2022年9月2日金曜日

いきなり青空に…

今朝もポツポツと降っていたので、昨日のように土砂降りになるかなと思ったら
いきなり青空になり日射しが突き刺さるように暑かったです(^^;
台風11号の動きがゆっくりで大気が不安定になっている…

台風11号 沖縄 先島諸島 あす夜接近か 西~東日本 大気不安定」(NHK)
大正12年(1923)9月2日
・戒厳令、東京市周辺に発令(9月3日に東京府・神奈川県、4日に埼玉・千葉両県に適用拡大)。
・朝鮮人暴動の流言広まり、自警団・警察などによる朝鮮人迫害・虐殺始まる。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
第4章 関東大震災時の朝鮮人虐殺
 1 国家権力の関わり
 民衆暴力が正当化される時


 この章では、関東大震災時の朝鮮人虐殺をとりあげたい。
関東大震災の直後には、朝鮮人ばかりでなく、中国人や、朝鮮人に間違われた日本人も殺害された。
 朝鮮人虐殺の一般的なイメージは、関東大震災時に「朝鮮人が暴動を起こした」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火した」などのデマが流れ、そのデマをもとに多数の朝鮮人が虐殺された、というものだろう。
しかし、このイメージには主語(動作主)がない。
誰がデマを流し、誰が殺したのか。
人びとの間に自然にデマが流れ、自警団が殺害したと、漠然とイメージされているように思う。
「民間人によるデマ、民間人による虐殺」というイメージは、本当なのだろうか。
実態と異なるとしたら、なぜ私たちは今このようなイメージを抱いているのだろうか。
 これまで歴史研究者や市民団体が長い時間をかけて、朝鮮人虐殺の実態を明らかにしてきた。
積み重ねられた成果を紹介しながら、これらの疑問を解き明かしていきたい。
(『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』藤野裕子 中公新書 2020年)
 流言の発生源をめぐって

 1923年9月1日午前11時58分、南関東を中心に大規模な地震が発生した。
相模湾を震源とし、マグニチュードは7.9であったといわれる。
神奈川・東京を中心に甚大な被害がでたが、特に都市部では火災による被害が大きかった。
東京では市内の約三分の二が焼失したとされる。
そのなかには、内務省・警視庁といった警察機能の中枢を担う建物も含まれていた。
震災による死亡者は約10万人と推定されている。
 混乱のさなか、先述のように流言の数々が出回った。
これらの流言がどのように発生したのか、という点には諸説ある。
民間から自然発生的に沸き上がったという説、官憲が意図的に流言をつくり上げたとする説、官民双方から生じたとする説である。
 これらは朝鮮人虐殺の責任について、民衆と国家権力とのどちらに重きを置くかという、研究者の立場の違いを反映してもいる。
また東京と横浜のどちらから流言が発生したのか、両者は別々に発生したのか、という点も議論されてきた。
しかし、流言の発生源を厳密に特定することは史料的に難しい。
(『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』藤野裕子 中公新書 2020年)
このあとの考察は、去年も少し紹介しているので本を読んでください。
当時、弁護士として活動していた山崎今朝弥(けさや)について

 解 説  森長英三郎

  一

 山崎今朝弥(1877-1954)は、明治、大正、昭和の三代にまたがる「社会主義の弁護士」であって、奇行に富み、奇文を書くことでも知られている。
 本書の書名『地震・憲兵・火事・巡査』は、山崎今朝弥の著書名からとったものであるが、いうまでもなく、「地震雷火事親爺」をもじったものである。
「地震雷火事親爺」というと、いちばんこわいものを意味するが、これを『地震・憲兵・火事・巡査』ともじると、関東大震災(1923年)直後で、どんな乱暴するかわからない、平気で人殺しをする奴(やつ)という意味にかわってくる。
山崎はさらにこれに戒厳令、内務官僚、軍隊、自警団等も加えたかったであろうが、語呂が合わぬからやめたと、読みとれるのである。
(『地震・憲兵・火事・巡査』山崎今朝弥 岩波文庫 1982年)
 関東大震災では、朝鮮人が襲撃してくる、井戸に毒を入れる等々の流言蜚語(デマ)が流され、これにおどらされた軍隊、警察、自警団等々によって、なんの理由もないのに、六千人以上の朝鮮人が虐殺された。
ねずまさし『日本現代史 4』(三一書房 1968年)によると、内務大臣(9月1日まで)であった水野錬太郎(元朝鮮の政務総監)、警視総監赤池濃(元朝鮮の警保局長)らが、朝鮮人にたいする恐怖から流言蜚語をつくり、警保局長後藤文夫が、これを徒歩の連絡兵に持たせて、船橋海軍送信所から無線で打たせたことから、全国にひろまったとしている。
 山崎はこの点について、本書の「地震・流言・火事・暴徒」の節で、「深くその由って来る処に遡れば、真の責任者は皆地震であり火事である。伝令使であり無線電話である。内訓告諭であり、廻章極秘大至急である。戒厳令でありその当局官憲である」(222頁)と書いているところをみると、早くから流言蜚語の発生源が官製であることをつかんでいたようである。
「実に当時の戒厳令は、真に火に油を注いだものであった、何時までも、戦々恟々たる民心を不安にし、市民をことごとく敵前勤務の心理状態に置いたのは慥かに軍隊唯一の功績であった」(223頁)と書いて、戒厳令が流言蜚語に真実性をあたえたとしている。
そこで「自警団も出来れば義勇団も出来る、在郷軍人も青年団員も兇徒も暴徒も皆一斉に武器を執った。
そこで朝鮮人の大虐殺となり、支那人の中虐殺となり、半米人の小虐殺となり、労働運動者、無政府主義者及び日本人の虐殺となった」(221-222頁)ということになる。
 右のうち「日本人の虐殺」というのは、朝鮮人殺しのさい、数百人の日本人が誤殺されたというから、それをいうのであろう。
「支那人の中虐殺」というのは、中国人の労働者殺し三百人以上と、要人王希天殺しをいうのである。
「半米人の小虐殺」というのは、大杉栄夫妻とともに殺された大杉の甥で米国籍の少年橘宗一殺しのことである。
 「労働運動者」の虐殺というのは、亀戸警察署で殺された平沢計七、川合義虎ら9人のことをいうのである。
「無政府主義者」の虐殺はいうまでもなく、大杉栄と伊藤野枝のことである。
平沢は山崎の事務所から『労働週報』を出し、そこで寝泊りもしていたし、大杉は山崎を訴訟係だといって出入りし、ことあるごとに山崎の世話になっていたので、山崎にとっては、どちらも、家族が殺されたような思いであったのであろう。
 なお大杉夫妻と宗一少年を殺したのは、憲兵大尉甘粕正彦らではなくて、麻布第三連隊の営庭で兵士に銃殺されたとし、同連隊には秩父宮が勤務していて具合が悪いので、これをかくすために、憲兵隊で甘粕らが殺したと偽装したとする説が、『日本新聞』記者から生方敏郎、荒畑寒村らに伝わり、これが真相だとする人もあったが(ねずまさし、前掲書)、軍医田中隆一が、9月20日、井戸から引揚げた三死体を陸軍の病院で解剖し、その結果を記した「前頸部を鈍体を以て絞殺」し、「窒息」死にいたらせたとする鑑定書が発見された現在では、甘粕らによって殺されたとするほかはない。
 山崎が、もっとも怒ったのは、朝鮮人の虐殺である。
虐殺させておいて、幾人も殺さない、殺したのは不穏な行動があったからだといって、責任のがれをいう政府にたいしてであった。
「理が非でも、都合があるから何処までも無理を通そう、悪い事なら総て朝鮮人に押し付けよとする愛国者、日本人、大和魂、武士道と来ては真に鼻持ちならない、天人共に容(ゆる)さざる大悪無上の話である」(233頁)とまでいった。
 そして「〔朝〕鮮人問題解決の唯一の方法は、早く個人には充分損害を払い、民族には直ちに自治なり独立なりを許し、以て誠心誠意、低頭平心、慰籍謝罪の意を表すより外はない」(235頁)と結んでいる。
「朝鮮問題の問答集」(276頁)にはじめのほうでも、やんわりと朝鮮の独立運動を支持している。
 言論の自由のなかった当時、ことに三・一独立運動(1919年)以後において、朝鮮独立運動を公然と支持することは困難であった。
松尾尊兊(たかよし)大正デモクラシー』は、程度の差はあるが、朝鮮独立を可とする意見を出したものとして、一部のキリスト教徒、石橋湛山、宮崎滔天(とうてん)、吉野作造らの名をあげている。
 無産者解放運動を擁護する実践家であった山崎の朝鮮独立運動の支持は、レトリックを使って、細心の注意をはらってなされたものであっても、貴重なものとしなければならない。
 本書のその他の文章の多くは、自伝的な内容であり、ここにいたる道程であるということができよう。
…後略…
(『地震・憲兵・火事・巡査』山崎今朝弥 岩波文庫 1982年)
歴史探偵「米騒動」を見ていて思ったのは、
騒動を起こした女性たちを「暴れババ」と呼ばれていたのですが、暴力的な抗議はしていなかったのです。
全国に広がって行くうちに暴動が起こりますが、それは男たちによって引き起こされている。

浜の女たちと米騒動」(浅生幸子 富山大学)

第一次世界大戦と国内外の関係」(10min.ボックス 中学・高校)

番組に出演されていた井本三夫さんの著書
米騒動という大正デモクラシーの市民戦線』(現代思潮新社 2018年)
今朝の父の一枚です(^^)/
黒いアゲハチョウなんだけどクロアゲハかなカラスアゲハかな?

 お伽噺の舞姫

 女性が万一いたずらに粉飾に憂身(うきみ)をやつすことのみをしているもので、ただ弱い脆(もろ)いものであるなら、蝶はさしずめ昆虫界の女性を代表するものであろう。
一口に蝶や蜻蛉といわれるが、片方の男性的なのと比べて、非常な相違である。
 蝶は昆虫界で、最も美しい仲間であろう。
自然がこんなに美しい多彩な色を惜しげもなく使うのは花の他にないのである。
しかも蝶と花とはいつもつきものとして共に風情(ふぜい)を助け合っている。
実際蝶の中には恍惚(こうこつ)として忘我の境地にまで誘われるくらい美しい色彩をもっているものが多いが、またその姿も飛び方もきわめて優雅である。
春の日などにひらひら飛んでいるところを見ると、何かお伽噺(とぎばなし)の中の妖精(ようせい)か舞姫が姿を現したような錯覚を起すなど、精霊的なものを感ずることがある。
実際お伽芝居の妖精は、背中に蝶の翅をつけて舞台へ現れて来る。
何はともあれ、蝶は自然の最も美しい装飾の一つであろう。
…後略…
(『日本昆虫記』大町文衛 角川ソフィア文庫 昭和34年)