日本海から瀬戸内海へ…
夜に来襲すると避難が難しくなる。
「台風14号 あす西日本に上陸のおそれ 早めの対策や安全確保を」(NHK)
夜の行動は非常に危険 明るいうちに備えを
台風の眼は、「台風の中心付近で風が弱く雲が少ない部分」と用語の解説にある。
「熱帯低気圧」は、熱帯または亜熱帯地方に発生する低気圧の総称で、風の弱いものから強いものまであるが、気象情報で「熱帯低気圧」という場合は、台風に満たない、低気圧域内の最大風速が毎秒約17メートル未満のものを指している。
野分は秋の暴風のことで、とくに「二百十日」や「二百二十日」前後に猛烈な風が吹くことが多いと言われる。夜に来襲すると避難が難しくなる。
「台風14号 あす西日本に上陸のおそれ 早めの対策や安全確保を」(NHK)
夜の行動は非常に危険 明るいうちに備えを
この時期に来襲したのが第2室戸台風です。
自然災害の映像記録「第2室戸台風 1961年(昭和36年) 9月15日~17日」(NHKアーカイブス)
【被害状況】
死者194人、行方不明者8人。
住家の全半壊一部破損499,444棟、床上床下浸水384,120棟。<理科年表 2021>
自然災害の映像記録「第2室戸台風 1961年(昭和36年) 9月15日~17日」(NHKアーカイブス)
【被害状況】
死者194人、行方不明者8人。
住家の全半壊一部破損499,444棟、床上床下浸水384,120棟。<理科年表 2021>
颱風(たいふう)<台風・颱風裡(たいふうり)・颱風禍(たいふうか)・颱風の眼> 仲秋 天文
野分(のわき)<野分立つ・野分中・野分後(のわきあと)・夕野分(ゆうのわき)・野分雲・野分晴(のわきばれ)>仲秋 天文
台風は「颱風」とも書く。
沖縄言葉で「カヒフチ(風吹き)」や「テーフー(台風)」という表現がある。
タイフーンの語の由来は、ギリシア神話に登場する巨大な怪物テュポンだとする説が有力である。
明治の初めにはタイフーンまたは大風(おおかぜ)と表していた。
明治末頃、気象学者の岡田武松(おかだたけまつ)によって颱風という言葉が生まれ、1956(昭和31)年の書き替え制定で「台風」となった。
現在の台風予報は、「台風予報の図表示方法の指針」に沿った内容で、実況と5日先までの予報である「台風の実況」と、24時間先までの「台風の予報」とが発表されるが、予報を超える風が吹くこともあるので注意が必要である。
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
北大西洋や南シナ海に存在する熱帯低気圧のうち、中心付近の最大風速が毎秒17.2メートル以上のものを指すというのが気象庁の定義である。野分(のわき)<野分立つ・野分中・野分後(のわきあと)・夕野分(ゆうのわき)・野分雲・野分晴(のわきばれ)>仲秋 天文
台風は「颱風」とも書く。
沖縄言葉で「カヒフチ(風吹き)」や「テーフー(台風)」という表現がある。
タイフーンの語の由来は、ギリシア神話に登場する巨大な怪物テュポンだとする説が有力である。
明治の初めにはタイフーンまたは大風(おおかぜ)と表していた。
明治末頃、気象学者の岡田武松(おかだたけまつ)によって颱風という言葉が生まれ、1956(昭和31)年の書き替え制定で「台風」となった。
現在の台風予報は、「台風予報の図表示方法の指針」に沿った内容で、実況と5日先までの予報である「台風の実況」と、24時間先までの「台風の予報」とが発表されるが、予報を超える風が吹くこともあるので注意が必要である。
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
台風の眼は、「台風の中心付近で風が弱く雲が少ない部分」と用語の解説にある。
「熱帯低気圧」は、熱帯または亜熱帯地方に発生する低気圧の総称で、風の弱いものから強いものまであるが、気象情報で「熱帯低気圧」という場合は、台風に満たない、低気圧域内の最大風速が毎秒約17メートル未満のものを指している。
野分のあとの景色に風情があると描かれてきた。
野分は、熱帯低気圧による台風とは異なる概念の暴風で、江戸時代の文学や俳句に季語としてよく登場するが、『枕草子』や『源氏物語』など、平安時代にすでに登場していた。
『源氏物語』第二八帖の題が「野分」で、光源氏36歳の秋、8月のある日、激しい野分が都を吹き荒れる六条院を舞台に描かれる物語である。
家中の水鮮しき野分あと 正木ゆう子
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年) 国立公文書館のTwitterに
今日(9/16)はマッチの日。
日本初の自作マッチは蘭学者川本幸民によるといわれています。
大正4年(1915)の大礼贈位の候補にも挙がりました(画像は「大正大礼贈位内申書」)。
銓衡の結果、贈位は行われませんでしたが、その幅広い業績は多くの学問分野に影響を与えました。
簿冊標題:大正大礼贈位内申書巻三十一「故 川本幸民(文部省・兵庫県)」 震災日記より
九月二日 曇
朝大学へ行って破損の状況を見廻ってから、本郷通りを湯島(ゆしま)五丁目辺まで行くと、綺麗に焼払われた湯島台の起伏した地形が一目に見え上野の森が思いもかけない近くに見えた。
兵燹(へいせん)という文字が頭に浮んだ。
また江戸以前のこの辺の景色も想像されるのであった。
電線がかたまりこんがらがって道を塞(ふさ)ぎ焼けた電車の骸骨(がいこつ)が立往生していた。
土蔵もみんな焼け、ところどころ煉瓦塀の残骸が交っている。
焦げた樹木の梢(こずえ)がそのまま真白に灰をかぶっているのもある。
明神(みょうじん)前の交番と自働電話だけが奇蹟(きせき)のように焼けずに残っている。
(『ピタゴラスと豆』寺田寅彦 角川文庫 2020年)松住町(まつずみちょう)まで行くと浅草下谷方面もまだ一面に燃えていて黒煙と焔(ほのお)の海である。
煙が暑く咽(むせ)っぽく眼に滲(し)みて進めない。
その煙の奥の方から本郷の方へと陸続と避難してくる人々の中には顔も両手も火膨(ひぶく)れのしたのを左右二人で肩に凭(もた)らせ引きずるようにして連れてくるのがある。
そうかと思うとまた反対に向うへ行く人々の中には写真機を下げて遠足にでも行くような呑気(のんき)そうな様子の人もあった。
浅草の親戚(しんせき)を見舞うことは断念して松住町から御茶(おちゃ)の水(みず)の方へ上って行くと、女子高等師範学校の庭は杏雲堂(きょううんどう)病院の避難所になっていると立札が読まれる。
御茶の水橋は中ほどの両側が少し崩れただけで残っていたが駿河台(するがだい)は全部焦土であった。
明治大学前に黒焦の死体がころがっていて一枚の焼けたトタン板が被(かぶ)せてあった。
神保町(じんぼうちょう)から一(ひと)ツ橋(ばし)まで来てみると気象台も大部分は焼けたらしいが官舎が不思議に残っているのが石垣越しに見える。
橋に火がついて燃えているので巡査が張番していて人を通さない。
自転車が一台飛んできて制止にかまわず突切って渡っていった。堀に沿うて牛が淵(ふち)まで行って道端で憩(いこ)うていると前を避難者が引切なしに通る。
実にいろんな人が通る。
五十恰好(かっこう)の女が一人大きな犬を一匹背中におぶっていく、風呂敷(ふろしき)包一つ持っていない。
浴衣(ゆかた)が泥水でも浴びたかのように黄色く染まっている。
多勢の人が見ているのも無関心のようにわき見もしないで急いでいく。
若い男で大きな蓮(はす)の葉を頭にかぶって上から手拭(てぬぐい)でしばっているのがある。
それからまた氷袋を入れたのを頭にぶら下げて歩きながら、時々その水を煽(あお)っているのもある。
と、土方(どかた)ふうの男が一人縄で何かガラガラ引きずりながら引っぱってくるのを見ると、一枚の焼けトタンの上に二尺角くらいの氷塊をのっけたのをなんとなく得意げに引きずっていくのであった。
そうした行列の中を一台立派な高級自動車が人の流れに堰(せ)かれながらいるのを見ると、車の中にはたぶん掛物でも入っているらしい桐の箱がいっぱい積込まれて、その中にうずまるように一人の男が腰をかけてあたりを見廻していた。 帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難してきていた。
いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て〇〇人の放火者が徘徊(はいかい)するから注意しろと云ったそうだ。
井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説(ふせつ)が聞こえてくる。
こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入るのであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分はその説は信ぜられなかった。 夕方に駒込(こまごめ)の通へ出てみると、避難者の群が陸続と滝野川(たきのがわ)の方へ流れていく。
表通の店屋などでも荷物を纏(まと)めて立退用意をしている。
帰ってみると、近所でも家を引払ったのがあるという。
上野方面の火事がこの辺まで焼けてこうようとは思われなかったが万一の場合の避難の心構だけはした。
さて避難しようとして考えてみると、どうしても持出さなければならないような物はほとんど無かった。
ただ自分の描き集めた若干の油絵だけがちょっと惜しいような気がしたのと、人から預かっていたローマ字書きの書物の原稿に責任を感じたくらいである。
妻が三毛猫だけ連れても一匹の玉の方を置いていこうと云ったら、子供らがどうしても連れていくと云ってバスケットかなんかを用意していた。九月三日(月曜)曇後雨
朝九時ごろから長男を板橋(いたばし)へやり、三代吉を頼んで白米、野菜、塩などを送らせるようにする。
自分は大学へ出かけた。
追分の通の片側を田舎へ避難する人が引切なしに通った。
反対の側はまだ避難していた人が帰ってくるのや、田舎から入込んでくるのが反対の流れをなしている。
呑気(のんき)そうな顔をしている人もあるが見ただけでずいぶん悲惨な感じのする人もある。
負傷した片足を引きずり杖にすがっていく若者の顔にはどこへ行くというあてもないらしい絶望の色があった。
夫婦して小さな躄車のようなものに病人らしい老母を載せて引いていく、病人が塵埃(じんあい)で真黒になった顔を俯向(うつむ)けている。 帰りに追分辺でミルクの缶やせんべい、ビスケットなど買った。
焼けた区域に接近した方面のあらゆる食料品屋の店先はからっぽになっていた。
そうした食料品の欠乏が漸次に波及していく様が歴然とわかった。
帰ってから用心に鰹節(かつおぶし)、梅干、缶詰、片栗粉等を近所へ買いにやる。
なんだか悪い事をするような気がするが、二十余人の口を託されているのだからやむを得ないと思った。
午後四時にはもう三代吉の父親の辰五郎が白米、薩摩芋、大根、茄子(なす)、醤油(しょうゆ)、砂糖などを車に積んで持ってきたので少し安心する事ができた。
しかしまたこの場合に、台所から一車もの食料品を持込むのはかなり気の引けることであった。 E君に青山(あおやま)の小宮君の留守宅の様子を見にいってもらった。
帰っての話によると、地震の時長男が二階に居たら書棚が倒れて出口をふさいだので心配した、それだけで別に異常はなかったそうである。
その後は邸前の処に避難していたそうである。 夜警で一緒になった人で地震当時前橋(まえばし)に行っていた人の話によると、一日の夜の東京の火事はちょうど火柱のように見えたので大島(おおしま)の噴火ではないかという噂があったそうである。
(昭和10年10月)
(『ピタゴラスと豆』寺田寅彦 角川文庫 2020年)
おわり