2021年4月24日土曜日

明日…

曇り空の朝
明日、緊急事態宣言が発出されるのだけどなんか緊張感がないような…
公園では催し物が予定通り開催されるみたいです。

緊急事態宣言 4都府県 暮らしに関する情報」(NHK)
 安田菜津紀さんのTwitterに

首相会見、「五輪開催はIOCが決定している」「IOCに権限がある」と繰り返していたけれど、人の命や生活を左右しかねない決定をIOCに委ねるかのような無責任な発言だと思う。
その決定が果たして妥当なのか、人命最優先で提言していくのが政府の役割ではないのだろうか。
 平野啓一郎さんが安田さんのツイトを引用して

IOCなんて民間組織にさえ、自国の主張を受け入れさせることができない政府が、どうやってアメリカや中国、ロシアや北朝鮮と外交をするのか? 無能すぎるだろう。

若松英輔さんは、

気が向いたので、久しぶりに会見を見たが、自分たちの状況が、いっそう分からなくなった。
「今回で必ず押さえる」という発言をこれまで何度聞いただろう。
「慣れてはいけない」ともいうが、慣れさせているのが誰なのかという認識がまるでないのにかえって驚いた。
こんな政府のコロナ対策なので、世界から不信の目で見られていると思う。

豪州、飛び込みW杯不参加 東京五輪の最終予選」(時事ドットコム 4月23日)
「選手たちを安全にW杯へ派遣することはできない。
日本は第4波に襲われており、東京にも緊急事態宣言が発令される」との声明を発表。


賢明な判断だと思います。
明日、2005年4月25日に福知山線で脱線事故が起こり107名の方が亡くなりました。
遺族にとって「事故」というより人災であり「事件」と言った方がいいとおもいます。
今も後遺症に苦しんでい方がいる。
例えば、

【JR脱線】痛みと闘い15年…重傷負った玉置さん」(産経新聞 2020年4月22日)

JR福知山線 脱線事故」(NHKアーカイブス 2005年)

そして1951(昭和26)年4月24日には、列車火災で106名が亡くなるという大惨事が起きています。

国電空前の惨事 横浜」(NHKアーカイブス 1951年)
4月24日
 桜木町(さくらぎちょう)で国電が炎上し、乗客多数が焼死した。 1951(昭和26)年

 この日午後1時半ごろ、京浜東北線(けいひんとうほくせん)の5両編成の下り電車が終点の桜木町駅ホームに入る直前、1両目の屋根から火を吹いた。
アッという間に1両目が全焼、2両目が半焼して、106名が死亡するという大惨事となった。
たるんでいた架線(かせん)に電車が接触して火を吹いたのだった。
これほどたくさんの死者が出たのは、戦後の資材不足で、戦前からの古い型の車両が使われていたためだった。
鉄骨に板をはり、塗料をぬった粗末な車両で、しかも内側からドアが開かず、窓もガラス節約のため脱出しにくい三段開きになっていた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
4月24日
 元和6年(1620.5.26) 〔忌〕アダムス(三浦按針、57、初渡来イギリス人)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
第四章 鎖国への道
 1 善隣友好外交
 リーフデ号の漂着


 関ヶ原の戦いを前にした1600年(慶長<けいちょう>5)3月、オランダ船リーフデ号が豊後臼杵(ぶんごうすき)の海岸に漂着した。
リーフデ号は、オランダのロッテルダムの商社が東洋貿易のために派遣した、5艘の船団のうちの1艘であった。
船団は、1598年にロッテルダムを出発し、大西洋を横断、マゼラン海峡を通過して太平洋に入った。
しかし暴風雨に見舞われ、船団はばらばらとなり、ついにはリーフデ号1艘となり、乗組員も当初110人であったものが漂着したときにはわずか24人になっていた。
(『江戸開幕』藤井譲冶 講談社学術文庫 2016年)
 この漂着船の噂を聞いた家康は、航海長のイギリス人ウイリアム・アダムスを大坂城に召し、航海の目的やその様子を聞き質(ただ)した。
その際アダムスは、オランダ、イギリスが日本との貿易を望んでいることを申し出た。
アダムスの話に大いに興味を示した家康は、リーフデ号を堺に呼び、ついで領国の浦賀に廻航(かいこう)させた。
その後アダムスは、家康に外交顧問として召し抱えられ、イギリスの日本貿易開始に助力し、またみずからも朱印船(しゅいんせん)貿易家として活躍した。
 16世紀、世界の海は、イベリア半島の旧教国ポルトガル、スペインの両国によって制圧されていた。
しかし、1588年にスペインの無敵艦隊がイギリスによって撃破されると、両国の覇権に陰りがみえはじめ、他方で新教国であるイギリス、オランダのの東洋貿易への進出が始まった。
リーフデ号の漂着は、その一つのあらわれであった。
 とはいっても、この時点ではヨーロッパ勢力のなかにあって、ポルトガル人が中国のマカオに、スペイン人がフィリピンのマニラに拠点を置き、東アジアの貿易で重要な地位を占めていた。
いっぽうオランダ、イギリスは、まだ東アジアにこれといった拠点を持たない新参者であった。
しかし、オランダ船の来航はポルトガル人にとって大きな脅威であった。
そこで、ポルトガル人は、長崎奉行にオランダ人は海賊だから処罰するようにと訴えたが、家康は取り合わなかった。
家康にとって、オランダは、イギリスはメキシコと同様、新たな貿易相手国として魅力あるものであり、それを切り捨てるつもりはなかったのである。
(『江戸開幕』藤井譲冶 講談社学術文庫 2016年)