2021年3月31日水曜日

青空だったけど

今朝は青空でひんやりしていたので歩きやすかったです。
それでも山を見ると少し霞んでいました。
やはり黄砂が影響しているみたいです。

黄砂情報」(国土交通省 気象庁)
プロフェッショナル仕事の流儀
志村が最後に見た夢~コメディアン・志村けん~
を見て思ったのは、志村さんは安心してみることができたなぁ
最近、コメディを見なくなったのは、笑いをとるために人を貶めるようなことをネタにしているから
その点、志村さんやサンドウィッチマンは、見ていても安心して笑える。
サンドウィッチマンスペシャル

みなさんのコメントがよかったし、お兄さんを見ているともらい泣きしてしまった。
志村さんが心の支えにしていたもの

手紙もらったんです。
母子家庭の方で、お母さんもずっとパートやってるし、
高校生の子も学校行ってバイトやってると
月曜日8時から始まる前にごはん全部作って
二人で見ながら食べて笑って
片づけして、もう一回ビデオとって見るんですって
来週ももう一週間頑張ろうなって言って
親子で笑ってるっていうのをもらったんですよ。
そのときうれしくなっちゃってね。
そういうことが
つらいけれども、たった1時間だけでも、それを忘れてね
笑ってくれるっていうのが、一番うれしいですね。
帰省した時に自分から出演する番組と映画の話しを初めてしたそうです。 
山田洋次さんが「キネマの神様」(原田マハ)の映画化にあたって

初めて志村っていう人を間近に見て、彼といろんな話をしながら感じたことは
この人は本物のコメディアンだなってことね
おしゃべりする人じゃないよ
どっちかと言えば口数は少なくて
僕の目を見てしゃべることなんか、ほとんどなかったね。
うつむいてぼそぼそぼそぼそという話し方をする人
それが僕にとっては、すごいやっぱりね、魅力的だったね。
非常に危険なところを、いつも歩いてなきゃいけないっていうか
際どいところを、一歩足を踏み外したら、
奈落の底に落ちてしまうようなところを
恐る恐る歩いているようなそんな人生を
喜劇俳優はたどらなきゃいけませんっていうのは
渥美清さんの説なんだけども
僕は志村さんが、うつむきぼそぼそぼそぼそっと話す姿勢を見て
ああ、この人は、その危険な道をね
必死になって歩いている
コメディアンだなというふうに思ったのね


滑稽な人間を演じること自体がね、悲しいことなんだよ。
みんなが思わず吹き出してしまう
本当に人間ってみっともないんだな
と、思うような芝居をする人ってのは
本当、どっかで命懸けみたいなとこがなきゃいけないね
しかも、それを演じる人ってのは
人間の深い悲しみが、よく分かってなきゃできないことだね。
この人はすごいなと
僕に言わせれば、最後の喜劇俳優だなっていう感じがしたね。


彼の豊かな表現力の本当に半分も、3分の1も出し切らないで
死んじゃったんじゃないかと思いますよ。
だから、とっても悔しいね。
本当に僕は喜劇を志す監督としてね
とっても残念に思ってますね。

こころの時代~宗教・人生~「なんでやねんと ええやんか

2018年に京都精華大学の学長に就任したウスビ・サコさんの故郷はマリ共和国。
番組を見ながらウスビ・サコさんがフランスで体験したヒューマン・ショックは、
100分de名著「黒い皮膚・白い仮面」で紹介された
フランツ・ファノン(1925-1961)と共通するなと思いました。
(「Ⅱ 14歳からの哲学[B] 20 メディアと書物」)

 古典だ。
古典という書物だ。
いにしえの人々が書き記した言葉の中だ。
何千年も移り変わってきた時代を通して、まったく変わることなく残ってきたその言葉は、そのことだけで、人生にとって最も大事なことは決して変わるものではないということを告げている。
それらの言葉は宝石のように輝く。
言葉は、それ自体が、価値なんだ。
だから、言葉を大事に生きることが、人生を大事に生きるということに他ならないんだ。
(『14歳からの哲学―考えるための教科書―』池田晶子 トランスビュー 2003年)
 これは本当に大事なことを言っているんだよ。
君は、言葉なんて誰でもしゃべれるし、新聞もネットも世の中は言葉だらけだし、そんなものがどうして大事なのかと思うだろう。
だからこそ、なんだ。
 お笑い番組でタレントが下品なギャグをしゃべりちらしているのを聞いて、君は、大事なことを聞いた、と思うかい?
だらしのない大人たちが自分の悪行(あくぎょう)を厚かましく言い訳しているのを聞いて、なんて美しい言葉なんだ、と思うかい?
ああいう人々が下品であり厚かましくもあるのは、彼ら自身が話している言葉通りじゃないか。
言葉その人そのものじゃないか。
下品で厚かましい人生を生きることが、どうして人生を大事に生きていることになるだろう。
 だから言葉は大事にしなければならないんだ。
語る言葉の一言一句が、君という人間の品格、君の価値なんだ。
ネットでおしゃべりする時には、うんと気をつけてするがいい。
くだらない言葉を書きちらすほどに、君はくだらない人間になる。
君の人生は価値のないものになる。
それは、せっかく持っている宝石の数々を、それと知らずにドブに流しているようなものなんだ。
 そんなふうに、言葉の価値を知らずにいるから、最近は人々が本を読まない。
マンガはよく読まれているようだけれども、でも、たとえば、マンガにセリフというあの言葉がなかったらと想像してごらん。
君の大好きな、大事なことを学んだそのマンガでも、その大事なことは、やっぱりそのセリフという言葉によって学んだことのはずだ。
マンガですらも、言葉がなければ、何を言うこともできないんだ。
言葉と人間とがいかに分けられないものであるか、よくわかるだろう。
  しっかり考えて、賢い人間になりたいのなら、やっぱり本を読むのがいい。
むろん、どんな本でもいいというわけじゃない。
本物の人が書いた本物の本だ。
メディアの策略で流行になっているような本は、まず偽物だ。
だまされないように、見る目を鍛えて。
 絶対に間違いがないのは、だからこそ、古典なんだ。
古典は、考える人類が、長い時間をかけて見抜いた本物、本物の言葉なんだ。
消えていった幾千の偽物、人の心に正しく届かなかった偽の言葉の群の中で、なぜその言葉だけは残ってきたのか、はっきりとわかる時、君は、いにしえの賢人たちに等しい知識を所有するんだ。
これは、ネットでおしゃべりするなんかより、はるかに素晴らしいことじゃないか。
(『14歳からの哲学―考えるための教科書―』池田晶子 トランスビュー 2003年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
ウグイスを写すことができました。
私もウグイスの歌声を聞いているのですが、左耳を失聴しているので方角が分らない。
父も耳が遠くなっているのだけど、見つけることができて喜んでいました。

 オスの仕事は歌をうまく歌うこと。以上

 さて、ウグイスといえば、「ホーホケキョ」という鳴き声と切り離せませんね。
この鳴き声はオスのさえずりで、他のオスに対する「ここは自分のナワバリだ」という宣言であり、同時にメスに対しては「ここにナワバリを構えてメスを待っている僕がいますよ」というメッセージでもあります。
 よく聞いていると「ホーホケキョ」にも高い声と低い声の2種類あることがわかります。
音譜で言えばハ長調のソで始まるかドで始まるか、くらいの差です。
この2種類の声は使い分けられており、高い声はナワバリの中心部で出す声、低い声はナワバリの周辺部で、しかもライバルが近づいているときに出す声です。
周囲にいる不特定多数に対してナワバリを主張することと、特定の相手に向って「おいそこのお前、聞いているのか」と睨みを利かせることの違いと言えばいいでしょうか。
(後略)
(『鳥類学者の目のツケドコロ』松原始 ベレ出版 2018年)