2022年7月1日金曜日

七月が始まり…

今日も危険な暑さが続きそうです。
NHKニュース おはよう日本で気象予報士の近藤さんは帽子を被って解説してました。
スイレンも日差しを避けて葉の陰に隠れている…

近畿各地で猛暑日 こまめに水分補給など熱中症に厳重警戒」(関西NHK)

週間天気予報を見ていて、来週、雨が降りそうだなと思ったら…
台風4号が発生 あすからあさってにかけて沖縄に接近か」(NHK)
 「3年ぶりに一般の人も参加して“氷室開き” 金沢の湯涌温泉」(石川NHK 6月30日)

京都一周トレールを歩いていた時に氷室跡を訪ねたことがあります。
この氷室から氷が天皇へ献上されていたのだなと思ったけど
どうやって氷を保存していたのか想像できませんでした。

氷室神社と氷室の跡」(吉村晋弥 京都旅屋 2013年6月26日)

氷室跡」(京都市歴史資料館)
  「大原御幸(おおはらごこう)」つづき

 やがて、いつしか、鐘の声が夕暮を告げはじめた。
積る話も多く、お名残も尽きなかったが、漸(ようや)く庵室を出られて、法皇は都へ還られるのであった。
御輿が、山合いの木立の陰にかくれ去るまでお見送りしながら、女院は、日頃は忘れていた、はなやかだった昔の事が、それからそれへと憶い出されてくるにつれて、庵室の障子に、二首の歌を書きつけられた。

  此の頃はいつ習いてかわが心
    大宮人の恋しかるらん

  いにしえも夢になりにし事なれば
    柴のあみ戸もひさしからじな

 また、供奉に加わった徳大寺大納言も、興の赴くままに一首の歌を庵の柱に書きつけていった。

  いにしえは月のたとえし君なれど
    その光なき深山辺(みやまべ)の里
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
  山里の春も過ぎ、夏も行き、四季の移り変りを何度も送り迎えている間に、年月は夢のように過ぎていった。
やがて静かな僧庵暮しを続けていた女院は、病の床に就く身となった。
元々、覚悟の上でのことであるから、少しもお悩みの様子もなく、中尊の持つ五色の糸を手にして、「南無西方極楽世界教主弥陀如来、本願過(あやま)ち給わず、必ず引摂(いんじょう)し給え」と念仏を称えながら、静かに世を去った。
大納言佐局(すけのつぼね)、阿波内侍が、取りすがって声を限りに泣いたが、静かな微笑をたたえたそのお顔からは、何の苦しみも見出せなかった。
建久二年二月の中旬のことである。
西の空に紫の雲がたなびき、珍しい匂が部屋中に満ちあふれ、妙(たえ)なる楽の音が聞えてくる中を、昇天されたのであった。
 残された二人の女房は、后(きさい)の宮の時代から女院の傍を片時も離れず奉公した者だけに、別れは一層辛かったらしい。
他によるべのない身の上であったから、そのまま庵に住みついて、仏事を営みながらも、二人とも、しずかに往生を遂げたということであった。
(『現代語訳 平家物語(下)』尾崎士郎 岩波現代文庫 2015年)
灌頂巻」を終わりますが、後白河法皇が建礼門院徳子を訪ねたのはなぜだと思いますか?

*大原御幸
 覚一(かくいち)系諸本では建礼門院に関する出家以後の話題を一括して、十二巻の後に付篇として置く。
すなわち「灌頂巻(かんぢようのまき)」であり、その中心となるのが大原御幸なのである。
しのびの御幸とはいえ錚々(そうそう)たる公卿殿上人多数随行する大原御幸には疑念がよせられ、女院の六道演説も事実とは思えず、当時の記録にも見えぬところから、これは平家物語の創作かとも言われた。
(『平家物語 下 新潮古典集成』水原一校柱 昭和55年)
しかし『閑居友(かんきょのとも)』(承久4年・1222)に「建礼門院御いほりにしのびの御幸の事」という話が載り、文治2年春に後白河院が訪うたこと、留守の老尼と問答のこと、女院が壇の浦の悲劇経験を今は善智識と観じて述懐することなど、平家物語と対応し得る話題である。
壇の浦の追想が六道問答へ拡大することも納得でき、『閑居友』を以て大原御幸の原拠に近い一資料と見なすことができるのである。
御幸の供奉(ぐぶ)者には誇張があろう。
諸本では名に異同があり、共通して現れるのは後徳大寺実定と花山院兼雅の二人で、その辺がしのびの御幸の規模にかなうであろう。
悲運の后(近衛河原の大宮多子<さわこ>)を妹にもつ実定が供奉したとすれば鑑賞に興味が深まる。
御幸の経路は覚一系が鞍馬(くらま)通りの迂回路(うかいろ)であるのに対して、八坂系は日吉参詣が名目、延慶本は補陀落(ふだらく)寺参詣が名目でともに小野・大原を北上することになる。
大きな問題は後白河院の御幸の真意である。
四部本は「御同宿事何可有被ケレ仰(御同宿ノ事イカガアルベキト仰セラレケレドモ)」頼朝を憚(はばか)って諦(あきら)めたと穏やかならぬ事情を記す。
延慶本にその方向に汲むべき端々が多い。
真相は、勝利の帝王が敗残の后妃に対して寄せる偏執的な愛情というべきものであったろう。
行間の観察から浮び上がるのは、薄明の幼帝の母后として、また敗亡の氏族の残存者として、という以上に悲惨な受苦の女人像であり、文学はこれをいたわりつつ語り伝えるのである。
*女院往生
 数限りない〝死〟の物語の中で、建礼門院のそれは最も崇高に語られる。
説話に例多い奇瑞(きずい)往生は平家物語ではただ建礼門院のみに示されているのである。
父清盛の無間地獄と両極をなして、英雄の罪業と弱者の祈りとを結ぶ一軸に、乱世ゆえにとりどりの運命の相を配する、そういう平家物語の構図を描いたのである。
この意味を発展させたのが覚一系の「灌頂巻(かんぢようのまき)」であり、そこでは大納言典侍・阿波内侍が往生の女院の左右にとりすがる姿を記し、その後女院の跡を弔った二人の尼も貴い往生を遂げたと語り終えて、平家物語の祈りの幕を下ろすのである。
多くの本が女院の往生の時期を「建久二年如月(きさらぎ)の中旬」とするのも、釈迦涅槃(ねはん)によそえ、また女院を若く美しい尼僧として終えさせる虚構である。
女院崩御には諸伝あるが、延慶本には、女院がその後法性寺辺に移り住んで貞応2年68歳で寂したとするのが注目される。
(『平家物語 下 新潮古典集成』水原一校柱 昭和55年)
今朝の父の一枚です(^^)/
雨が降らないので蓮の葉の上をころころ転がる雨粒が写せない…

 巻第十六(有由縁 雑歌を并せたり) 3837

 ひさかたの雨も降らぬか蓮葉(はちすば)に溜(た)まれる水の玉に似る見む

  右の歌一首は、伝(でん)に云(い)はく、…省略…

(ひさかたの)雨でも降らないかなあ。そうしたら、蓮の葉に溜まっている水が玉にそっくりなのを見よう。

  ◇右の歌一首は、言い伝えによると、「右兵衛に居た人<姓名は未詳>で歌を作ることに勝れた者がいた。ある時、役所で酒食を用意して、役人たちに振る舞うことがあった。ご馳走はどれも蓮の葉の上に盛られていて、宴たけなわとなり、歌や舞が次々と繰り出された。その時、皆が兵衛に「その蓮の葉に因んで歌を作れ」と勧めたところ、彼はたちまちにその声に応じてこの歌を作った」という。

▽蓮葉を愛でる宴会での作か。(中略)蓮の葉の上の水を玉に見立てるのは漢詩の趣向。(後略)
(『万葉集(四)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年)