2022年7月2日土曜日

雲がない…

 目が覚めて携帯みたらビックリ。
繋がらない…父の携帯も同じ…

KDDI 全国で携帯電話の通話やデータ通信 つながりにくい状況に」(NHK)
つながりにくい状況」ではなく、まったく繋がらなかった…
万歩計は機能していたので、どうやって計測しているのだろうと不思議だった。

11時ごろ少し繋がったと喜んでいたら、
暑い中、6000歩程歩いたのに、リセットされて「0」になっていた(T_T)
公園に着くと「ありがとう、すずしいわぁ」と女性の声が聞こえてきました。
小さな男の子がハンディ扇風機で、お母さんに涼しい風を送っていました。
お母さんが何度もありがとうと言ってくれるので
男の子は、うれしくてうれしくてたまらない様子でした。
今朝は、雲一つない青空で7時45分に東屋の温度計を見ると32度でした。

全国各地で猛暑日 群馬県などで37度に 熱中症に厳重警戒を」(NHK)
建礼門院右京大夫集』より「大原に建礼門院を訪」を転記したいと思います。
「詞書」は、現代語訳で転記します( ..)φ
続いて、「ただ死にたしと」も転記します。
転記する順をかえていますのでご了承ください。
 大原に建礼門院を訪(おとな)

 <詞書 現代語訳

  女院が大原においでになるということだけはお聞き申しあげましたが、適当な人の案内がなくては参上することもできません。
しかし、女院を深くお慕いするわたくしの心を道しるべにして、やむにやまれぬ気持からお訪ねしました。
次第に近づくにつれて山道の様子からしてまず涙が先にあふれ、その悲しさは言いようがない。
女院のご庵室(あんしつ)のあたりの様子、お住いの中、ご生活の有様など、すべて見るに堪えないほどひどいものでした。
昔の華やかなご生活を拝見しない人でさえ、ここのおおよその有様は、どうしてこれが当たり前のことと思えましょう。
まして昔を知るわたくしには夢とも現実とも言いようがない。
深まりゆく秋の山から吹きおろす風が近くの梢に響きあい、筧(かけい)の水の音、鹿の鳴き声、虫の音、秋の山里はいずこも同じ風情ですけれども、わたくしにとってはこれまでにためしがないほど悲しく思われました。
都においでの折には、錦の美しい衣裳を着重ねて、お側にお仕えしていた女房が六十余人もいましたが、見違えるほどにやつれた墨染の衣の尼姿で、わずかに、三、四人ばかりがお仕えしておられます。
その方々とも、「それにしてもまあ、まあ」とばかり、私もお仕えの方々も口にするだけで言葉にならず、むせび泣く涙で胸がいっぱいになって言葉も続けられない。
(『建礼門院右京大夫集 全訳注』糸賀きみ江 講談社学術文庫 2009年)
240 今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき

 (今が夢の中なのか それともあの昔が夢だったのか 思い迷ってどう考えても 現実のこととは思われない)

241 あふぎみし むかしの雲の うへの月 かかる深山(みやま)の 影ぞかなしき

 (その昔雲の上の宮中で まばゆい月のようにお見上げ申した中宮さま 今はこのような寂し山奥にお住まいのご様子が 何ともおいたわしく悲しい)
  照り映える春の花、秋の月の光にたとえるにしても、どちらか一方のたとえだけでは不十分なお美しさだった女院さまのご容姿(ようし)も、別のお方ではないかとばかり、ついありし日が回想されますが、いたましいご様子を拝見しながら、どうして何の思い出もない都へ帰れましょう。
そう思いながら、どうして帰るのであろうと、自分がいとわしくなさけない。

242 山深く とどめおきつる わが心 やがてすむべき しるべとをなれ

 (山深く残しておいたわたくしの心よ わたくしが出家して 女院のお側にお仕えできるような手引きになってください)
 <語 意

女院(にようゐん) 建礼門院。女院は、平家一門と西海に赴き、壇ノ浦で一門とともに入水(じゅすい)したが救助されて元暦2年(1185)4月25日都へ還り、5月1日に大原の本成房(ほんじょうぼう)を戒師として出家。はじめ東山の麓(ふもと)、吉田の辺に住んだが、さらに洛北大原寂光院に入った。時期は同年9月末とも10月末ともいう。大原入りは本成房の縁かといわれる。
大原 京都市左京区大原町。洛北の八瀬(やせ)よりさらに約1キロ北方。女院の庵室は、大原草生(くさお)町寂光院(天台宗の尼寺)の本堂の左手、一段下った百五十平方メートルぐらいのささやかな平地にあったという。
さるべき人に知られでは 適当な人の案内がなくては。
山颪(おろし) 山から吹きおろす風。
都は 「見わたせば柳桜をこきまぜてみやこぞ春の錦(にしき)なりける」(素性<そせい>法師、『古今集』春上)により、「錦」を導くための序とした。なお「みやこぞ」の異文がある。
三四人ばかりぞさぶらはるる 『平家物語』灌頂巻大原御幸の条には、信西(しんぜい)の女(むすめ)阿波内侍(あわのないし)、重衡の妻の大納言佐局(すけのつぼね)の名が見える。
241歌 〇かかる 「斯(か)かる」と「(月が)懸(かか)る」との掛詞。「雲」「かかる」「影」は「月」の縁語。2歌(20頁)参照。
花のにほひ 春の花の美しい色つや。「花のにほひ」と「月の光」は対句になる。
242歌 〇すむ 「澄む(出家をする)」と「住む」がかかっている。
とをなれ 「を」は間投助詞。
 <解 説

 詞書1行目の「さるべき人」を案内するにふさわしい女院に縁のある人、あるいは許可することのできる源氏方の人。と解する説もあり、また「知られては」と読んで、源氏方に知られたならば、と解する説もある。
 240歌は『風雅集』雑下に入集。
241「あふぎみし……」の歌と、「忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは」(在原業平、『古今集』雑下・『伊勢物語』83段)とは、詠出のばが近似している。
 春は花に、秋は月の光に喩えられた女院の変わりはてた御姿に、かつて大原御幸の御供をした後徳大寺実定は、「いにしへは月にたとへし君なれどその光なきみ山辺の里」と詠じて庵室の柱に書きつけた(『平家物語』灌頂巻女院死去)。
 作者は242歌で「わが心やがてすむべきしるべとをなれ」――私が出家して女院のお側でお仕えすることができますように――と祈願したが、それは果たされずに終わった。
女院は文治元年(1185)に大原寂光院に入られた。
翌文治2年の春に、後白河法皇が御幸になったのは『閑居友(かんきょのとも)』や『平家物語』によって知られる。
そして作者が女院をお訪ねしたのは文治2年の秋も深い頃であって、この章段はその時のことを記したと思われる。
    ただ死にたしと

  なにごとにつけても、世にただ、なくもならばやとのみおぼえて、

243 なげきわび わがなからましと 思ふまでの 身ぞわれながら かなしかりける
 <現代語訳
  女院さまの変わりはてたお姿、消えやらぬあの方の面影など、何事につけても、ひたすら、死んでしまいたいとばかり思われて、

243 嘆き疲れその果てに いっそのこと死んでしまえたら と思うまでになったわが身が われながら切なくいとしい

 <語意
なにごとにつけても 女院の変わりはてたお姿、消えやらぬ資盛(すけもり)の記憶など、何事につけても。
なくもならばや 底本に「なくもやならばや」とあるのを、諸本によって改めた。
(『建礼門院右京大夫集 全訳注』糸賀きみ江 講談社学術文庫 2009年)