2022年9月20日火曜日

彼岸入り

「暑さ寒さも彼岸まで」と言うけど
今朝は、いつもの長袖のTシャツに半袖のポロシャツを重ねたけど
青空が見えてきても、途中で脱ぐことなく歩けました。
このまま涼しくなるとは思えないけど…

台風14号 温帯低気圧に 東日本と北日本 引き続き大雨に警戒を」(NHK)
荒木健太郎さんのTwitterに

台風と温帯低気圧の違いはその構造です。
風の強さや中心気圧で区別はしていません。
温帯低気圧になると風の強いところが広がります。

(画像「台風と温帯低気圧の違い」)
昨日のエリザベス女王の国葬に見入っていました。
女王に即位したのが1952年、戴冠式が1953年。
当時の出来事を転記したいと思います( ..)φ

1952(昭和27)年

 サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』、パリで初演される。
作者のベケットにとって、『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけられぬもの』と続く記念碑的小説三部作の完成の息抜きとして書かれたこの作品が、現代演劇のなかで「不条理劇」の代表的作品として記憶されるようになったことは、「歴史の皮肉」が感じられる。
(『年表で読む二十世紀思想史』矢代梓 講談社 1999年)
『ゴドーを待ちながら』について、M.エスリンが『不条理の演劇』の冒頭で書きとめているエピソードが興味深い。
1957年11月19日、サンフランシスコ・アクターズ・ワークショップの俳優がサン・クェンティン刑務所で『ゴドーを待ちながら』を公演した。
その刑務所では、1913年にサラ・ベルナールが来て以来、芝居が上演されたことはなかった。
『ゴドーを待ちながら』が演目に選ばれたのも、作中に女性が登場しないという理由だけからだった。
演出者のH.ブラウも、ヨーロッパの知的にすれた観客のなかでさえ騒がしいスキャンダルを起こした劇が囚人たちに関心をもたれるか、正直いって疑問だった。
しかし、結果は大変な成功だった。
ある囚人は「ゴドーは社会(シャバ)だ」と言い、また別の囚人は「奴は外部だ」と語った。
彼らはこの作品を難解だとは思わなかったのだ。
その事実に衝撃を受けた当時の新聞は、さまざまな「不条理劇」に関する憶測記事を書きたてた。
「不条理の演劇」の最も良き理解者が監獄の住人だったことは、きわめて意味深長なエピソードである。
 ハロルド・ローゼンバーグ、「アメリカのアクション・ペインターズ」と題するエッセイのなかで、ジャクソン・ポロックたちの抽象表現主義絵画を「アクション・ペインティング」として定義し、彼らの絵画において「カンヴァスの上に起こるべきものは、絵(ピクチュア)ではなく事件(イヴェント)であった」と主張する。
1940年代後半から50年代にかけてのポロックのカンヴァスに見られる強靭な抽象絵画のエネルギーは、ニューヨークを中心として、世界に知られるようになっていく。
その絵画的世界は、抽象絵画の新しい冒険であり、美的アヴァンギャルド運動の再生だった。
しかし、1956年8月11日のポロックの悲劇的事故死に象徴されるように、この運動も長くは続かなかった。
新具象主義やポップ・アートの出現は、現代絵画を次第に袋小路へ追い詰めていく。
3月 石母田正『歴史と民族の発見』刊(続刊は1953年2月刊)
7月 ヘルシンキの第15回オリンピックに日本復帰。
12月 丸山真男『日本政治思想史研究』刊。
1953(昭和28)年 4月25日

 雑誌『ネーチャー』に、フランシス・クリックとジェイムズ・ワトソンによる遺伝子DNA(デオキシリボ核酸)の二重らせん構造の発見を知らせる短い論文が掲載された。
分子生物学の誕生を告げる劇的な瞬間だった。
1968年に刊行されたワトソンの『二重らせん』には、この発見のプロセスが分かりやすく描かれている。
しかし『二重らせん』には、故意に事実を歪められて書かれていることがあった。
1975年に刊行されたA.セイヤーの『ロザリンド・フランクリンとDNA』は、二重らせん構造の発見に至る道筋に知られていないR.フランクリンの業績が存在したことを明瞭にした。
ワトソンはフランクリンのDNAらせん構造の写真を思考モデルの決定的な裏づけとしており、その写真はフランクリンの同意を得ずに、彼女の同僚だったM.ウィルキンスがワトソンに見せたものだった。
もちろん、このことはワトソンの本にも書かれている。
しかし『二重らせん』では、頑固な反らせん主義者だったフランクリンから写真を見せてもらうのは絶望的に不可能だったから、やむを得ずウィルキンスからその写真を見せてもらったと書かれている。
だがセイヤーによれば、この間の事情をフランクリンはまったく知らなかったという。
フランクリンはすでに1951年11月の非公式講演のためのノートで、DNAについて「数本の鎖から成る大きならせん、外側に燐酸、燐酸と燐酸によるらせん間結合は、水によって崩壊する。燐酸は蛋白質と結合し得る」と書いていた。
しかも、そこにはアンダーラインが引かれていた。
残念ながら、フランクリンは1958年4月16日に37歳で病死してしまった。
1962年のノーベル医学・生理学賞は、ワトソン、クリック、ウィルキンスの三人に贈られた。
ノーベル賞は存命している者に贈られるものだから、フランクリンが挙げられていないのは当然だが、もし彼女が生きていたらどうなったろうか。
しかも、ノーベル賞は四人以上の共同受賞は認めていない。
科学の発見をノーベル賞受賞のレースに見立てるのは大変不謹慎なことだが、『二重らせん』にかなり明瞭な女性蔑視の考えがほのみえているだけに、フランクリンの早すぎる死は惜しみあるものだったことは確かだ。
2月 伊藤整「近代日本人の発想の諸形式」(『思想』~3月)。
3月14日 新数学者集団発足(団長・清水達雄)
3月 スターリン死去。
6月 英国、エリザベス二世戴冠。
6月 東ベルリンで反ソ暴動。
7月 朝鮮戦争、休戦。
11月 堀一郎『我が国民間信仰史の研究』刊。
(『年表で読む二十世紀思想史』矢代梓 講談社 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)/

 ヒガンバナ Lycoris radiata

…前略…

 ヒガンバナは地域によって、いろいろな名前が付けられていて、その数五十以上にも及ぶという。
マンジュシャゲ(曼殊沙華)は梵語で「赤い」という意味で、これはその赤い花に由来する。
ハミズハナミズ(葉見ず花見ず)という名は、花時に葉が出ておらず、花後の葉時には花がないという、その性質を端的に表現した名だ。
このほかシビトバナ(死人花)とか、ソウシキバナ(葬式花)とか、縁起の悪い名が多いのは、この花が墓地の咲いていることが多いからだろう。
そのために、この花、めでたい色の赤い花であるにもかかわらず、縁起の悪い花として嫌がる人が多い。
これはヒガンバナには気の毒なことで、何も好んで墓地に生えているのではない。
人によって植えられたもので、これがなぜ墓地に植えられるようになったかは諸説がある。
ちょうど彼岸頃に咲くので、供え花として植えたという説と、有毒植物なるがゆえに、土葬の多かった昔、狼や野犬などによる墓荒らしを防ぐためとも云われるが、どうも供え花として植えたのが正しいと思う。
この仲間で、やはり中国原産でわが国に帰化したナツズイセンというのがある。
信州に野生が多く、ピンク色の花を夏に咲かせるこの花は、同地方では「盆花」とも云われ、花時はちょうど盆の頃でヒガンバナ同様、墓地に咲いていることが多い。
 ヒガンバナをめでたく楽しむ方法がある。
この仲間のシロバナヒガンバナを一緒に植えることだ。
そうすると紅白で咲いてくれ、めでたくなるだけでなく、見た目にも美しい。
(『柳宗民の雑草ノオト』 毎日新聞社 2002年)