2023年6月13日火曜日

風が吹いてほしいなぁ

今朝も蒸し暑かったです。
風が吹いてくれたらと思ったけど…
6月は「風待月」ともいうそうです。
 水無月(みなづき) なぜ水無月と呼ぶのか?
   風待月(かぜまちづき) 常夏月(とこなつづき) 青水無月(あおみなづき)

「常夏月」「風待月」、青葉の茂る時期なので「青水無月」などともいわれる。
語源には諸説あり、それぞれ面白い。
梅雨が明け、陽暦では7~8月に当たるため、炎暑で水が無くなるから「水無月」になったと一般的にいわれている。
しかし水無月の「無」は無いという意味ではなく、連体助詞「の」の意味合いで使われていて本当は「水の月」なのだ。
田に水を引く時期なので、水の月、水無月とした説がある。
また、この時期は、田植えという大仕事が終わった頃にあたり、農事をみなし尽くした→皆仕尽(みなしつき)→みなづき、と変化したという説。
また、5月に植えた早苗がみな根づいた意の、皆づくから来たという説もある。
(『季語ものしり事典』新海均 角川文庫 令和3年)
 この月の晦日(みそか)限りで夏が終わるので、六月晦日は水無月尽(じん)といい、大晦日を年越というのに対して、夏越(なごし)という。
この時期は稲作や麦作などへの虫害・風害などを警戒する大切な時でもあるので、各地の神社では夏越の神事が行われる。

  本閉ぢて青水無月の山を前  名取里美
(『季語ものしり事典』新海均 角川文庫 令和3年)
 「酒ぎらひ」つづき

 Y君に、A君と、二人そろつて私の家に遊びに来てくれることだけでも、私にとつて、大きな感激なのに、いままた、W君と二十年ぶりに相逢ふことのできるのであるから、私は、三日もまへから、そはそはして、「待つ」といふことは、なかなか、つらい心理であると、いまさらながら痛感したのである。
(『太宰治全集 第十巻』太宰治 筑摩書房 昭和52年)
 よそから、もらつたお酒が二升あつた。
私は、平常、家に酒を買つて置くといふことは、きらいひなのである。
黄色く薄濁りした液体が一ぱいつまつて在る一升瓶は、どうにも不潔な、卑猥な感じさへして、恥づかしく、眼ざはりでならぬのである。
台所の隅に、その一升瓶があるばつかりに、この狭い家全体が、どろりと濁つて、甘酸つぱい、へんな匂ひさへ感じられ、なんだか、うしろ暗い思ひなのである。
家の西北の隅に、異様に醜怪の、不浄のものが、とぐろを巻いてひそんで在るやうで、机に向つて仕事をしてゐながらも、どうも、潔白の精進が、できないやうな不安な、うしろ髪ひかれる思ひで、やりきれないのである。
どうにも、落ちつかない。
 夜、ひとり机に頬杖ついて、いろんなことを考へて、苦しく、不安になつて、酒でも呑んでその気持を、ごまかしてしまひたくなることが、時々あつて、そのときには、外へ出て、三鷹駅ちかくの、すしやに行き、大急ぎで酒を呑むのであるが、そんなときには、家に酒が在ると便利だと思はぬこともないが、どうも、家に酒を置くと気がかりで、そんなに呑みたくないのに、ただ、台所から酒を追放したい気持から、がぶがぶ呑んで、呑みほしてしまふばかりで、常住、少量の酒を家に備へて、機に臨んで、ちよつと呑むといふ落ちつき澄ました芸は、できないのであるから、自然、All or Nothingの流儀で、ふだんは家の内に一滴の酒も置かず、呑みたい時は、外へ出て思ふぞんぶんに呑む、といふ習慣がついてしまつたのである。
友人が来ても、たいてい外へ誘ひ出して呑むことにしてゐる。
家の者に聞かせたくない話題なども、ひよいと出るかも知れぬし、酒は勿論、酒の肴も、用意が無いので、つい、めんだうくさく、外へ出てしまふのである。
大いに親しい人ならば、さうしておいでになる日が予めわかつてゐるならば、ちやんと用意をして、徹宵、くつろいで呑み合ふのであるが、そんな親しい人は、私に、ほんの数へるほどしかない。
そんな親しい人ならば、どんな貧しい肴でも恥づかしくないし、家の者に聞かせたくないやうな話題も出る筈はないのであるから、私は大威張りで実に、たのしく、それこそ痛飲できるのであるが、そんな好機会は、二月に一度くらゐなもので、あとは、たいてい突然の来訪にまごつき、つい、外へ出ることになるのである。
なんといつても、ほんたうに親しい人と、家でゆつくり呑むのに越した楽しみは無いのである。
ちやうどお酒が家に在るとき、ふらと、親しい人がたづねて来てくれたら、実に、うれしい。
友あり、遠方より来る、といふあの句が、おのづから胸中に湧き上る。
けれども、いつ来るか、わからない。
常住、酒を用意して待つてゐるのでは、とても私は落ちつかない。
ふだんは一滴も、酒を家の内に置きたくないのだから、その辺なかなか、うまく行かないのである。
 友人が来たからと言つて、何も、ことさらに酒を呑まなくても、よささうなものであるが、どうも、いけない。
私は、弱い男であるから、酒も呑まずに、まじめに対談してゐると、三十分くらゐで、もう、へとへとになつて、卑屈に、おどおどして来て、やりきれない思ひをするのである。
自由闊達に、意見の開陳など、とてもできないのである。
ええとか、はあとか、生返事してゐて、まるつきり違つたことばかり考へてゐる。
絶えず愚かな、堂々めぐりの自問自答を繰りかへしてゐるばかりで、私はまるで阿呆である。
何も言へない。
むだに疲れるのである。
どうにも、やりきれない。
酒を呑むと、気持を、ごまかすことができて、でたらめ言つても、そんなに内心、反省しなくなつて、とても助かる。
そのかはり、酔がさめると、後悔もひどい。
土にまろび、大声で、わあつと、わめき叫びたい思ひである。
胸が、どきんどきんと騒ぎ立ち、ゐても立つても居られぬのだ。
なんとも言へず侘しいのである。
死にたく思ふ。
酒を知つてから、もう十年にもなるが、一向に、あの気持に馴れることができない。
平気で居られぬのである。
慚愧、後悔の念に文字どほり転輾する。
それなら、酒を止せばいいのに、やはり、友人の顔を見ると、変にもう興奮して、おびえるやうな震へを全身に覚えて、酒でも呑まなければ、助からなくなるのである。
やくかいなことであると思つてゐる。
…つづく…
(『太宰治全集 第十巻』太宰治 筑摩書房 昭和52年)
これは、昨日の父の一枚です(^^)/
スズメがまるまった葉っぱを振り回していたそうです。
中に朝ご飯がいたのだと思います。
昨日のEテレ0655の「ちっちゃいミステリー」♪で、スズメの砂浴びが登場していました。

汚れたスズメは砂風呂に入る
…前略…

 そして、スズメは大のお風呂好き。
池や川、ちょっとした水溜りなどで「水浴び」もしますし、砂を使った「砂浴び」もします。
植木鉢や花壇、街路樹の根元を覆う砂や土に、浅いくぼみがいくつか並んでいることがあります。
これが、スズメが「砂浴び」をした跡です。
くぼみにすっぽりはまって翼を震わせ気持ちよさそうにしているさまは、砂風呂を楽しむ湯治客のよう。
砂浴びや水浴びは、羽毛や皮膚の汚れを落とし、ハジラミなどの寄生虫を取り除くのが目的だと考えられています。
ベランダのプランターに乾いた土を入れておけば、スズメが一風呂浴びにやってくるかもしれません。
…後略…
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)

今朝の「ちっちゃいミステリー」♪は、カタツムリでした。