2022年9月23日金曜日

秋分の日

今日から三連休の方も多いと思いますが…雨!
それも…
台風15号 あすにかけ太平洋側接近 東海や近畿など大雨の見込み」(NHK)
今日は「彼岸の中日」

第5章 行事と儀礼にみる和菓子
 彼岸の牡丹餅


 彼岸につきものの菓子といえば牡丹餅です。
これはもち米とうるち米を混ぜて炊き、軽く搗いて丸め餡や黄粉をつけるものです。
名称は春の彼岸には牡丹餅といい、秋はお萩という話をよく聞きますが、もとは牡丹餅だったようで、『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』(1697)には「母多餅(ぼたもち)一名萩の花」とあります。
牡丹餅を女房詞で「萩の花」と呼んだことから「お萩」の言い方が定着していったのでしょう。
(『図説 和菓子の歴史』青木直己 ちくま学芸文庫 2017年)
 牡丹餅は、炊いたもち米とうるち米をすり鉢に入れて、すりこ木で搗きますが、この状態は半殺しという物騒な名前がついています。
半搗きにした米に小豆餡を巻けば牡丹餅のでき上がり、他に黄粉や胡麻をまぶして食べます。
この製法はあまり音がしないことから、牡丹餅には「隣知らず」(音が臨家に聞えない)や「夜舟」(夜舟は着いたことがわからない)の異名があります。
 私も子供の頃に、母親が作ってくれた大きな牡丹餅を思い出しますが、牡丹餅は菓子屋で買うばかりではなく、自製することも多い菓子でした。
江戸時代も同様で、『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によれば「江戸ニテ彼岸等ニハ、市民各互ニ是ヲ自製シテ、近隣音物トスル也。蓋、是ハ凡製ノミ」とあり、自製した牡丹餅を近所などに贈っていました。
これは凡製いわゆる上等でないものだということです。
幕末頃の江戸では、彼岸に牡丹餅を自製して互いに贈りあっていました。
他にも七夕の素麺や中秋の名月の月見団子など「節物」を贈りあっていたのです。
菓子や食べ物が季節をより身近に感じさせてくれます。
 もともと牡丹餅はそれほど上等な食べ物ではなかったようです。
先の『守貞謾稿』では、『本朝世事談綺(ほんちょうせじだんき)』(1733)を引いて、牡丹餅は「賤品」(下級品)でとても贈答用の折詰の菓子にはならないと言っています。
しかしながら幕末頃には、「精製アリテ」つまり上等な牡丹餅も登場して、折詰にすることもあるとしています。
その様子を「名賤ク製美ナルヲ、興トスル。是モ奢侈ノ一ツ也」と書いています。
つまり名前は賤しいが、実は上等な菓子であるところに興があり、これも贅沢(ぜいたく)のひとつというのです。
 江戸の町には名物牡丹餅も登場しています。
江戸時代後期、江戸麹町三丁目(現千代田区)の松坂屋おてつが小豆餡、黄粉、胡麻の三色牡丹餅を売り出して大いに繁盛しています。
これは小さくて上品な物で「おてつ牡丹餅」と呼ばれていました。
対照的に大きかったのは、品川の牡丹餅だったそうです。
また、牡丹餅がたびたび登場する紀州和歌山藩酒井伴四郎の日記には、万延元年9月21日の八ツ時(午後2時頃)に「麹町え行、名物おてつにて牡丹餅・そう煮喰」とあり、江戸勤番武士も舌鼓を打っています。
伴四郎は外出時によく牡丹餅を食べていますが、「(牡丹餅)白砂糖ニテ大いに甘」という記事があります。
ということは、いつもは黒砂糖の牡丹餅を食べていたのでしょう。
(『図説 和菓子の歴史』青木直己 ちくま学芸文庫 2017年)

新板大江戸名物双六」(国立国会図書館)
現代の日本では「死」をタブーにして隠されている。

三 ハレとケ、ケガレ
  ――日本人の「穢れ」観――
 1 触穢の思想
 汚穢の国


 日本の神祭りの中で、女性の血穢もさることながら、最大の忌みとされたのが、死穢であった。
イザナギノミコトが、黄泉(よみ)の国を訪問する話に「不須也凶目(いなしこめ)き汚穢(きたな)き処に到り」「膿(うみ)沸き、蟲流(うじたか)る」イザナミノミコトに接したため、穢れに触れ、祓禊(ふつけい)が必要となったことはよく知られている。
汚穢の国は明らかに死者の国であった。
 記紀の世界からみる限り、日本人は異常なほど死穢を恐れる民族と規定されているが、果たしてその通りだろうかと、高取正男氏が近著『神道の成立』で問題にしている。
たしかに都に住む知識人たちの社会では、それが際立ったものであるが、一般民衆まで、そう考えていたかどうか疑問である。
(『神の民俗誌』宮田登 岩波新書 1979年)
 そこで屋敷のなかとか、屋敷に付属した場所に墓を作った例、あるいは死者を屋敷内に埋め、これを屋敷仏として崇める民俗例と、『日本後紀(にほんこうき)』延暦16(797)年正月25日条の「山城国、愛宕、葛野郡の人、死者あるごとに便ち家側に葬り、積習常となす」という表現の対応が注目された。
高取氏は、「平安初頭以来、死の忌みについて神経質であったのは中央政府の側であり、庶民のほうは死者を家のそばに埋葬してもべつだんなんとも思わないというのが本来の姿であったらしい」と指摘し、「神祇祭祀という吉儀に従うには徹底して凶礼を忌避しなければならないという形の、肥大化し、過敏となった禁忌意識やそれにとらわれた生活感覚が貴族たちの間に発生した」と述べている。
これは明らかに思想的活動の所産としてとらえられるものであり、おそらく伝統的なまつりごとを、新しい禁忌意識のもとに歴史的に解釈しはじめた宗教としての神道の成立と関わる問題となるだろう。
 このことは、死穢をもっとも忌避した神道が触穢(そくえ)の観念を必要以上に、民衆に押しつける端緒ともなり、ケガレそのものに対する本来の民衆の感覚をねじ曲げることになったのである。
(『神の民俗誌』宮田登 岩波新書 1979年)

新日本風土記 45分版「下北半島 夏」で仏ヶ浦の話が紹介されていました。
仏ヶ浦海で亡くなった人を、供養のためにお地蔵さんをお参りする所。
網に死体が引っ掛かったときに
死体上げる時は、大漁させなかったら上げないぞ。大漁させろよって上げてくる
と声をかけるのだそうです。
今朝の父の一枚です(^^)/

浮世絵で体感!リアルな江戸LIFE (8)「ペットと共に 犬&猫とのイイ関係」で
猫のあらゆるしぐさを描いた浮世絵などが紹介されていました。
猫の浮世絵をいえば…

 絵師・国芳(くによし)が仕掛けた江戸の猫ブーム

 江戸時代に活躍した多くの絵師が猫の絵を描いていますが、猫といえば、やはり、この人。
歌川国芳(1797頃~1861)です。
19世紀前半に江戸で活躍した浮世絵師で、役者絵や武者絵で新しいジャンルを確立したことで知られていますが、国芳がとくに晩年に好んで描いた題材が猫でした。
無類の猫好きで、国芳の仕事場には常に何匹もの猫がいて、2、3匹を懐に入れて絵筆を握っていたようです。
日頃から猫の生態をつぶさに観察していた国芳のとって、猫は分身のようなもの。
愛らしい姿だけでなく、ときには化け猫に変身させたり、擬人化したりと、ほかの絵師とは違う視点から猫を描き続けました。
…後略…
(『浮世絵で体感! リアルな江戸LIFE』講師 藤澤紫 NHK出版 2022年)