2021年4月20日火曜日

穀雨

ついこの間までひんやりすると言っていたのに、今朝は、暑い…
朝のニュースのなかで所によっては夏日になるとか…
今日は、二十四節気の「穀雨(こくう)
穀雨(こくう)

 穀物の種や芽をうるおす春雨。
「穀雨」は、二十四節気の一。
4月20日ごろをいい、太陽の黄経が30度のときをいう。
4月の東京の平均雨量は128ミリメートル(平成9年版『理科年表』)と、必ずしも多いわけではないが、暖かい雨に田畑の作物が育ち、野山の木の芽が緑を増していく時節である。

  ゆつくりと縄ぬれてゆく穀雨かな  吉田和徳

(『雨のことば辞典』倉嶋厚・原田稔編著 講談社学術文庫 2014年)
テントウムシが羽を見せてくれました。
この羽をたたむメカニズムについて
テントウムシのはねを折り畳むメカニズムを解明」(東京大学 2017年9月18日)
昨夜のEテレ2355でトビーが

今週は、番組の最後に、本の一行目を紹介するやつをやるらしい。

続きが気になる→読みだす→徹夜。

げに恐ろしき番組なり。


と呟いていました。
σ(^-^;は、録画して翌日に見ているので徹夜をしていませんが、この一行で気になり本を手に取りました(*´▽`*)

2355 今夜の1行目

こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐
(すわ)っていると、仰向(あおむき)に寝た女が、
静かな声でもう死にますと云う。
  夢十夜「第一夜」夏目漱石

いつものことだけど相手の立場を考えることができないのだな…

三日月知事は
「願わくば、発言の前に(県と)調整をいただけるとありがたかった」
と述べ、県民への配慮や説明があればよかったとの考えを示した。

京都新聞 4月20日

4月20日
 延喜23年(923.5.8) 故菅原道真を本官右大臣に復して正二位を贈り、左遷の詔書を破棄する(紀略)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

菅原道真について転記しますφ(..)
六 怨霊と物の怪
 2 菅原道真の怨霊


 平安時代半ばになると、世間は王侯貴族の生活に少なからず関心をもつようになっていた。
その中で菅原道真事件がおこった。
延喜(えんぎ)3年(903)、道真が配流(はいる)先の大宰府(だざいふ)で亡くなったが、運悪く、その時から政敵であった左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)の身辺に凶事が続いた。
人々はそれを道真の怨霊のせいだと噂したのであった。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
 菅原道真は儒家出身で右大臣まで出世した異例の人であった。
貴族ではなく、学者出身の右大臣は奈良時代の吉備真備(きびのまきび)以来のことであった。
 道真が大臣になったのは、宇多(うだ)天皇の厚い信頼を得ていたからであった。
わずか十年の間に蔵人頭(くろうどのかみ)から右大臣まで出世したために、たくさんの公卿(くぎょう)の妬(ねた)み、怨みをかうことになった。
そのことを道真自身がいちばんよく知っていた。
道真は、右大臣になってまもなく、自分の異例の抜擢(ばってき)が人心を治めることの妨げになっていると、三度も辞表を出したのであった。
しかし、宇多天皇は道真の、人の情に流されず、理を通す意見を高く評価し、辞職を止めたのであった。
 寛平(かんぴょう)9年(897)に宇多天皇が醍醐(だいご)天皇に譲位して、上皇になられたあと、道真は窮地に立たされ、破局がやって来た。
 昌泰(しょうたい)4年(901)正月25日、「醍醐天皇を廃して、弟の斉世(ときよ)親王を立てるように上皇をそそのかして、醍醐天皇と上皇と、また弟の親王との愛情を乱した道真はうわべの言葉は穏やかだが、心はそれと裏腹であることは天下みな知るところである。大臣の位に納まるべき人ではない。すべからく法によって厳重に処罰すべきである。だが、とくに思うところがあるから太宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷する」という醍醐天皇の宣命(せんみょう)が出されて、右大臣から太宰権帥に左遷されたのである。
 いわれのない理由であった。
左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)であるというのが、その時から世に流布され、いまも歌舞伎で「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」が演じられている。
芝居では時平が悪役で登場する。
 2月1日、道真は妻と子供を都に残して、旅立ったが、このとき庭の梅の木に寄せて、

  東風(こち)ふかばにほひおこせよ梅の花
    あるじなしとて春な忘れそ

 と有名な歌を詠んで、別れを惜しんだ。
それで天神様(てんじんさま)と梅が結びつくのである。
それから2年、延喜3年(903)道真は悲運の中で59歳で亡くなった。
 左大臣藤原時平は道真が失脚したあと、天皇の外戚(がいせき)として朝廷を意のままに動かしたが、道真が亡くなって6年目、延喜9年(909)にわずか39歳で亡くなった。
さらに延喜23年、時平の甥(おい)で皇太子保明(やすあきら)親王が21歳で亡くなった。
世間では道真の怨霊のせいだと噂した。
怨霊思想がはびこるなか、醍醐天皇は道真を右大臣に戻し、正二位を追贈して怨霊をなだめた。
年号も延長(えんちょう)と改元したのである。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
第5章 万事皆夢の如し――太宰府への左遷
 3 死、その後――北野天満宮の創建
 最後の詩


 道真が大宰府に左遷されて2年が経ち、延喜3年(903)の年が明けた。
春の雪を見て、道真は次のような詩を詠んだ(菅家後集)。

  謫居春雪
盈城溢郭幾梅花
猶是風光早歳華
雁足黏将疑繫帛
烏頭点著思帰家

 謫居(たっきょ)〔追放された住まい〕での春の雪
〔大宰府の〕城に盈(み)ち郭に溢(あふ)れるのは幾(どれほど)の梅の花なのだろう。
(やはり)(こ)の風光〔景色〕は早歳(そうさい)〔一年の初め〕の華だ。
〔雪が〕雁の足に黏将(ねばりつ)いているので帛(てがみ)を繋(つな)いでいるのかと疑い、
〔雪が〕烏(からす)の頭に点著(つ)くので家に帰れるかと思うのだ。
(『菅原道真 学者政治家の栄光と没落』滝川幸司 中公新書 2019年)

(転記者注:「点著」で「つ」)
 大宰府の城郭(じょうかく)に満ち溢れる梅の花、もちろん春の雪がそのように見えるのである。
その春の雪の「風光」こそが、一年の最初の美しい華である。
そしてその白雪を見て、道真は思う。
雁の足に粘り着いている白いものは、都への帰還に繋がる手紙ではないか、烏の頭に着いて、黒い頭が白くなった、ならば、家に帰れるのではない。
 雁の足の帛(てがみ)は、匈奴(きょうど)に捕らえられた漢の蘇武(そぶ)が、白い絹に書いた手紙を雁の足に結んで救出された故事であり、烏の頭は、秦(しん)の人質となった燕(えん)の太子丹(たん)が、烏の頭が白くなり馬に角が生えたら帰そうと秦王に言われて祈ったところ、烏の頭が白くなり馬に角が生え、帰ることができた故事である。
これらの故事を踏まえ、帰京を思うのである。
 これが道真の最後の詩となった。
 死に臨んだ道真は、大宰府で作った漢詩を一巻にまとめ、「西府新詩(せいふしんし)」と名づけ、紀長谷雄(きのはせお)に送った。
 長谷雄はこれを見て天を仰いで嘆息し、「大臣の藻思(そうし)〔文才〕は絶妙で、天下無双である。卿相〔大臣〕の位に居た雖(けれど)も、風月の遊を抛(なげす)てなかった。凡(およ)そ厥(そ)の文章は、多くの人の口に在る。後代、文章を言う者がいれば、菅家を推さないものはない」といった。
これが『菅家後集』のもととなった詩集である。
道真の作品集、『菅家文草(かんけぶんそう)』『菅家後集』は道真自身が編纂したものが軸となっている。
 道真は、延喜3年2月25日に大宰府で没した。59歳。
 文道の神

 道真没後20年が過ぎた延喜23年(923)4月20日、故従二位大宰権帥菅原道真を本官の右大臣に復し、併(あわ)せて位を一階上げ、正二位が贈られた。
その詔には、道真が醍醐天皇の皇太子時代の侍読(じどく)であり、即位した後も久しく近臣で、左遷された後、歳を重ねたとはいえ、忘れることはできない、そこで本職に復し、一階を増すと記す。
 その一ヵ月前の3月21日に皇太子保明(やすあきら)親王(母藤原時平妹穏子)が21歳で死んだことと関わろう。
『日本紀略(にほんきりゃく)』によれば、菅帥(かんそち<大宰権帥菅原道真>)の霊魂の宿忿(しゅくふん)がなすところだという。
これに先立つ延喜8年10月7日には、道真の弟子だった藤原菅根(ふじわらのすがね)が死に、同9年4月4日に左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)が39歳で没した。
のちに道真の怨霊(おんりょう)のためだとされる。
 この詔によって、道真の罪は否定された。
 延長8年(930)6月26日に宮中清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫(きよつら)は衣が焼け胸が裂けて死亡し、右中弁平希世(まれよ)は顔を焼かれて倒れ臥し、右兵衛佐美奴忠包(みぬのただかね)は髪を焼かれて死に、紀蔭連(かげつら)は腹が炙(あぶ)られ 悶(もだ)え苦しみ、安曇宗仁(あずみのむねひと)は膝(ひざ)を焼かれて倒れた。
醍醐天皇も病に落ち、9月22日に譲位し、29日に死去した。
 道真の怨霊のためとされ、ついには天暦元年(947)6月9日、道真の祠(ほこら)が北野に建てられる。
北野天満宮の創建である。
神として祀(まつ)られた道真だが、一条(いちじょう)天皇の時代には、永延(えいえん)元年(987)8月5日に天皇によって初めて北野社で祭礼が行われ、正暦(しょうりゃく)4年(993)6月26日に、道真に左大臣正一位が贈られた。
 さらに同年閏10月20日には太政大臣が贈られ、そして寛弘(かんこう)元年(1004)10月21日、初めて北野社に行幸(ぎょうこう)があった。
一条朝は道真の神格化が一段と進んだ時代であった。
その間、道真が祀られた北野天満宮では、漢詩会が開かれた(「北野作文考」)。
道真は「文道の祖、詩境(しきょう)の主(しゅ)」と称され(慶滋保胤<よししげのやすたね>「菅丞相の廟に賽(かえりもう)す願文」本朝文粋・巻十三)、文学・学問の神となる。
北野社では、さらに和歌会、連歌会が開かれ、文学の場となるのである。
(『菅原道真 学者政治家の栄光と没落』滝川幸司 中公新書 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
カタツムリが地面をノソノソと…踏まれないか心配だなぁ…

かたつむり
(前略)

 カタツムリやナメクジはその平たい足を波のように動かして歩く。
カミソリの刃の上を平気で歩くなど、びっくりショー的な能力ももっている。
食物は木の葉なので、夜になると木の幹を上ってゆく。
その時、まっすぐ立っている木だったら、幹がいかに太くても、ほぼ、垂直に上ってゆく。
これはべつに上の木の葉を見たりしているわけではなく(彼らの目は10センチ先も見えない)、重力に対する反応なのである。
 よく水で濡らした板にカタツムリを置く。
それから板を垂直に立てると、カタツムリはほぼ垂直に板を上っていく。
てっぺんに着いたら、板の上下を逆さにして、今度は垂直ではなく、70度ぐらいの角度にして立てる。
するとカタツムリは、左右どちらかに傾いて約70度の角度で上ってゆく。
板の傾きを45度にすれば、カタツムリは45度の傾きで上る。
彼らは背中にしょった殻(もちろんその中に入っている内臓を含めた)にかかる重力が板の角度によって二つの分力に分けられることに反応しているのである。
こうした実験の場合、生きものの常として、カタツムリが空腹であることが前提である。
満腹したカタツムリはむしろ下へ降りようとするからである。
 カタツムリについてはその激しい恋のシーンまでかなりよくわかっている。
きらわれる一方のナメクジはかわいそうだ。
 (日高敏隆)
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫 1988年)