2022年7月9日土曜日

雨が降りそうな蒸し暑さ

今朝も曇って蒸し暑い…
10時ごろに雨が降る予報だったけど、途中で青空が見えてきました。
大気の状態が不安定なので激しく降るところもあるようです。
天気概況─全国」(NHK)
安倍元首相銃撃 容疑者「特定の団体に恨み」計画的犯行か〟(NHK)

安倍元首相のご冥福をお祈りいたします。
今回の襲撃もだけど、京都アニメ、北新地クリニック放火事件も計画的に準備がされている。
ネットには、安倍元首相と特定の宗教団体との関係は前から指摘されていました。

朝のニュースを見ていて、アメリカでのインタビューに
銃による凶行は、日常茶飯事のような話をしていた方がいました。
日本では、思い込みからの犯罪が増えているように思いますし、
アメリカのように無差別殺人・傷害事件も増えてきているように思います。
「持ち出した包丁で何度も」供述 中学生切りつけ事件〟(東北NHK 7月8日)

ネット上では、ヘイトなど言葉の暴力が溢れています。
ネットの時代となり思い込みによる犯罪が今後も増えていくのではないかと危惧しています。
銃を製造する情報もネットから得たのではないかと思います。

ウクライナでは、ロシアの侵略によって今も多くの人々が傷つき亡くなっています。
理不尽な蛮行の犠牲になった人々は無念だろうな。
先週放送された
NHK映像ファイル あの人に会いたい「アンコール 犬養道子(評論家)

(ダイジェストはNHK人×物×録「犬養道子」

犬養道子さんの祖父は犬養毅
五・一五事件で犬養毅は海軍将校たちに暗殺され、戦時中、犬養さんの家族は国賊と言われました。
「内憂外患の対策」犬養毅首相〟(NHKアーカイブス 1932年)
  犬養毅――大アジア主義に向かって

 犬養、尾崎行雄斎藤隆夫と並べてみて、もっとも年長なのは犬養で、安政2年(1855)4月に備中国川入(かわいり)村(現在の岡山市北区川入)で生れています。
幼少時から漢籍に親しみ、禁欲的な生活を送っています。
環境が勉強に適した空間だったのでしょう。
やがて東京に出て、慶應義塾で学んでいます。
西南戦争のときは「郵便報知新聞」の特派員として現地から連載原稿を送っています。
 その原稿は読者に好評だったといいます。
記事の末尾は、「英雄の末路遂(つい)に方向を錯(あやま)り」と書きつつも、屍(しかばね)を原野にさらす状態になったにせよ、その功績は誰も忘れることはないと、西郷隆盛を讃えています。
福澤諭吉は、その犬養に、ときに自らの稿を口述筆記させることもあったといいます。
(『NHKこころをよむ 近代日本人の精神史』保阪正康 NHK出版 2018年)
 犬養は文を書くだけでなく、行政の仕事などにも対応する能力があり、統計院の統計官などの業務にも携わっています。
そのかたわら雑誌を発行するなど、二十代のときから一端(いっぱし)の仕事をやってのけるというタイプであったようです。
しかし自らの意に反する出来事に出合うとすぐに辞めています。
再び新聞記者に戻り論説を書くのですが、明治23年帝国議会には故郷の岡山県から立候補して当選しています。
このとき犬養は35歳でした。
 明治31年に大隈重信首相、板垣退助副総理という、いわゆる隈板(わいはん)内閣ができます。
日本で初めての政党内閣でした。
犬養はこのとき文部大臣のポストを射止めています。
しかし犬養は19世紀の終わりからは、対中国政策に強い関心をもちます。
この関心が母体となって東亜同文会ができあがったのです。
 中国への支援を具体化することになったのは、孫文と知りあい、孫文の唱える「三民主義(三民=民族、民権、民生)・五権憲法(五権=立法、行政、司法、考試、監察の治権)」に共鳴したからです。
犬養の心中には、西欧列強の帝国主義政策への反発があり、それには日本と中国が手を結んで大アジア主義の目的を完遂しようとの考えがあったと見ていいでしょう。
  明治44年(1911)10月の辛亥(しんがい)革命の成功により、犬養は孫文と互いにときに交渉しながら、日中友好の関係を築こうとしています。
それは中国への進出を目ざし、満州(中国東北部)へ領土を拡大しようとする軍部との間に対立を起こすことになります。
そして犬養にはもうひとつの顔があります。
それは護憲運動のリード役というものでした。
こうした運動が実っていき、加藤高明(たかあき)内閣が誕生するわけですが、犬養は逓信(ていしん)大臣として入閣し、普通選挙法を通過させています。
 日本の政党政治はしだいに政友会と民政党の二大政党に絞れていきますが、小政党をつくり、政界の監視役に徹してきた自らの役目は終わりに近いと潔く政界を引退します。
昭和の初めでした。
しかし政友会総裁のポストを引き受けるように懇願され、政界に戻ってきました。
それが昭和4年でした。
そして昭和6年12月、つまり満州事変から三カ月後の政局で、首相に推されたのです。
犬養ならば暴れ馬の軍部を抑えることができるのでは……と元老の西園寺公望(さいおんじきんもち)らには期待があったといいます。
 しかし昭和7年5月の、いわゆる五・一五事件によって、犬養は海軍の士官、陸軍士官学校の候補生らにより暗殺されてしまいます。
実は犬養は満州事変を政治的に解決するために、盟友の萱野長知(かやのながとも)を密かに上海に送り、蒋介石政府との間で和平の交渉を始めようとしていました。
それが軍部に漏れたのも一因といっていいでしょう。
 犬養は暗殺される直前に、陸海軍のテロリストたちに、お前たちの行動は理解できない、私の政策に疑問があるならしかるべく話をしてあげよう、つまり「話して聞かせてあげよう」と言ったといいます。
テロリストたちは、「問答無用」と叫んで、犬養を暗殺したというのです。
官邸にテロリストが襲ってきたとき、犬養は護衛の警官から逃げるように促されたそうです。
「いや逃げない」と彼らを説得するつもりでいたのです。
 犬養の人生の軌跡をスケッチしてみますと、すぐにわかることがあります。
犬養の政治家生活には前述の三条件が網羅されているということです。
もっとも犬養の政治活動がすべて円滑にいったわけではありません。
昭和5年ごろには民政党攻撃のために、統帥権干犯(かんぱん)をもちだして軍部を利するような質問をしたこともあります。
しかしその政治上の目標は、この国に議会政治を定着させたいとの思いが強かったことがわかります。
 犬養の死は、昭和の時代に入ってわずかに命脈をつないでいた議会制民主政治が、根こそぎ崩れていくことを意味しました。
つまり明治期に芽をだし、大正期に育て、そして昭和に花開くはずの議会政治が、昭和という時代にすべて徒労と化したのです。
(『NHKこころをよむ 近代日本人の精神史』保阪正康 NHK出版 2018年)
前述の三条件

 (一)思想、理念、歴史観をもっている。
 (二)政治家として金銭、私生活に乱れがない。
 (三)議会政治を妨害する勢力と妥協しない。
(『NHKこころをよむ 近代日本人の精神史』保阪正康 NHK出版 2018年)