2021年4月29日木曜日

昭和の日

昨日、今日と雨が降り続いています。
公園の駐車場が閉鎖されているのでリハビリ散歩には行けません。
以前、よく食べていたパンが食べたくなったので商店街にテクテク…
直行せずにちょっと遠回りして神社を二社まわりました(^_-)-☆
商店街に来るたびに、昔、よく買物をした店がなくなっている…
商店街の店ではないけど、発病前、よく飲みに行っていた居酒屋Kさん

 お客様へ
長い間お休みをいただき申し訳ありません。
緊急事態の要請により
期間中、休業させていただきます。
又、しばらく皆様の笑顔に会えないことは残念ですが
会える日を楽しみにしています。
キープをしていただいているお客様をはじめ
ほんとうにご迷惑をおかけして申し訳ありません。
どうぞよろしくお願いいたします。(ママは元気です!)
居酒屋
 K

前に、車の中から目撃した場面があります。
子どもを乗せた自転車が、道路の段差で倒れ、子どもが泣いていました。
母親が、慌てて起こそうとしているときに
たまたま通りかかったママさんが駆けつけて声をかけ、
一緒に自転車を起こしてあげていました。
大阪の飲食店“見回り隊”バイト大量動員 実態は…」(テレ朝 4月21日)
大量募集 時給1300円 飲食店見回り業務!
こんなことに予算を執行するなら、協力して休業している店に給付金を増額することはできないのかな?

容体急変でも受け入れ先見つからず 大阪で「搬送困難」急増〟(毎日新聞 4月28日)
なぜこんな状態になったのか、一つの原因が

国立遺伝学研究所教授の川上浩一さんのTwitter(4月28日)に

この人工呼吸受入可能ベッド数の図を、大阪と東京で比べるとよくわかるのですが。
大阪は患者数が減ると人工呼吸受入可能ベッド数を減らし、
患者数が増えるとあわててベッド数を増やしているということですね。
知事の準備不足を糾弾したい。

画像(東京都のグラフ) (大阪府のグラフ
 中島岳志さんの予想があたると思う。

どうも6月25日の都議選公示日前に、小池知事が劇的に「東京オリンピックの中止」会見をするような気がしてならない。
世論がオリンピック中止に傾斜する中、小池さん自身にとっては、中止を決断したヒーローになるほうがメリットが多い。
ポピュリストの判断基準を見極める必要がある。
今日は「昭和の日」。
僕の感覚は「天皇誕生日」のまま(^_-)-☆
加藤陽子さんの『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』より裕仁親王誕生について転記しますφ(..)
学術会議メンバーに加藤陽子さんを任命拒否した事態は、
かつての大日本帝国が歩んだ歴史を想起します。

東大・加藤陽子教授が学術会議問題でメッセージ「政府に従順でない人々を切っておく事態」〟(東京新聞 2020年10月24日)
第一章 大正期の政治と宮中の活性化
 1 明治という時代に育てられて
 誕生


 1901年(明治34)4月29日午後10時10分、東宮御所で、ひとりの親王が誕生した。
体重800匁(もんめ<約3000グラム>)、身長51センチの元気な男児である。
嘉仁(よしひと)皇太子(のちの大正天皇)と節子(さだこ)皇太子妃(のちの貞明<ていめい>皇后)の第一皇子であり、明治天皇の初の皇孫であった。
徳大寺実則(とくだいじさねつね)は、当時、侍従長と内大臣を兼任していたが、その日記に次のように書きとめた。
徳大寺は、昭和期に最後の元老となった西園寺公望(さいおんじきんもち)の兄にあたり明治天皇の信頼厚かった人物である。
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)
  午後十時十分、皇太子妃節子殿下御産(おさん)御催(おもよおし)、無間(まもなく)御分娩(ごぶんべん)、親王降誕被遊旨(あそばされしむね)、東宮大夫電話を報知。直に当直侍従を以て奏す。
 安産であったことが文面から察せられる。
また、文末の「直に」からは、宮中にとっての事の重大さがよく伝わる。
皇孫誕生は、夜間にもかかわらず、ただちに天皇に知らされたのだった。
美子(はるこ)皇后(のちの昭憲<しょうけん>皇太后)もまた、ただちに典侍高倉壽子を東宮御所につかわしていた。
祖父となった天皇はこのとき満48歳、父となった皇太子は満21歳という若さであった。
親王の宮号と名字は、御七夜にあたる5月5日、儒者であり文事秘書官を務めていた股野琢(またのたく)があらかじめ選んだ宮号「迪宮(みちのみや)、謙宮」と、名字「裕仁(ひろひと)、雍仁、穆仁」のうちから天皇自らが「迪宮裕仁」を選び、皇孫の名はここに確定した。
 この、明治中期という時代は、いかなる時代であったのだろうか。
それは、激動の予兆に満ちた時代であり、また、新たな政治指導者の台頭を予感させる時代でもあった。
親王誕生の三日後の5月2日、政友会を与党とする第4次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣は総辞職し、内大臣を兼ねていた徳大寺は対応に追われた。
伊藤は、衆議院を牽制する役割を担っていた貴族院の反対によって予算案を通過させることができず、退陣したのである。
誰が出ても困難が予想される局面にあって、桂太郎(かつらたろう)の名が元老のなかからあがった。
こうして、山県有朋(やまがたありとも)、松方正義(まつかたまさよし)、西郷従道(さいごうつぐみち)、井上馨(いのうえかおる)、伊藤博文ら、維新の元勲世代とは異なる、第二世代あたる桂が、ひと月にもわたる元老間の評定の末に、組閣することとなった。
01年6月2日のことである。
 迪宮裕仁は、長じて、皇孫から皇太子へ、そして摂政を経て天皇となり、その生涯を89年(昭和64)1月7日に閉じ、昭和天皇と追号された。
この章では、皇孫時代の昭和天皇を迪宮と呼称することとし、父である嘉仁皇太子が天皇となったのちは、皇太子と呼ぶこととする。
迪宮の幼少期はいかなるものであり、いかなる過程を経て青年期を迎えたのか、それを史料から跡づけてみたい。
 誕生後の30日目にあたる5月28日、迪宮は宮中三殿(賢所<かしこどころ>・皇霊殿・神殿)に参拝し、約二ヵ月後の7月7日、麻布区飯倉狸穴(いいくらまみあな)の川村純義(かわむらすみよし)邸で養育されるため、御所を出て川村邸に向かうこととなった。
このとき川村は枢密顧問官であった。
往年の川村は長く海軍省にあって海軍行政の基礎を形成するのに功があった。
陸軍行政の基礎を形成した桂がこのとき首相となり、川村が皇孫の養育主任となってゆく巡り合わせとなった。
 川村家には、迪宮誕生の翌年の02年(明治35)6月25日に生まれた淳宮雍仁(あつのみややすひと<のちの秩父宮>)も養育のために預けられた。
誕生後半年たらずの迪宮の印象を、東京大学医学部でお雇い外国人として教授をしていたベルツはその日記に、「幼い皇子迪宮は元気で、本当に美しい赤ちゃんだ」(01年9月16日の条)と書いた。
しばらく時代がくだって、沼津で避寒中の皇太子一家と会った日、ベルツは、迪宮と淳宮の印象を「兄迪宮は二歳半、いくぶんお父さん似で、色もお父さんのように浅黒く、丈夫な坊やである。弟の淳宮は一歳半、色白でほおが赤く、すこぶる美しい顔立ちの、とても可愛らしい子で、しかも歳の割には利発だ」(04年2月12日の条)と書いていた。
 だが川村が04年8月、69歳で死去したため、同年10月、川村家を出ることとなる。
川村家を出た迪宮は、東宮侍従長兼式部官であった木戸孝正(きどたかまさ<木戸幸一の父>)のもとでしばらく養育されることとなった。
木戸の遺した日記には、迪宮の、愛らしくも寂しげな様子をうかがわせるエピソードが記されている。
弟の淳宮とともに、避寒のため静岡県の沼津御用邸で暮していたある朝、ふと迪宮だけが目覚めていたのに気づいた木戸が「ここはどこだかわかりますか」と尋ねたところ、迪宮は「たゝちやま〔節子皇太子妃のこと〕のところ」と、あどけなく答えている。
このとき、皇太子妃は懐妊中のため東京青山の東宮御所にいた。
翌年1月3日、皇太子妃は三番目の男子、光宮宣仁(てるのみやのぶひと<のちの高松宮>)を生む。
(『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』加藤陽子 講談社学術文庫 2018年)