2021年4月27日火曜日

好天が続いていますが…

今朝もひんやりとしているけど青空。
昨日、出会った綿毛(オニノゲシ?)
今朝も風に揺れながらも留まっていました。
協力金1日2万円「香典のつもりか」政府や都の営業制限、どこまで許される?〟(東京新聞)

イオン、従業員45万人に一時金1万~2万円、コロナ禍で負担」(JIJI.COM)

100分de名著「論語と算盤」渋沢栄一 
 第4回「対極にあるものを両立させる
番組の最後に伊集院光さんが

今、まさに「論語と算盤」の手法が一番大事なのって…
「感染予防対策と経済」
もしかしたら渋沢的な考え方で、両方と、ある程度の折り合いがつけられたりするとか
するアイデアが出るんじゃないかなっていうのはちょっと期待するんですけどね


実は、渋沢栄一のことは名前だけ知っていただけでした。
孫の渋沢敬三(しぶさわけいぞう)を宮本常一を後援したことで興味をもっていました。
渋沢敬三について」(渋沢敬三アーカイブ)
世界はミャンマー軍事政権に毅然とした態度を、オバマ氏呼び掛け」(AFPBBNews)

「ミャンマーの旗の下で戦えない」競泳選手が東京五輪ボイコット〟(毎日新聞 4月26日)

ミャンマー軍司令官 ASEANの特使派遣提案 受け入れ検討の考え」(NHK)
暴力の即時停止などのほかの合意内容には言及しませんでした。
4月27日
 推古7年(599.5.26) 地震で舎屋倒壊。各地に地震神を祭らせる(紀)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

地震の最古の記録は

允恭(いんぎょう)天皇
 五年の秋七月(ふみづき)の丙子(ひのえね)の朔(ついたち)己丑(つちのとのうしのひ<14日>)に、地震(なゐふ)る。

地震る 地震の記事の初見。ナヰのナは、大地の意。ヰは、しっかりとすわっているところ。フルが、震動の意。後世、ナヰが地震の意と見られるに至ったのは誤解に基づく。
(『日本書紀(二)』坂本太郎他校注 岩波文庫 1994年)

ここには被害の状況が書かれていません。
一方、推古7年の記載には被害の状況が書かれています。
推古天皇
 七年の夏四月(うづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔辛酉(かのとのとりのひ<27日>)に、地動(なゐふ)りて舎屋(やかず)(ことごとく)に破(こほ)たれぬ。
(すなは)ち四方(よも)に令(のりごと)して、地震(なゐ)の神を祭(いの)らしむ。
(『日本書紀(四)』坂本太郎他校注 岩波文庫 1995年)
 推古天皇
 七年夏四月二十七日、地震がおきて建物がすべて倒壊した。
それで全国に命じて地震の神をお祭りさせた。
(『日本書紀(下)』宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)

推古天皇は最初の女帝です。
推古女帝
 最初の女帝


 欽明(きんめい)天皇の死後、天皇の皇子たちのなかから敏達(びだつ)・用明(ようめい)・崇峻(すしゅん)の三天皇がたった。
そのあいだに20年の歳月がながれ、いまは欽明の孫の世代に皇位がうつるのが順当である。
その世代では、敏達の子で早くから太子の地位にあった押坂(おさかの<忍坂>)彦人(ひこひと)皇子が最有力であるが、さきにもふれたように、病弱であったか、または崇峻の死の前後に逝去したらしい。
そうすると、つぎは用明天皇の嫡長子の廐戸(うまやど)皇子(聖徳太子)がクローズアップされてくる。
同時に彦人皇子の異母弟の竹田(たけだ)皇子も有力候補となる。
かれは敏達と炊屋姫(かしきやひめ)皇后とのあいだに生まれた皇子の最年長であり、崇峻即位の道をひらいた守屋攻めには廐戸皇子とともに参加している。
崇峻の皇子はまだ幼いであろうし、崇峻の死の事情からいって皇位問題からは除いてよかろう。
(『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公バックス 1970年)
 けっきょく、廐戸皇子か竹田皇子かである。
竹田皇子の母が敏達皇后の炊屋姫皇女なら、廐戸皇子の母は用明皇后の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女である。
年齢は廐戸皇子19歳、竹田皇子は、同母姉の菟道貝鮹(うじのかいたこ)皇女が廐戸皇子のきさきとなるという関係からすると、廐戸皇子よりは若いと考えられるが、そんなに違いはなさそうだ。
両者はまさに匹敵している。
  炊屋姫としては、竹田皇子を皇位につけたいのはもちろんであろう。
彼女は、のち死ぬ前に、さきになくなった竹田皇子の陵に合葬してほしいと遺言したくらいに、竹田皇子を愛していた。
だが、竹田皇子と異母兄の押坂彦人皇子との関係も微妙である。
彦人皇子が病弱ながら存命していたとすれば、健康回復後のことも考えなければならぬ。
 馬子も、また皇位継承に大きな発言権をもつ炊屋姫も、どちらともきめかねた。
しかしいつまでも未決定のままにしておくわけにはいかない。
ついに、炊屋姫自身の即位、日本最初の女帝の出現という異例の皇位継承で問題は解決した。
これが推古(すいこ)天皇である。
  ふつうには、推古天皇の即位は廐戸皇子すなわち聖徳太子のいわゆる摂政とむすびつけて解釈される。
天皇家としては、蘇我氏の横暴をおさえるためには英明な聖徳太子の即位がのぞましいが、天皇になると蘇我氏のつよい抵抗をうけて政治をおこないにくい。
そこで天皇には馬子の姪にあたる推古天皇をたてて表面上は協調をよそおい、廐戸皇子を太子の地位におき、摂政という形で自由に手腕をふるわせるという計画である、と説明するのである。
 廐戸皇子はたしかにすぐれた皇子ではあろうが、崇峻5年にはまだ19歳、満なら18歳の少年である。
「生まれながらにして能(よ)く言(ものい)う」とか、「ひとたびに十人の訴えを聞く」とかいう逸話が『日本書紀』にも見えるが、太子の死後にできた作り話で信ずるにたらない。
そのほか無数といってより太子の天才・偉人ぶりをつたえる伝説を除外して冷静に判断すると、太子がいくら偉いといっても、崇峻没後の時点で馬子をおさえることを太子に期待したとは、ちょっと考えられない。
  わたくしは、廐戸皇子の立太子・摂政を前提として推古女帝の即位がきまったのではなく、つぎの天皇がなかなかきまらないために、臨時の処置として推古がたつことになったと考える。
だから推古天皇は、本来はつぎに男の天皇がたつまでの中つぎの天皇である。
ところが実際には推古は譲位せず、死ぬまで36年間も位にあった。
なぜだろうか。
 それは、廐戸皇子と竹田皇子とのあいだの調整がつかず、太子の決定が依然難航したのが一つ理由であると思う。
『書紀』には推古元年に廐戸皇子を皇太子とするという記事があるが、廐戸皇子の立場をかざるための『書紀』編者の脚色であろう。
しかしもっとおもな理由は、これまでの日本には天皇が健康なうちに位をゆずるという前例がなかったことだろう。
推古天皇は即位ののちに太子をきめ、天皇の死後に太子が位をつぐという意味での中つぎの天皇であった。
ところが実際は、推古天皇のほうが皇太子や皇太子の候補者より長生きであったので、太子の即位する機会がこなかった。
臨時のつもりで立った天皇が36年のあいだ位にあり、そのあいだに彦人皇子はもちろん、聖徳太子も竹田皇子も、みなさきに死んだのである。
 聖徳太子を未曽有の天才・偉人とする先入観をすてて、当時の一般的な政治情勢を中心に判断すると、このように考えられる。
  女帝は皇后から

 それにしても女帝の即位は前例のないことである。
神功皇后が政治をとった例はあるが、天皇ではないし、伝説的人物であって、政治をとったというが、1年間ぐらいのことである。
推古天皇の出現は、天皇家の歴史上、大事件といわなければならない。
しかもこれ以後は、つぎに示すように(系図は省略)女帝がたびたびあらわれてくる。
推古天皇だけならば臨時・特別の現象といってすますこともできるが、このようにあいついで女帝がたち、一世紀あまりののち、8世紀の中ごろの称徳(孝謙)天皇を最後としてふたたび史上から姿をけすのは、この時代になにか女帝のあらわれるだけの歴史的条件があったと考えなければならないであろう。
  そこで、左記の系図(省略)をみていただきたい。
女帝は皇后に多いことに気づかれるだろう。
推古は敏達の皇后、皇極(こうぎょく<斉明>)は舒明(じょめい)の皇后、持統(じとう)は天武(てんむ)の皇后である。
元明(げんめい)は皇后ではないが、草壁(くさかべ)皇子が天武天皇の皇太子になっているから皇后に準ずるといってよい。
古代の6人の女帝のうち、おわりの二人をのぞく4人までが皇后または皇太子妃なのだ。
女帝出現の事情を考えるばあい、このことを見すごしてはならない。
  皇后・皇太子妃が女帝にたつのは、直系の皇子または皇孫が皇位継承の候補者の一人でありながら、幼少その他の理由ですぐには即位できないばあいに多いようである。
持統は文武、元明は聖武(いずれも孫にあたる)が幼少であったので代わって皇位についた。
皇極(斉明)は事情が複雑だが、斉明が中大兄皇子(天智)の即位をまつ中つぎの天皇であることはいうまでもない。
皇極即位のときは中大兄皇子の立太子はきまっていなかったが、候補者の一人であった。
推古のばあいには竹田皇子がいる。
推古もその意味で天皇になったのではなかろうか。
 女帝の条件

 しかしそれだけの理由なら、これ以前にも皇位継承が紛糾したときに女帝があらわれてもよい。
この時期に女帝があらわれたことには、もう一つ、なんらかの別の条件がなければならない。
その条件として、このころ皇后の地位が安定し、向上したのではないか、という考えが岸俊男(きしとしお)氏のよって提出された。
  元来、古代の日本では、皇后と妃との区別はなく、一様に「きさき」と呼ばれていた。
民間では正妻と妾との区別ははっきりしていなかった。
男が女の家へかようという婚姻形態では、正妻の地位が固定しないのは当然である。
皇子についても、そのうちの一人を早くから皇太子に定める習慣は日本にはなく、身分のよいきさきから生れた皇子はみな皇位継承権をもっており、各種の勢力関係によって、そのなかから次の天皇がきまるならわしであった。
欽明朝ごろ、朝廷の諸制度に官司制的な方向がとりいれられ、体制が整備されるのと平行して、あらかじめ皇太子をたてる制度がはじまったと考えられるが、皇后も同じである。
  皇后の語は『日本書紀』には神武天皇以降いくらも用いられている。
これはもともと漢語であって、『書紀』の編者がのちの制度にあわせたものであることはいうまでもない。皇后に相当することばは「おおきさき(大后)」だが、推古朝に作られた「天寿国曼陀羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」にみるので、推古朝の少し前あたりから使われはじめたのではないかと思われる。
敏達皇后の炊屋姫が大后(おおきさき)の最初かもしれない。
きさきの中からおおきさきが区別されてくることは、敏達朝あたりからその地位が定まり、勢力がたかまってきたことを思わせる。
 経済面においても、このころから皇后の勢力が安定してくる。
それをあらわすものが敏達朝における私部(きさいべ)の設定である。
 私部はキサキベ、きさきのために置かれた部の意味である。
私と書いてキサキと読むのは中国の慣習による。
中国では皇帝は絶対君主であるから、その行為はすべて公的性格をもつ。
しかし后妃は私的な存在であり、后妃の経済は国家財政と区別される。
そこで后妃にかんするものを「私」の字であらわす。
日本でもそれを踏襲したにすぎない。
 しかし、古くは日本には私部の制はなく、きさきのためには必要に応じて名代・子代の部がおかれていた。
允恭(いんぎょう)天皇のきさき忍坂大中姫(おさかのおおなかつひめ)のために刑部(おさかべ)、雄略天皇のきさき草香幡梭(くさかのはたひ)姫のために日下部(くさかべ)を置く、といったふうである。
これでもきさきの経済的基盤であることは変わりないが、管理の面において不安が多い。
これらの部では、部の持ち主が各個に部を管理したのではないかと思われる。
これに反して私部となると、政府の力で統一的に設定・管理がおこなわれたのであろうから、その財政収入は従来より確実になったと思われる。
部に管理にも氏姓制的な方法にかわって官司制的体制が導入されてくるのである。
きさきたちは安定した経済的基盤をもつことができた。
 こうしてきさきの地位が安定してくると、きさきの上に立つおおきさきは、かなりの権勢をもつようになると考えてよかろう。
こうした裏づけができたことが、皇后を天皇の地位におしあげた一つの理由ではあるまいか。
このことと、崇峻死後の次期天皇の選考難とがむすびついて、天皇確定までのあいだの臨時の処置として炊屋姫が皇位につくことになったのであろう。
 なお、きさきのための部(べ)が私部として統一されるのと前後して、皇子のためにおかれた名代・子代の部も壬生部(みぶべ)の名のもとに統一された。
『書紀』の推古十五年の条に「壬生部を定む」とあるが、その動きはもう少し前からあったであろう。
これによって皇子たちの経済的基盤も制度化され、安定する。
そして、きさきとおおきさきとの区別があらわれたように、みこ(皇子)とひつぎのみこ(皇太子)との区別も生じてくる。
朝廷の政治・経済が、官司制・屯倉制の採用によって制度化すすむのと平行して、皇室内部の組織――内廷の制度――も整備されるのである。
 6世紀には皇室の勢力がおとろえたといわれるが、このように発展している面も少なくない。
だからこそ蘇我氏との対立がはげしくなり、のちに蘇我氏をたおして新しい日本の指導者となることもできたのである。
(『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎 中公バックス 1970年)
今朝の父の一枚です(^^)v
まだ青首がいるのはのんびり屋なのか留まるつもりなのか?

我が国へ渡来するカモ類の渡りについて」(環境省)

今日も自転車で公園に向かいましたが、
父が、自転車で公園に向かうと疲れると話していました。
車で行くと、歩き始めをゆっくりと徐々に体を慣らすのですが、
自転車だと朝の通勤の人達を避けながら行かないといけなので、
体力面だけでなく精神面でも疲れます。