2022年7月23日土曜日

大暑そして

公園に向かっていると黒い雲が空を覆っていました。
雨が降るかなと思っていたけど、青空も見えてきました。
アオノリュウゼツランが咲いていました。

雨が降らなくてよかったけど、一方、
大気の状態不安定 土砂災害や川の増水などに警戒を」(東北NHK)

「大気の川」上空から国内初 線状降水帯の予測とメカニズムは?〟(NHK)
 ヒオウギももうじき咲くかな?
あと楽しみにしているのがクサギ
今日は、「大暑」で最も暑いと言われているけど暑さの更新はこれから…
そして今日は「土用の丑」で…

 鰻(うなぎ)

 鰻は全国的に分布しているが、天然物は高価で、ほとんどが養殖物である。
その養殖場も近年までは浜名湖周辺が多く、新幹線の車窓から見えたものだが、最近は少なくなって、ソーラー発電パネルに変わっているようだ。
現在はむしろ九州の方が養殖池が多くなり、さらに中国や台湾からの輸入物がほとんどになってしまった。
その上に、養殖に不可欠なシラス(鰻の稚魚)が不漁で、将来鰻が食べられなくなるかも、と心配する向きもある。
(『京なにわ 暮らし歳時記』山田庄一 岩波書店 2021年)
 代表的な料理法は蒲焼だが、これは古くは筒切りにしたのを串に刺して焼いた形が、蒲の穂に似ていたところからこの名前になったと聞いたことがある。
 料理法は、東西で大きく異なる。
広く知られるように、東京は背開き。
この地ではかつて武家が多く、腹から裂くのは切腹に通じると忌み嫌ったといわれるが、本当かどうか?
そして白焼にしたあと、一度蒸して余計な脂を落とす。
一方、大阪は腹から裂き、そのあと蒸さずにタレを付けて焼く。
だから脂が濃くて皮も固くなる。
私自身はあっさりした江戸焼の方が好きだ。
以前から大阪にも「竹葉亭」、京都にも「神田川」「江戸川」など江戸焼の店があった。
 ところで、大阪では鰻丼のことを「鰻まむし」と呼ぶ。
これにも諸説あるが、私は「飯(まま)蒸し」が語源と信じている。
最近は知らぬが、戦前の鰻まむしは並の場合、蓋を取っても肝心の鰻が見えない。
(じょう)になるとはじめて飯の上に鰻が乗っているのである。
しかも、祖母に聞いた話だと、昔の鰻屋は、客が来るたびにその分だけ飯を炊いたそうで、蒸らしていないから柔らかくべとべとしている。
家の飯でも柔らかいと「鰻屋のご飯みたいや」と言っていた。
その上、まむしの容器は陶器の丼ではなく、漆塗りで丸い蓋が上から覆うように冠せてある。
つまり熱々の飯の中に鰻を入れて蒸したのだろう。
だから「飯(まま)蒸し」即ち「まむし」というわけだ。
 大阪の鰻屋としては「東呉(とうご)」「柴藤(しばとう)」「菱富(ひしとみ)」、大衆店として「いづも屋」などが有名だった。
私の家では鰻屋へ行くことはほとんどなく、もっぱら東呉に出前を頼んでいた。
おそらくどこの店でも同様だと思うが、出前用の器が冷めないように工夫されていた。
やはり塗物で色は茶褐色。
まむしの場合は一人前ずつ、蒲焼や鰻巻(うま)きだと数によって大きさが変わるが、方形で二重になっており、下に熱湯を注いでその上の皿状の器に注文の品を入れ、蓋をすっぽり冠せてある。
同様の一人前の器を東京でも見たことがあるが、店の名は失念した。
 柳川鍋で知られる福岡県の柳川は、川の美しい水郷としても有名だが、ここの鰻飯は独特で、小さな蒸籠(せいろ)に飯を入れた上に鰻と錦糸卵を入れて蒸してある。
タレが飯に染み込んで美味しい。
(『京なにわ 暮らし歳時記』山田庄一 岩波書店 2021年)
三 鰻飯を人気食にしたアイディア商法
 (一)『守貞謾稿』にみる鰻飯


 天保8年(1837)から嘉永6年(1853)にかけての江戸の風俗を記録した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』(嘉永6年・1853<慶応3年・1867まで追記あり>)には「鰻飯」の詳しい説明が載っていて、

(『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼――日本五大どんぶりの誕生』飯野亮一 ちくま学芸文庫 2019年)
 「鰻飯 京坂にて「まぶし」、江戸にて「どんぶり」と云ふ。鰻丼飯の略なり。京坂にては、生洲等にてこれを兼ね売る。江戸にては、右の名ある鰻屋にはこれを売らず、中戸以下の鰻屋にてこれを兼ね、あるひはこれを専(もつぱ)らにす。江戸鰻飯百文と百四十八文、二百文。図のごとく蕣(あさがお)形の丼鉢に盛る。鉢底に熱飯を少しいれ、その上に小鰻首を去り長(た)け三、四寸の物を焼きたるを五、六つ並べ、また、熱飯をいれ、その表にまた右の小鰻を六、七置くなり。<略>必らず引裂箸(ひきさきばし)を添ふるなり。この箸、文政以来此(ころ)より、三都ともに始め用ふ。杉の角箸半(なかば)を割りたり。食するに臨んで裂き分けて、これを用ふ。これ再用せず。浄(きよ)きを証すなり」(「巻之五・生業」)
とある(図12<省略、以下同じ>)。
ここにはうなぎ屋が鰻飯を江戸っ子の人気食に仕立て上げていったアイディア商法がいくつか示されている。
以下それについて述べてみよう。

図12 鰻飯の絵。
鰻飯の丼が二つ描かれているが、左側の蓋つきの丼の上には割箸が乗り、右側の丼には小ウナギの蒲焼が乗っている。
『守貞謾稿』(嘉永6年)
(二)主食と一品料理を盛り合わせた鰻飯(略)
(三)割安な小ウナギを活用した鰻飯
(略)

(四)割箸が添えられた鰻飯

 次に鰻飯には「必らず引裂箸を添ふる」とあることに注目したい。
 箸を使って食事することは中国で始まった。
それが日本に伝わり、日本では1300年前後頃から箸を使って食事することが始まったが、割箸は日本の発明品で、江戸の食べ物屋が発展していくなかで使われ出した。
 江戸での割箸づくりは、18世紀の終わり頃には始まっていた。
山東京伝作の『金々先生造化夢(きんきんせんせいぞうかのゆめ)』(寛政6年・1794)には、「御誂 御はし品々」の看板を掲げて箸作りをしている箸屋が描かれているが、文中に「ひつさきばし」(引裂箸)の名がみえる(図15)。
また、同じ京伝作の『忠臣蔵即席料理』(寛政6年、『仮名手本忠臣蔵』のパロディー本)では、高師直(こうのもろなお<吉良義央>)に侮辱された塩谷判官(えんやはんがん<浅野長矩>)が「ひつさきばし〔引裂箸〕をひつさいて」無念がっている(図16)。

(『金銀先生造化夢』、『忠臣蔵即席料理:3巻』 国立国会図書館)
 引裂箸は現在同様割箸とも呼ばれた。
はじめのうちは割箸の存在を知らない人がいて、
 〇「割箸を片々無いと大笑い」(柳二九 寛政12年)
と、割箸を出された人が、箸が片方(一本)しかないといって大笑いされている。
十返舎一九の『旅恥辱書捨一通(たびのはじかきすてのいつつう)』(享和2年・1802)では、箸が一本しか添えられていない料理を出された客が「一本でくはれるものか」とクレームを付け、料理屋の亭主が「イヤこれはさきばしでござります。わたくしかたではこれをつかいます」と応じている(図17)。
田舎から江戸に出て来た人などは戸惑いをみせていて、
 〇「わり箸に田舎大きにこまつてる」(柳三二 文化2年・1805)
と詠まれている。
『守貞謾稿』には「文政以来此(ころ)より、三都ともに始め用ふ」とあるが、文政年間(1818~30)以前に江戸では割箸が使われている。
文政年間頃には、大坂や京都でも使われ出した、と解釈すべきであろう。

(『旅恥辱書捨一通:2巻』 国立国会図書館)
 文政年間の前が文化年間(1804~18)で、この時期に江戸で鰻飯が売り出された。
鰻飯に割箸が添えられるようになった時期は分からないが、『守貞謾稿』には「必らず」添えるとある。
まだ割箸がそれほど普及しない時期に割箸が添えられるようになったものと思える。
鰻飯には割箸が適していたからだ。
  当時の江戸の町には、塗箸も作られていたが、木地のままで何も塗っていない白木(しらき)の箸が一般的に出回っていた。
そして、『守貞謾稿』に「杉の角箸半(なかば)を割りたり」とあるように割箸は白木の杉で作られており、繰り返し使用する「杉箸」と同じ位の値段で売られていた。
一回で使い捨てにする割箸はコストがかかったが、うなぎ屋は鰻飯に割箸を添えていた。
中性洗剤のなかった江戸時代にあっては、食器の洗浄には食塩や酢、草木の灰、木炭などが利用され、あぶらよごれには灰汁(あく)や米糠などが用いられたが、一般的には束子(たわし)を使って水洗いされていた。
 うなぎの蒲焼は元禄時代には江戸の町で売られていたが、蒲焼の出し方は、上方とは違っていた。
『守貞謾稿』「巻之六・生業」に、京坂(京都・大坂)は「串を去りて椀に盛る」、江戸は「串を去らず皿に盛る」とあるように、江戸では串を抜かずに客席に出していた。
したがって、江戸っ子は串を手に持って蒲焼にかぶりついたりしているが(図18)、箸で蒲焼を食べても鰻飯ほど箸は汚れない。
 鰻飯はタレがご飯の中まで浸みこんでいて箸がかなり汚れる。
鰻飯に使用した白木の箸は汚れが落ちにくいので、使い捨ての箸が相応しい。
うなぎ屋はコストがかかっても、江戸の町に出回り始めた割箸をサービスして清潔感を持たせていた。
鰻飯の普及には割箸が一役買っていたのだ。
 江戸のうなぎ屋は、江戸前うなぎをブランド化したり、土用丑の日ウナギデーを年中行事化させたりして、蒲焼を江戸っ子の人気食に仕立て上げていったが、うなぎ屋のアイディア商法は、箸にも及んでいた。

(五)鰻飯にマッチしたタレの工夫(略)

(『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼――日本五大どんぶりの誕生』飯野亮一 ちくま学芸文庫 2019年)