2021年4月1日木曜日

4月1日

青空で新年度を迎えました。
大学を卒業した年、4月1日のニュースを見るのが辛かったなぁ…。
というのも就職活動をまったくせずに
通信大学を資格をとるために受講したのですが…

入社式はなぜ続く? 変革する独自文化 リアル重視根強く」(NHK)
(「オスの仕事は歌をうまく歌うこと。以上」の続き)

 また、「ホケキョ」の部分はある程度のバリエーションがあります。
よく聞いてみると「ホケケキョ」とか「ホケキョキョ」みたいに少し伸びることがあり、音にも複雑な揺らぎが出ます。
一方、近縁なダイトウウグイスでは歌がより単純になっています。
オス間の競争が少なく、のんびりしているので、あまり必死に鳴いてメスを呼ばなくてもいいのか、あるいは環境が違うために、通りやすい声が違っているのか、このあたりは今も研究が続けられています。
(『鳥類学者の目のツケドコロ』松原始 ベレ出版 2018年)
  さえずり以外には「笹鳴き」と呼ばれる「チャチャチャッ」という声が有名です。
これは非繁殖期でも、また性別を問わずに発する音声です。
「谷渡り」と呼ばれる「ケキョケキョケキョケキョケキョ……」と長く続ける音声もあり、なんらかの警戒音なのではないか、とも言われていますが、まだ意味はよくわかっていません。
(後略)
(『鳥類学者の目のツケドコロ』松原始 ベレ出版 2018年)
素敵な画集があります。

あ と が き
 幼い頃から絵を描くのが好きで、イラストレーターになりたくてデザイン学校に通った。
でも結局、描きたいものが見つからず、進級を待たずに学校を去った。
それからは、もう絵を描けない、二度と描くことはないと思った。
夢を失ってひたすら絶望に明け暮れていたときにも、そばには猫がいた。
何も言わずにただそっと寄り添ってくれるあたたかな存在。
タラコとクロ。
それから10数年経った2016年、すっかりお婆ちゃんになったタラコは金木犀(きんもくせい)香る秋に天に召された。
母猫を亡くしたクロと過ごすなか、押入れにしまわれたケント紙とえんぴつを見つける。
「久しぶりにタラちゃんでも描いてみよう」
ここからすべてが始まった。
個展をしたり、画集を出版できるなんて今でもまるで夢のよう。
タラクロが一度はあきらめた夢を叶えてくれた。
わたしのように、ともに暮らす猫の存在に和み、癒され、そして救われた。
そんな人がひとりでも多くありますように。
人に救われ、愛し愛された。
そんな猫たちがこれからもたくさん増えますように。
祈りを込めて。
おたがいに幸せになれるなんて、こんな素敵なことはないのだから。
(『タラクロ・保護猫・地域猫 西方由美えんぴつ画集』金木犀舎 2020年)
本の題名をクリックしてエラーになるようでしたら「金木犀舎」をクリックしてください。
一昨日、黄砂がひどくて見えなかった山(生駒方面)。
今日も少し、霞んでいるように見えます。
黄砂が季語になっているのを知りませんでした。
黄砂は、これからが襲来の時期になるようです。
(つちふる)
<霾(ばい)・霾(よなぐもり)・霾風(ばいふう)・霾天(ばいてん)・黄砂(こうさ)・黄沙(こうさ)>三春 天文

 黄砂は古くからあり、中国の黄土高原には、厚さ200から300メートルの堆積層(たいせきそう)を造った。
日本への黄砂は、タクラマカン沙漠、ゴビ沙漠、黄土高原からくる。
九州での黄砂の堆積は数メートルにもなり、沖縄の赤土の多くも黄砂由来である。
世界一のサハラ砂漠から飛来する砂は「紅砂」と呼んで区別する。
黄砂も紅砂も、12から13日間で世界一周すると言われている。
(『季語の科学』 尾池和夫 淡交社 令和3年)
 黄砂の発生や飛来は、発生域の強風の程度に加えて、地表面の植生、積雪の有無、土壌水分量、地表面の土壌粒径(りゅうけい)、上空の風の状態におって大きく左右される。
黄砂粒子は大気中に舞い上がると、粒径が10マイクロメートル以上の大きな粒子は速やかに落下し、粒径が数マイクロメートル以下の小さな粒子は遠くまで運ばれる。
 東アジアが起源の黄砂粒子が太平洋を横断して、北米やグリーランドへ輸送されたという報告もある。
 日本の昔の歌に詠まれた春霞は、ほとんどの場合黄砂である。
朧月夜も黄砂が原因で起こる。
 黄砂は2月から5月に、特に4月に多く、夏に最小となる。
ライダー装置による黄砂観測を環境省が行い、黄砂飛来情報を午前6時ごろ発表する。
この情報を得て、黄砂の句を詠みに出かけることができる。
 霾という字も、火山灰と書いても「よな」と読む地域がある。
黄砂も火山灰も、大地や海を豊かにするが、一方で災害も起こす。
黄砂による災害では、中国で死者85名という直接的被害が記録されたことがある。
 火山灰も黄砂も元来はきれいなものである。
火山灰や黄砂によって生み出された肥沃(ひよく)な土地の恩恵を受けて、私たちは大地の産物を味わってきた。
中国から飛来する黄砂が、汚染物質を含まない本来の黄砂に早く戻ってほしいと願う。

  つちふるや大和の寺の太柱  大峯あきら

(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
古いテキストですが宇多喜代子さんの『NHK人間講座 女性俳人の系譜』(2002年8月~9月)に
「職業婦人」と「台所俳句」’が載っています。
職業婦人として竹下しづの女の俳句が紹介されています。
第2回 「職業婦人」と「台所俳句」
 竹下しづの女


 近代俳句の先駆けとして名をとどめた女性に竹下しづの女があります。
久女より3年早い明治20年生れ、福岡県立福岡女子師範学校を卒業ののち、小倉師範学校助教諭を務めました。
明治期に女性が教諭という職業に就くということは破格のことです。
大正元年に福岡農学校教諭の水口伴蔵を婿養子に迎えて結婚。
このときが25歳だったのですから、当時としては晩婚だったといえます。
俳句を始めたのは結婚後の大正8年、俳誌「天の川」を創刊したばかりの吉岡禅寺洞と出会ってからのことでした。
(『NHK人間講座 女性俳人の系譜』宇多喜代子 日本放送出版協会 2002年)
  やがて昭和になり新興俳句という俳句運動が起こり、「天の川」はその系譜下に入ることになるのですが、しづの女がかかわっていた頃の「天の川」はまだ「ホトトギス」の傘下の俳誌だったのです。
以前から「ホトトギス」を読んでいたしづの女は見る間に上達して、次の年には「ホトトギス」巻頭に躍り出ます。
明治42年3月に、はぎ女という女性が一句のみで巻頭を得ているのですが、実は男性が女性の名で投句していたのだというよう噂もあり、その後この名を見ることもないことから実力のほども定かではなく、実質的にはしづの女の登場をもって女性による初の「ホトトギス」巻頭作家と見なしていいのではないかと思います。
このときの巻頭七句の中に、しづの女の代表句

  短夜(みじかよ)や乳(ち)ぜり啼く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)  しづの女

 があったのです。
たぶんこのとき虚子が選ばなかったら、この句が歴史に残ることはなかったでしょうし、しづの女が注目の俳人になることもなかったと思われます。
かつて虚子が婦女子の趣味教養のために俳句でもさせようと門戸をひらいたときの思惑とはまったく違うところで、竹下しづの女という一作家の資質を認めたということがよく表れている選句結果です。
 「須可捨焉乎」は「すてつちまをか」と読みます。
「捨てっちまおうか」つまり「夏は夜明けが早く、夜が短い。それなのにこの児は夜中にお乳がほしいと泣いて、眠くてたまらないお母さんを困らせる。そんなに泣く児はもう捨てちゃうよ」という句意です。
若い母親ならみな体験することです。
それをずばりと表現したこともさることながら漢字表記も大胆奇抜です。
  杉田久女やしづの女は古典や漢籍に関する知識をきちんと身につけていましたから、この漢文表現もしづの女の教養から発した一例です。
「須可捨焉乎」には「捨てるよ、否、捨てはしない」という反語の意があるとのこと、けっして捨てることがないからこそ言える言葉です。
  昭和8年1月25日、しづの女の夫が急逝します。
浴槽を出たとたんにウッと声を発して倒れ、そのまま不帰の人となってしまったのです。
しづの女は<貧乏と子が遺るのみ梅の宿>と独白の一句をとどめていますが、けっしてうろたえることはなかったそうです。
本来、女丈夫(じょじょうふ)であったしづの女は、やがて残された未成年の子どもの養育のために福岡県立図書館の出納手として勤務することになります。
まだ女性が社会で職業につくことの少なかった時代に、男性とともに組織の中で仕事をした女性を「職業婦人」と呼びました。
職業婦人として俳句をつくった最初の女性、それが竹下しづの女でした。
  汗臭き鈍(のろ)の男の群に伍す

 ものごとに対して単刀直入でさっぱりした気性のしづの女には、同じ職場でぐずぐずした男が腹立たしかったのでしょう。
こんな男と一緒に仕事をするのは嫌だ、そんな気分が伝わってくる句です。
  また、女性として俳句に関する評論を書き残したのもしづの女をもって嚆矢(こうし)としています。
身辺のことや所感を綴った文書を書く人は久女などもよくしたのですが、当時の「ホトトギス」の女性俳人で評論という体系をもった文章を成したのはしづの女がはじめてです。
「成層圏」に掲載の「新蝶古雁(しんちょうこがん)」という表題の季語論はいま読んでも新鮮です。
 長男の吉信(俳号・竜骨)が俳句にかかわったこともあってか、学生を対象にした俳句の場づくりのために「高等学校俳句連盟」の結成にも尽力しました。
その機関誌「成層圏」を創刊して、指導協力者として中村草田男を推薦、草田男は東京で「成層圏」句会の指導に当たるという画期的なことを実践していったのです。
この草田男指導の句会会員に学生時代の金子兜太(とうた)がいたというのも歴史を感じさせます。
  母の名を保護者に負ひて卒業す

  たゞならぬ世に待たれ居て卒業す

 二男三女を一人前に育て上げたしづの女には、子を戦争の待つ「たゞならぬ世」に送り出すことへの不安があったのです。
 敗戦の前年に「たゞならぬ世」に送り出したばかりの長男竜骨が病没。
落胆に加えてその後の戦後の混乱の中で心労を重ね、長和26年8月3日死去しました。
享年は64でした。
 大正時代の福岡と小倉という北九州の地に、近代俳句の先頭を走った杉田久女、竹下しづの女という強力な女性俳人がいたということは、偶然だったにせよ、やはりこの地にそれを許す気風があったのでしょう。
(『NHK人間講座 女性俳人の系譜』宇多喜代子 日本放送出版協会 2002年)
月1日は、エープリルフール( April fool )。
西洋の習慣ですね。
日本には嘘をつくのでなく「鷽替え」という神事があります。
これも福岡の太宰府天満宮の神事です。
鷽替え・鬼すべ神事」(太宰府天満宮)
鷽替(うそか)

 福岡県の太宰府天満宮などで行われる、参詣者が作り物の鷽を取り替える行事。
太宰府天満宮では1月7日の夕方、参詣者がそれぞれ1年間神棚に祀っていた木製の鷽(今は社務所などで売っている)を持ち寄り「替えましょ、替えましょ」と声を掛けて互いに交換しあう。
その中に神社から出された金の鷽があって、これに当たると吉兆として喜び、神社からお神酒(みき)をいただく。
鷽は持ち帰って神棚にあげ、火伏せとする。
この太宰府の行事は江戸後期に大坂や江戸に伝わり、天満天神や亀戸天神でも行なわれるようになった。
そのほか各地の天満宮もこれを行なう所がある。
もっとも現在では、参詣者が鷽を買い求めるだけの行事になってしまっていることが少なくない。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
鷽替えは、1年間の嘘を鷽につけて罪・穢れを祓(はら)うのだとか、1年間の凶事を噓として吉に変えるのだとか説明されている。
木製の鷽は祭具である削り掛けに似ており、もとはこれを奪いあう一種の年占(としうら)であったろうとする説もある。
大分県宇佐神宮の鳩替え神事など、鳩・玉・剣・達磨・花などを取り替える同じような行事が、九州をはじめとする西日本のあちこちにみられる。(小嶋)
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
メジロの目つきが悪いですね(*´▽`*)

繡眼児[めじろ]
(前略)

漢字ではわかりやすく「目白」と書くのが一般的ですが、じつはメジロと読むもうひとつの漢字表記があります。
 「繡眼児」がそれで、一見難解な表現に見えますが、「繡」は刺繡の繍で「縫い取り」を意味する漢字です。
つまり、この鳥の白いアイリングは、糸で縫い付けたように見えるという意味の表記なのです。
 江戸時代の文献には「目の縁を糸でかがったような鳥なのでこう名付けられた」旨の記述があり、なるほどと思わされます。
なお、末尾の「児」の字は小さなものを親しみを込めて呼ぶ表現です。
 こうした漢字表記の由来を知ると、「目白」よりも「繡眼児」の方が適切だと思えてきます。
「目白」では目そのものが白いような誤解を招きかねませんから……。
読み方は同じでも表記によって印象は随分異なるものですね。
(『日本野鳥歳時記』大橋弘一 ナツメ社 2015年)