2014年8月15日金曜日

愛染堂~四天王寺

愛染坂
その名のとおり,坂の下り口にある愛染堂勝鬘院から名付けられた.
愛染さんの夏祭り(6月30日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られ,境内の多宝塔は市内最古(文禄3年)の建造物で,重要文化財と指定されている.
大江神社には「夕陽岡」に碑があり,このあたりからの夕焼けは今も美しい.
(説明板などを転記していますが,間違いがあると思います(o_ _)o…)
愛染堂勝鬘院
創立年代・沿革は明らかではないが,聖徳太子が四天王寺を建立した際の施薬院(せやくいん)の後身といわれる.
勝鬘院の名は,太子がこの地で勝鬘経(しょうまんきょう)を講じたことに由来し,その後,金堂(府文化)に愛染明王が本尊として奉安されたことから,大阪市民の間では「愛染さん」の名で知られている.
愛染明王は男女の愛情を司る神で,縁結びの利益を求めて祈願する人が絶えない.
(『大阪府の歴史散歩 上 』大阪府の歴史散歩編集委員会編 山川出版 2007年)
藥医門(やくいもん)
境内にある樹齢数百年のカツラの木に,ノウゼンカヅラが巻きついて一体となった「愛染かつらの木」は,縁結びの霊木として有名で.勝鬘院は,映画「愛染かつら」の舞台ともなった.

金堂
金堂北側の多宝塔(国重文)は,593年に聖徳太子によって創建されたものと伝えられるが,戦国時代の石山合戦(1570~80年)のおり,織田信長によって焼き払われた.
その後,1597(慶長2)年,豊臣秀吉によって戦勝祈願のため再建されたという.
大阪市内最古の木造建築物で,塔の内部には,大日大勝金剛尊(だいにちだいしょうこんごうそん)が奉安され,内壁には,極彩色の壁画が描かれている.
多宝塔
宝塔は推古天皇元年(593年)聖徳太子の創建.
慶長2年(1597年)豊臣秀吉が再建した.
高さ22メートル,建坪32平方メートル,三手先造り,本瓦葺き,極彩色.
様式は桃山時代で,当時の粋を集め豪華雄大,彫刻壁画亦妙技を尽くしている.
明治35年サンフランシスコで万国博覧会が開催された時,日本建築の代表として,この塔の模型を出展した.
明治42年国宝建造物に指定された.
ご本尊は大日大勝金剛尊.
勝利開運の本尊として民衆の信仰が篤く,毎年愛染まつりに開扉される.
(説明板より)
願成稲荷明神(がんじょういなりみょうじん)
この稲荷明神は,豊臣秀吉が当寺を再建した時,厄除の鎮守として秀吉誕生の地である豊川の稲荷尊を勧請して奉安した蛇袛尼尊です.
古くから,よく衆生の願いを成就し,福徳財宝を授け給うが故に,「願成稲荷明神」といいます.

出世白竜明神(しゅっせはくりゅうみょうじん)
豊臣秀吉が陶磁に日月梅を献植した際,古くから存在した梅の枯木の中から銀鱗の白蛇が出現しました.
秀吉はここに社宇を建立し,この白蛇を奉安しました.
白竜明神のご神体は,弁財天です.
この明神を信仰し,一心に念ずれば諸運が開け,立身出世がかなうということから,「出世白竜明神」といいます.
愛染めの霊水
この井戸は常に清浄の霊水が湧き出で,この井水を飲めば愛染明王の御本誓により愛念を叶え,病癒え運を開き給う.
古歌に
「ほらぬ井にたまらぬ水の汲みたてゝ
    影も形もなき人ぞ汲む」
かくの如き霊水なれば,この井水にて染め物をなせば,色彩よく染まるをもって昔より,藍商者(あいだまや)の門に信仰が盛んであって,俳句に
「賑わしや愛染詣での紺屋づれ」
井戸屋形は豊公の建立であったが,昭和20年3月14日の戦災のため焼失した.


境内奥に鎮座する狛虎は江戸時代に祀られていた毘沙門天の守護で、明治の神仏分離で「吽形」が滋賀に移され、残った「阿形」も大阪大空襲で焼夷弾を受け、耳がとれ歯も欠けてしまいました。
そこで平成十五年八月、地元有志が「狛虎を一対にしたら優勝するのでは」と「吽形」の狛虎をつくり、そしてその年、阪神タイガースは十八年ぶりに優勝しました。
マスコミにも大きく取り上げられ、今ではタイガースの守り神として、多くのファンがお参りされています。大江神社HPより
愛染堂と大江神社は,両親より早く電車に乗って訪ねました.
その後,両親と妹に合流.
四天王寺の
石舞台は亀の池の橋上にあり,1623(元和9)年に素木(しらき)造りから石造りにかえられた.
今日は,義弟の法要でお参りしました.
石舞台の北にある建物は,六時堂(ろくじどう,国重文)とよばれ,平安時代に天台宗との関係を深めたことにより,比叡山延暦寺の根本中堂を模して建造されたものと伝えられている.
昼夜6度,礼賛(らいさん)をすることからこの名がついた.
現在の堂は,寺の西北にあった椎寺薬師(しいでらやくし)堂(1632年建立)を,1811(文化8)年に移築したものである.
元旦から14日まで,ここで行なわれる修正会(しゅしょうえ)は,旧年の悪習を正し,新年の天下泰平と五穀豊穣祈願する法要であるが,その結願(けちがん)の14日に行なわれる裸祭りは,「どやどや」とよばれている.
境内の亀井の水は天王寺七名水の一つで,唯一,現在でも清水が湧出(ゆうしゅつ)するものである.
故人を追善(ついぜん)するために,戒名を記した経木(きょうぎ)を流す人の姿が,今でも絶えない.
1007(寛弘4)年に発見された,太子直筆といわれる「四天王寺縁起」に,この地が西方極楽浄土の東門と書かれていたことから,藤原道長・頼通(よりみち)を始め,貴族・皇族らの参詣が続き,国家的寺院から信仰の寺へと性格がかわっていった.
鎌倉時代以降は,源頼朝を始めとする武家の参詣も増加し,庶民の四天王寺参詣も盛んになった.
1294(永仁2)年には,四天王寺別当となった忍性(にんしょう)により,西門(さいもん)信仰の象徴ともいうべき石鳥居(いしどりい/国重文)が建てられた.
縁起に由来する「釈迦如来 転法輪処(てんぽうりんしょ) 当極楽土(とうごくらくど) 東門中心(とうもんちゅうしん)」という扁額(へんがく)がかかっている.

今日は,午前中にお参りしたのですが,厳しい暑さに母の体調が心配になりました.
母は無理せず,法要が終わるまで休憩所で待っていました.