうね(^^)v