2022年7月10日日曜日

梅雨に戻った…?

梅雨に戻ったような蒸し暑さ…
カタツムリが喜んで出てきた
去年、出会って調べたのだけど分からずにいた花 
花好きの方に出会ったのでスマホで撮影して検索してもらいました。
すると一発で候補の名前が出てきた。
カタカナの名前だったので家に帰る頃には忘れているかなと思ったらやはり(^^ゞ
うろ覚えの単語をいろいろ試してみるとヒメノカリス(ヒガンバナ科)のようです(ナルキッシフローラ?)。
ネットの時代となりいろいろ便利になっていますが…
安倍元首相銃撃 容疑者「前日に岡山の遊説会場にも行った」〟(NHK 7月9日)
の記事に容疑者の供述として

もともとはこの宗教団体の幹部を殺害しようとしたが、できなかったので、元総理を銃で撃つことにした

元総理が奈良県を訪れることはホームページを見て把握した

とあるのですが、宗教団体の幹部の動静の把握が難しいので襲撃できなかったのかもしれない。
一方、元総理の行動予定はインターネットで把握できる。
今朝の日曜美術館アートシーンで紹介された

明日への祈り展 ラリックと戦禍の時代

ルネ・ラリックのことを知りませんでした。
来週、再放送があります。

箱根ラリック美術館
美の巨人たち 安藤忠雄「こども本の森」×八木亜希子

安藤さんは、ご自身の体験から子どもたちにとって本と出会うことの大切さをご存じなので、「こども本の森」をつくられた。
一方、橋下氏が知事の時代、子どもにとって本と出会うことの意味を理解していなかった。
大阪府立国際児童文学館」(Wikipedia)
『平家物語』の時代は、「昔から女性は殺さない習い」と二位の尼時子(平清盛妻)の言葉があります。
一方、織田信長の時代になると

 岩佐又兵衛の生涯
        畠山浩一

 その出自と幼年期

 岩佐というのは長じてから名乗ったもので、もともとは荒木というのが彼の姓であった。
父については二説あって、戦国時代に摂津の国衆からのしあがった荒木村重(むらしげ)、もしくはその長男村次(むらつぐ)といわれている。
 村重はもともと摂津の豪族池田氏に仕えていた人物で、その婿となるほど有力な家来だったが、主人を追い落とし、織田信長と結んで配下となり、摂津一国を任されるほどになった。
当時同様の地位にあったのは、明智光秀や羽柴秀吉など数名に過ぎない。
まさしく下剋上を生きた豪傑である。
(『岩佐又兵衛 浮世絵の開祖が描いた奇想』別冊太陽 日本のこころ247 平凡社)
 又兵衛の子孫に伝わった「岩佐家譜(いわさかふ)」という史料は、この村重を又兵衛の父とする。
母については何も記さないが、「村重末子」、つまりは末の子供だという。
又兵衛と在世期の重なる黒川道祐(くろかわどうゆう)という随筆家も同様の見解を記しており、近代になって研究が本格化してからも、この見方はほぼ定説化していた。
 ただ一方で、村重の長男村次を父とする史料も存在する。
例えば三代将軍家光の命で作られた幕府の公式系図集『寛永諸家系図伝』には、荒木村次の長男として「村直」の名があがり、「又兵衛」と注記されている。
この又兵衛村直こそ岩佐又兵衛その人と思われるが、とすれば、こちらの史料では村重は祖父ということになる。
 このように史料によって記述が異なり、どれを正しいとみるか、研究者でも意見の一致は見ていない。
そもそも後者の説を提出したのは筆者であるが、実は最近、どちらの史料も正しいのではないか、と思い始めている。
 つまり、もともと村重の子供、それも末子として生まれたが、訳あって後に長男村次の養子になったのではないか、と考えるのである。
「岩佐家譜」などは本来の血縁関係について記し、『寛永諸家系図伝』はその時点での戸籍状況を記したとみるわけである。
 このように考えるには理由がある。
以下に見ていくように、荒木家の危機的状況が又兵衛の立場を変えていったと推測されるのである。
 村重は織田家では新参だったが、その手腕を認められ家中でも指折りの重臣となっていた。
そのまま活躍し続ければ、又兵衛の人生も違ったものになっただろう。
しかし天正6(1578)年の秋、村重は突如として反旗を翻す。
居城有岡(現伊丹市)に籠(こも)ったのである。
 信長としては青天の霹靂(へきれき)だったようで、何か不足があるのか、と使者を送って確かめるなど、彼にしては珍しく穏当な対応をとった。
村重も当初は謀反(むほん)の意志はないと言い張っていたが、一方では人質提出の命には従わず、ついにしびれを切らした信長は大軍を率いて摂津に入った。
結局その後、一年以上も両軍は戦うことになる。
 又兵衛はまさにこの年、天正6年に生まれたと考えられている。
何月生まれかまでは分からないが、いずれ混乱のたた中で乳飲み子の時期を過ごしたことだろう。
 さて、大軍で城を囲んだ織田方であったが、有岡城の守りは思いのほか堅く、かえって近臣を何人か失ってしまう。
一方で、村重の配下にも離反者が出ていた。
キリシタン武将として名高い高山右近(たかやまうこん)は高槻城を、村重の従兄でもあった中川清秀は茨木城をそれぞれ任されていたが、織田方の調略により、早々に寝返ってしまったのである。
 こうした状況を受けて、信長は兵糧戦に切り替え、戦況は膠着(こうちゃく)する。
翌天正7(1579)年9月、村重は毛利氏への援軍を求めるためひそかに有岡城を脱(ぬ)け、村次の守る尼崎城に入った。
状況打開のための行動だったようだが、これが裏目に出る。
主が不在となったところをつけ込まれ、有岡城は落ちてしまうのである。
 城に残された妻子らを人質に、信長は村重に降伏を迫った。
しかし村重は頑(かたく)なにこれを拒む。
怒った信長はまず、尼崎に近い七松(ななまつ)という場所で女房衆123人を磔(はりつけ)にした。
泣き叫ぶ声が天に響いたというが、明らかに見せしめである。
次いで女房付きの若党と下級武士の妻子ら512人が、文字通り惨殺(ざんさつ)された。
四つの家に押し込められ、草を積まれて焼き殺されたのである。
そしてその数日後、最後に村重の妻や娘をはじめ、主だった一族の妻子約30人が、京都の六条河原で首を刎(は)ねられた。
結局、650人を超える人質が皆殺しとなったのである。
 又兵衛はこの惨劇から辛くも逃れた。
落城の混乱の中、乳母に抱かれて城を脱けだし、本願寺教団に逃げこんだのである。
村重は謀反時に本願寺と同盟を結んでおり、娘を人質として預けていた。
その縁を頼ったのだろう。
この後しばらく、又兵衛は本願寺にかくまわれたと考えられる。
 さて、六条河原で処刑された女房衆の中に、だしという女性がいた。
おそらくは村重の三人目の妻で、「今楊貴妃」と呼ばれるほどの美女であったという。
彼女の残した辞世の句に「残しをくそのみどり子の心こそおもひやられてかなしかりけり」というものがある。
「残しをく」とあるからには、彼女の子供は処刑を免れ生き延びたことになる。
 又兵衛の父を村重とする立場からは、それこそが又兵衛で、だしは又兵衛の母親であると見なされてきた。
この時又兵衛は数えで二歳、満年齢でいえば一歳前後である。
たしかにみどり子と呼ぶにふさわしい。
ただ、他にも生き延びた子供のいることが分かっており、確かなことは言えない。
 いずれにしろ、幼くして又兵衛は父母と生き別れたことになる。
先に人質となっていた村重の娘とともに、しばらくは本願寺で育ったと推測されるが、その本願寺も信長との戦いに敗れ寺地を明け渡し、紀伊や和泉を転々とする。
本能寺の変を受け、大坂(天満)に戻るのは天正13(1585)年のことである。
又兵衛は数えで八歳になっていた。
 実はこの頃、村重と村次も大坂近辺に住んでいたらしい。
彼らは有岡落城の後もしばらく抗戦したが、結局毛利氏を頼って備後尾道に逃げた。
その後信長が討たれ、秀吉が実権を握ると、中央に復帰してこれに仕えることとなる。
村重が堺に住んでいたことは分かっているが、村次も秀吉に近侍(きんじ)したようだから、大坂城下に住まいがあったと思われる。
 何も記録はないが、この時又兵衛は荒木家に戻ったのではないか。
本願寺にしてみれば、彼らをいつまでも養う義理はない。
同盟を結んで戦った信長はすでにいないのである。
お互い地方に下っていた時期ならばともかく、大坂に戻ってなお、別々に暮らす理由はないだろう。
 もうひとつ、又兵衛が荒木家に戻らねばならぬ理由があった。
後継者問題である。
復帰後の村重は茶人として秀吉に仕えたらしく、家督は長男の村次に譲ったとみられる。
ところが、復帰間もない天正11(1583)年4月、賤ケ岳(しずがたけ)の合戦に参戦した村次は傷を負って歩行困難な体となってしまう。
さらに、かわりに仕えた次男の村基も、時期は不明ながら早世するのである。
  村次はその後も度々秀吉に拝謁(はいえつ)したと伝わるが、一線を退いたことは明らかで、荒木家は武家としての存在感を失い、存続の危機を迎えたといえる。
そこで注目されたのが又兵衛の存在だろう。
惨劇を免れ生き延びた息子を放っておく理由はない。
かくして又兵衛は荒木家に戻り、元服して村直を名乗ることになったのではないか。
(『岩佐又兵衛 浮世絵の開祖が描いた奇想』別冊太陽 日本のこころ247 平凡社)

伊丹市を訪れ有岡城を見学したことがあります(2016年7月14日の日記
豊臣秀吉は、秀次の幼児や妻妾たち39人を三条大橋西畔の河原で死刑にしました(2017年10月12日の日記
今朝の父の一枚です(^^)/
ひまわりも品種改良されて背丈の違うのがあるのだなぁと公園にきてから知りました。

●キク科に特有な花

 夏といえばヒマワリの花、秋といえばコスモスの花を連想する人もいるのではないでしょうか。
ヒマワリもコスモスもキク科の植物で、ヒマワリは色鮮やかな黄色、コスモスはきれいなピンクの花を茎の先に咲かせていますが、1つの花に見えるものは、じつは2種類の花冠を持つ花がたくさん集ってできたものです(頭状花序<とうじょうかじょ>または頭花<とうか>)。
 ヒマワリの花の一番外側には、黄色の花びらがあります。
この花びらの1枚1枚が1つの花冠の大きく発達した花弁部分で、その下には短い筒があります。
この周辺部の花冠を「舌状花冠(ぜつじょうかかん)」といいます。
 一方、ヒマワリの花の中心部分をよく見てみると、細長い筒状の先が5つに別れて星形になっているものがあります。
これがもう1つの花冠で、「筒状(とうじょう<管状(かんじょう)>)花冠(かかん)」といいます。
 コスモスやツワブキ(キク科)でも同じような花の形が見られ、外側に舌状花、内側に筒状花を持つ花は多くのキク科植物で見られます(図87 略)。
 また、キク科の植物は合弁科類で5数性ですので、5枚の花弁が合着して筒になっています。
さらに、雄ずいも互いにつながって筒状になって雌ずいを取り囲んでいます。
ヒマワリでは、筒状花の星形に開いた花弁の中から濃褐色の雄ずいと雌ずいが出ています。
 しかし、ヒマワリやコスモスの舌状花には雌ずいが見られませんが、ツワブキなどは舌状花の筒部分から雌ずいが出ているのがわかります(図88 略)。
周辺部の舌状花は昆虫を誘うための飾りの役割をしているものが多いため、雄ずいや雌ずいがないものもあります。
しかし、キク科のなかでもタンポポやノゲシ(図29:49ページを参照 略)の花は舌状花だけからできていて、アザミは筒状花だけからできています。
(『観察する目が変わる 植物学入門』矢野興一 ベレ出版 2012年)