2022年7月3日日曜日

気温は下がったけど

出かけるときに雨が降り出して
東屋の温度計を見ると28度位でした。
雨で気温は下がったけど、湿度が高く梅雨みたいな蒸し暑さ。
台風の湿った空気が流れてきているのかな?

【台風4号】台風から離れた近畿で予想上回る猛烈な雨 警戒を」(NHK)
午後3時を過ぎても電話できなかった…
私の場合は、携帯でしていることは限られているけど

auなどに通信障害【速報中】“原因は機器交換時の不具合から”」(NHK)

KDDI通信障害、復旧に遅れ 物流・ATMなど影響」(日経 7月2日、3日更新)
これまでの通信障害では個人向け携帯での電話が使えなくなることが影響の中心だったが、
5Gで通信が産業に入り込み社会的な影響は甚大になっている。


今回の事を活かして対策ができればいいのだけど…

太陽フレア被害想定 携帯電話・TVが断続的に利用不可も」(NHK 6月21日)
太陽は活動の周期があり、3年後の2025年ごろに活発になり、
「太陽フレア」と呼ばれる太陽表面の巨大な爆発現象が増えると見込まれています。
各巻の初めに当時の背景が書かれています。

平家物語 巻第十二
 大地震と怨霊


 元暦2年(1185)7月9日、午の刻、京に大地震があった。
当時権大納言正二位であった中山忠親は、それは五十年来経験しなかった激震といい、その様子を『山槐記(さんかいき)』に記録している。
8月14日、対策として文治改元が行われたが、その後も余震は続く。
この間、8月19日には、地震を静めるために院御所(六条北、西洞院西の、いわゆる六条殿)において、仁和寺法親王の修行が行われた。
8月28日には、東大寺の大仏開眼供養が行われ、法皇もこれに参加している。
以後忠親の記録が途切れる9月29日まで、ほとんど連日のように地震の記録が見られる。
(『平家物語(四)』梶原正昭、山下広明校注 岩波文庫 1999年)
ところで地震が起きる前、同年の7月3日には、先帝(安徳天皇)および戦没士卒の霊を弔うために長門に一堂を建立しては、との建議がなされていた。
その矢先の大地震であった。
院御所の破壊は著しく、寝殿が使えなくなったという。
7月23日には、過日、治承4年(1180)5月に討たれたはずの三条宮以仁王(もちひとおう)が、いまだ生存するとの噂が流れた。
これは8月3日に誤報とわかるが、九条兼実は、これらの怪異を、衆生の罪業が深いために神が怒りをなす、その祟りとし、その原因を源平の乱の死者の恨みに求めている。
保元の乱の崇徳院をはじめ、数々の怨霊が後白河法皇を苦しめ、その対策として建久2年(1191)閏12月、ようやく長門に一堂建立の決定を見るのである。
しかし法皇は翌3年3月13日に66歳の生涯を閉じる。
兼実は、その崩御をいたみながら、<只恨むらくは延喜天暦の古風を忘れしこと>と評している。
 一方、関東の頼朝の動きを見ると、元暦元年8月、文覚が上洛して東の獄に故義朝の首を求め出し、これを関東にもたらした。
頼朝はこれを、文治元年(1185)9月3日、南御堂の地に葬っている。
勝長寿院である。
平治の乱以後、頼朝は毎日亡父を弔って法華経を転読していたという。
実はこの首発見にも法皇の下知があったと『吾妻鏡』は記録している。
一方で頼朝は、着実に平家の残党を討つと同時に、これまで頼朝の意に背いた義経を追い、文治元年11月、その追討を口実に守護地頭の設置と兵糧米徴収の勅許をえている。
 以上、物語を通じて、歴史を動かした後白河法皇と頼朝の存在が改めて思い知られる。
『平家物語(四)』梶原正昭、山下広明校注 岩波文庫 1999年)
第二章 いかに退治するか――中世
 病気治療のための囲碁と双六


 実は、囲碁や双六、将棋は、占いや儀式の折ばかりではなく、なんと病気治療時にも必要とされていた。
まず、『権記(ごんき)』寛弘4年(1007)8月19日条に、花山院(かざんいん)が重い病を患い、右大臣藤原実資が参内し、権中納言藤原隆家と大蔵卿藤原正光(まさみつ)は双六を行った、とある。
重篤の花山院が双六の対戦を観(み)て楽しんだとは考えにくく、院の病気治療が目的だったのではないだろうか。
もうしそうであるならば、病気治療のためにに双六をやった早い事例となる。
さらに、『山槐記』元暦(げんりゃく)元年(1184)9月8日条には、次のようにある。
(『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』小山聡子 中公新書 2020年)
  今朝、典薬頭(てんやくのかみ)の和気定成(わけのやすしげ)が中山忠親の邸に来て言うことには、病気の後白河(ごしらかわ)法皇は五木(ごもく)の湯で沐浴(もくよく)され、食欲なく、周囲の者が驚くほどにやつれている。沐浴をしているあいだ、夜通し双六をやった。病気は治らなかった。きわめて不都合である。
 後白河は、病気を治すために、夜を徹して双六をしたのである。
ちなみに、神仏と人間の交感には夜間がふさわしいと考えられ、モノノケ調伏(ちょうぶく)のための加持も夜に行われることが多かった。
 後白河法皇が双六による病気治療を行ったことは、他の史料でも確認できる。
たとえば、文治3年(1187)4月、後白河はモノノケによる病を患い、様々な祈禱を受けていた。
そして、『玉葉(ぎょくよう)』4月9日条には、病気治療のための祈禱に関する記述に続けて、次のようにある。
  今朝、後白河法皇が双六をやった。これは物狂(ものぐるい)のことであろうか。また、最近、往生要集の談義があり、澄憲(ちょうけん)法印以下五人の学僧がそれに加わったということである。法皇は長年、少しも仏法を説き記した文章を理解してこなかった。ましてその学問的な議論などは言うまでもない。だけれども、この病気の時に、突然にこの談義を行ったのである。奇妙なことだ。これはまた、物恠(もののさとし<不慮の現象が起こる予兆>)だろうか。
 双六も『往生要集』の法文談義も、治病行為だったのだろう。
『玉葉』の著者九条兼実は、後白河法皇による双六について、物狂のことか、と手厳しく批判している。
双六で病気を治そうとする行為は、兼実の目には奇怪に映ったからであろう。
また、兼実によると、後白河は日ごろはやりもしない法文談義を病気なった途端にやり始めたという。
これについても奇怪であり、あるいは不慮のことが起こる前兆としての怪異現象であろうか、と評している。
(『もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年』小山聡子 中公新書 2020年)

この本には、藤原道長がモノノケに脅える姿も書かれていました。
道長も後白河も良心が少しはあったから、モノノケを恐れたのではないでしょうか?
プーチン大統領には、道長や後白河のような良心の欠片はあるのでしょうか…
 今朝の父の一枚です(^^)/

 柘榴(ざくろ)

〇奈良東大寺二月堂下の若狭井脇の鬼子母神は安産の神として信仰され、ザクロを描いた絵馬は上げて祈願する。
鬼子母神は鬼神王の妻といわれ、千人の子があった。
人の子を取って食ったが、仏に最後の児を隠され戒められて、子のない女に子を産ませ、安産・育児の守護を誓ったという。
京都市下鴨の鬼子母神も子授けの御利益があるといい、願果たしにザクロの絵馬を奉納する。
金沢市でも鬼子母神に子授けを祈るため、柄杓を供え、達者に成長するようにザクロを供える(子を欲しない時は、底ぬけ柄杓を奉納する)。
(『日本俗信辞典 植物編』鈴木棠三 角川ソフィア文庫 令和2年)