2022年9月13日火曜日

気温はあまり変わらないけど…

今朝は、昨日と気温はあまり変わらないのだけど
風が吹いていて歩きやすかったです。
いつもと違う場所で自転車を止めて見上げるとネムノキの花が咲いている。
暑さのせいなのかな?
 昨夜のEテレ2355を録画で見ているとトビーが

さいきん 知ったこと。
9月のことを、「長月」と呼ぶらしい。
9月は残暑が


ながつづき…
 長  月
ながつづき…

いかん、暑さで ついダジャレが。

Eテレ2355

午後から叔母の家へ用事で出かけると、強烈な暑さで風が吹いていても熱風になっている。
こんなに暑いときは、昨日、紹介した杉浦日向子さんの『百物語』がおすすめです。
高橋義夫さんの解説を転記します( ..)φ
 解 説   高橋義夫

 杉浦日向子さんと、何度か御一緒したことがある。
新潟の酒造家の屋敷の大きな囲炉裏(いろり)の前だったり、岡山の路地裏の居酒屋だったり、山形の蕎麦(そぼ)屋の座敷だったり、たいがい盃(さかずき)を指さきでつまみ、日向子さんはふくふくと笑った。
一升ほどはほんの喉(のど)しめしではあるまいか。
あちらは酔わず、こちらが酔うせいか、しだいに日向子姫に後光がさして、そのうちふわふわと浮いて、坐(すわ)ったまま壁の中に溶けこみそうに見えた。
ほろ酔いの日向子さんが溶けて消える壁の向こうには、夕暮れの江戸の町がひろがっているにちがいない。
現代と江戸と二つの時間を自在に往(ゆ)き来(き)する特技をお持ちなのである。
(『百物語』杉浦日向子 新潮文庫 平成7年)
『百物語』は、「小説新潮」の1986年4月号から1993年2月号まで、途中半年間の休止期間が一度あったが、足かけ8年間にわたって連載された。
8年というのはなみたいていの年月ではない。
雑誌のそのページにだけ、ひょうひょうと江戸の風が吹きつづけていた。
精魂をうちこんだ仕事だったろう。
 同じ舞台で下手な踊りを見せる小説書きにとっては、まことに困った作品である。
ぼくが「小説新潮」に作品を載せていないときには、安心して一番さきに『百物語』のページを開くことができた。
そこに重要な仕事が進行中であることを確認して、なんとなく楽しい気分にひたった。
やがて九十九話が一本にまとまり、全貌(ぜんぼう)があらわれると、その仕事のユニークさが、誰の目にもくっきりと映ることになった。
 1982年7月から「ガロ」に発表されはじめた『合葬』(1984年日本漫画協会賞優秀賞)は、新しい物語作者の誕生を感じさせ、時代考証のたしかさに舌を巻いた覚えがある。
活字とちがって、絵は情報量が豊かだから、反面ごまかしのきかない辛(つら)さがあるにちがいない。
初期の『合葬』は、素人(しろうと)の感想にすぎないけれども、映画的な構成があり、同時代の劇画との類縁性を感じた。
すなわち、杉浦日向子という作者はちがうジャンルの人だと、こちらも安心していられたのである。
 ぼくは日向子さんの全作品を精読しているわけではないから、口はばったいことをいうようで気がひけるが、『風流江戸雀(すずめ)』(1988年文春漫画賞)を経て、『百物語』にいたると、なにかその間に大きな変質が生じた気がする。
 考証のあとは、もはやとどめていない。
そんなことを意識させないほど、自然で自由である。
きっと誰にも気づかれないうちに、日向子さんは江戸に行って、通行手形を手に入れて来たにちがいない。
この作品がどのジャンルに属するのか、そんなことを考えるのも野暮なことだが、昔の親戚(しんせき)をたどれば、恋川春町や山東京伝の黄表紙につながると思われる。
その仕事がユニークであるということは、作者がひとつの世界の創始者となったことで、つまり『百物語』によって日向子流黄表紙が誕生したのである。
余人がそれを真似(まね)ようとすれば、しかるべき礼をつくして入門を乞(こ)わなければならない。
『百物語』の全篇を通じて、はっきりとした色もなく香りもないが、いつかどこかでその世界を見たことがありそうな既視感が淡い基調となっている。
どの物語も、なつかしこわいのである。
誰の心の奥にもある古層が、そのなつかしこわさに共鳴するというだけでなく、あまり家を出たがらない少女の外界にたいするおびえが、ちらっと襖(ふすま)の蔭(かげ)からのぞく瞬間があり、男のぼくはいくらかどぎまぎさせられる。
 まあしかし、それはぼくの個人的な感想で、読者にそれをおしつけるのは迷惑だろう。
理屈をいってはいけない。
式亭三馬師の『一盃綺言(いっぱいきげん)』によれば、理屈をいうのは「酔(よ)いたる上にて愚痴ばかりいう酒癖(さけくせ)」の一種で、酒友とするに足らないのである。
よい作品に酔って、日向子さんのようにふくふく笑っていなければならない。
『百物語』は怪談にちがいないが、不思議におだやかな風が吹いている。
死や変身が語られていても、恐怖よりもなつかしさが色濃いのは、怪異がどこかべつの世界から暴力的に立ちあらわれるのではなく、人間たちと一緒にさりげなくそこにあるからである。
だから怪異はその姿をあらわすとき、人間を驚かすことに気がねして、すまなそうな顔をしている。
 たとえば「お七の話」(其ノ十一)の鶏になった八百屋お七の顔もきわめてつつましやかだし、「盆の話」(其ノ三十)の鼠(ねずみ)に転身した母親も、よく考えればおそろしい話だが、その顔を見ると困惑しきっている。
 いっぽう人間のほうでも、怪異とのつきあいかたを知っているから、本所二ツ目の蔵の中にさまざまな妖怪が棲(す)みついた数原という医師の家の娘たちも、「ちゃんと掟(おきて)守っているから」と、安心して眠ることができる(其ノ十「数原家の蔵の話」上)。
また怪しの気配が漂う家に暮らしても、「赤子が泣く位なもので害もない」から「生きている人に話し掛ける様に、挨拶(あいさつ)してやれば、満足してすぐ去る」わけである(其ノ七十五「訪(おとな)う気配二話」)。
 江戸の人々は怪異に敏感で、したがってつきあいかたを工夫して、さり気なく接したと見える。
日向子さんもまた、そうとうこわがり屋さんと想像されるが、いつのころか怪異をあしらうコツをつかんだにちがいない。
 ところで、『百物語』のはじまりは、御隠居が庭師を呼び寄せて話をきくのが発端で、九十九話のすべてが、表に出る出ないにかかわらず御隠居さんを通じて物語られる仕組みだが、この御隠居さんは、実は日向子さんが化けたものなのだ。
 日向子さんは御隠居さんになったそうである。
時代のさきを読む人だと感心せざるをえない。
理屈をさけ、したがって論証ははぶくが、このさき日本は御隠居国家となり、人も国も、よき御隠居となって生きて行くらしい。
御隠居になりそこねた人は、ばたばたと息苦しく生きなければならなくなる。
 松尾芭蕉がみずから翁と称したひそみにならって、現代の常識ではいまだ若年とされる年齢で御隠居術を身につけるのは、先見の明ありというべきだ。
日向子さんは絵筆をおいたと宣言されている。
 すると、もはや『百物語』一篇を見おさめに、日向子流黄表紙は蔵にしまわれることになる。
惜しむべし。
といいたいところだが、御本人の決心が固いようだから、いたしかたない。
ファンはこの文庫本を、形見おくりと思って、一生たいせつにしなければならない。
 百物語は九十九話が語りおさめで、百話目を語ったが最期(さいご)、化物が出現してとんでもないことになる。
最後の一話は、日向子さんが世の中のために、胸の奥深くに秘めておくのだろう。
 絵筆をとらないかわりに、御本人が作品と化したという可能性がある。
これから御隠居道の蘊奥(うんのう)をおきわめになることはまちがいない。
刮目(かつもく)して行く末を見守らなければならない。
  (平成7年10月、作家)
(『百物語』杉浦日向子 新潮文庫 平成7年)