2022年9月4日日曜日

お参り

駅の改札口近くに公衆電話があった。
最近、公衆電話が激減しているのだけど
7月、auの通信障害で携帯が使えなかった。

「電話できて安心」、守り続け27年 喫茶店前の公衆電話、原点は阪神大震災〟(朝日新聞 9月3日)
阪神大震災の時に携帯電話が通じず、公衆電話などに大行列ができていました。
災害時つながりやすい「頼みの綱」 公衆電話、27年で6分の1に減……〟(神戸新聞 2022年1月14日)
久しぶりに電車に乗って…
1926年(大正15年6月)と1955年(昭和30年12月)の間のパネル(1944年<昭和19年2月>)には写真が載っていません。

石清水八幡宮の参道ケーブルのあゆみ

石清水八幡宮参道ケーブルは、石清水八幡宮参拝の手段として大正15年(1926年)に男山索道株式会社によって敷設されました。
戦時中の資材供出のため、昭和19年(1944年)に一度廃止されましたが、昭和30年(1955年)に当社が復活させ営業しております。
平成13年(2001年)7月には、車両・制御装置・誘導無線の大規模リニューアル工事を実施。
この度、令和元年(2019年)6月に、18年ぶりとなる巻上装置のリニューアル工事を行い、併せて車両デザインを一新。
同年10月1日に鋼索線の通称及び駅名を変更しました。
父の誕生日が九月なので石清水八幡宮にお参りにきました。
台風の動きが心配でしたが、青空が見えました。
 お伊勢さんに皇大神宮(こうたいじんぐう)のお株をとられた
   石清水八幡宮

 京都には、皇大神(こうたいじん)はわが朝の太祖(たいそ)といってあがめられた、伊勢神宮とまぎらわしい神社がある。
石清水八幡宮とよぶ。
いま皇大神といえば、伊勢だけであるが、むかしは一種の神さまの尊称として、ほうぼうにつかわれたのではないかと思う。
賀茂も賀茂皇大神といわれている。
(『京都の旅 第1集』松本清張 樋口清之 光文社 1984年)
 たしかに八幡宮も、応神(おうじん)天皇をその祭神に加えているから、太祖を祭る神社の一種である。
ところが、明治政府が、伊勢神宮を最上神として他と区別する必要から、皇大神とか皇祖とかいう名を他の神社につかわせないことにした。
それで、石清水八幡宮が皇大神をまつるというと、いまでは不思議に思われるようになった。
 ここは、敵国調伏(ちょうぶく)、武運長久の神さまとして、昭和20年までは民衆のたいへんな信仰を受け、早くから神社の裏までケーブルが敷かれていた。
しかし、ちゃっかりした日本人は戦争がすむと忘れてしまって、いまではふだんの日などケーブルに乗っている人はほとんどいない。
京都市内の、押すな押すなの観光ブームにうんざりした人には、まだ京都にもこんなところがあったのかと、ほっとするくらいである。
考えてみれば、こんな不便なところに、なぜこんなりっぱな神社がつくられ、それが国の手あつい保護をうけてきたのだろうか。
 石清水八幡宮がここにまつられたのは、他の神社のように自然発生的ではない。
京都に都がうつってから65年目、清和(せいわ)天皇の貞観(じょうがん)元年(859年)に九州の宇佐(うさ)八幡を勧請(かんじょう)したのである。
大和大安寺(やまとだいあんじ)の僧行教(ぎょうきょう)が、宇佐まで行って神意をうかがい、ここにまつったといわれる。
これをまつった理由は、以後、この神社で行われた祈願の内容をみるとよくわかる。
神社ができて10年目には新羅来寇(らいこう)がおさまるように祈り、その後、渤海(ぼっかい)の使(つかい)の来貢(らいこう)を報告したり、平将門の乱の平定を感謝したり、蒙古(もうこ)来襲の平定を祈ったり、とにかく京都をあやうくする外敵の退散を祈ることが信仰の中心であった。
 それもそのはずだ。
この祭神(応神天皇、神功<じんぐう>皇后、姫大神<ひめおおかみ>)は宇佐にまつられているときから外敵退散の神威を持つと信じられていた。
もっとも、本家の宇佐八幡宮がこの三神を祭神とはっきりきめたのは欽明(きんめい)天皇の時代からである。
こちらは、その以前から、宇佐の厩峰菱形(うまやがみねひしがた)の辺(ほとり)といわれるところに、大きな天然石の磐坐(いわくら)があり、大昔から自然発生的な信仰の場所であった。
それが、皇室の勢威が集権国家の絶対支配者として強大になっていく欽明天皇ごろから、皇室の祖先であり外敵退散の功労神であった神功皇后などと入れかわり、もっぱら外国への備えの神と思われた。
 すなわち、石清水八幡宮のできた理由の最大のものは山城平野の西の関門に、外寇(がいこう)をしりぞける神威をもつ神をまつろうとしたことにはじまるといえる。
 人力でどうにもならない事柄(ことがら)にぶつかったら、神にたよろうとするのが古今の人情である。
平安京守護のためには、この神を皇大神とも太祖ともあがめたのは当然であろう。
そのころの日本は、国内にも国外にもいろいろ問題をひかえて、生活はかならずしも安定したものではなかった。
平安の京かならずしも平安ではなかったのである。
そのとき本社が創立せられたことには、この時代の人びとの悲願がこめられていたと解するのが正しいと思う。
…後略…
(『京都の旅 第1集』松本清張 樋口清之 光文社 1984年)
(かまど)の神様

末社 竈神殿(そうじんでん)
御祭神
迦具土神(かぐつちのかみ) 奥津日子神(おきつひこのかみ)
彌都波能賣神(みづはのめのかみ) 奥津比賣神(おきつひめのかみ)
御神徳 台所守護
 御輿長(みこしをさ)の聲(こゑ)
  先立
(さきだ)てて下(くだ)ります
 を とかしこまる
     (かみ)の宮人(みやびと)
              西行(さいぎょう)

意味】 神輿を担ぐ人々の長(駕輿丁<かよちょう>ノ長<おさ>)の警蹕(けいひつ<貴い存在の来臨を予告し人々に最大限の敬意を表すよう注意を促す声、多くは「おー」と発する>)を先触れとして八幡大神の乗り給う神輿(御鳳輦<ごほうれん>)が山上の御殿から下ってこられるのを(普段は人々に頭を下げられる宮廷の貴人たちが)今日は神に仕える宮人として畏れ慎みつつ「おゝ」と応え一斉に頭(こうべ)を垂れている…。
出典】『山歌集(さんかしゅう)』神祇十首の内――日本古典文学大系二九『山歌集 金槐和歌集』(岩波書店)――より
西行 元永元年(1118)~建久元年(1190)。平安後期の歌人。
俗名は佐藤義清(のりきよ)、法名円位。
実家は紀州の在地領主で、代々衛府に仕える武家として勢力を張り、義清は16歳のころ徳大寺家の随身となり、次いで鳥羽上皇に「北面の武士」として仕えた(当時、同僚には若き日の平清盛もいた)。
保延6年(1140)23歳の時に出家、以後は諸国を行脚しつつ仏法修行と和歌の道に励んだ。
独自の作風は後世に多大の影響を与え、『新古今和歌集』には94首が収められている。
ここに掲げたのは「放生会」と題された歌。
放生会とは、即ち現在新暦9月15日に斎行されている勅祭石清水祭である(但し、本年も昨年と同じく疫病対策のため神幸の儀は執り行われない)。
来るたびに不思議だなと思っているのが
地蔵菩薩がいらっしゃること。
地蔵さまがポツンとおられるのでなく祠に祀られている。
一度、駅員さんに聞いたことがあるけど知らないそうだ。

石清水八幡宮などで起きた廃仏毀釈の嵐を明治天皇は、どのように見ておられたのかな?
廃仏毀釈について」(内田樹の研究室 2019年5月29日)

行きは準急で来たけど、帰りは各駅停車の普通で帰りました。
前回、お参りした時、帰りも準急に乗ると混んでいた。