2021年4月7日水曜日

青空

今朝も冷たい風が吹いていましたが、青空が気持ちよかったです(^^)v
いきなり出会ったのでピントも露出も…
野鳥との出会いは、いつも突然なのですが(^^ゞ
オオルリ(ヒタキ科)

生活

オスのあで姿と美声のもてはやされるオオルリは、実はメスも美声の持ち主なのだ。
たとえば、ヒナの食事を持ち帰ったメスが巣の近くに敵を発見すると、まるでオスのようにさえずり始めるのである。
枝にじっととまって朗々と鳴いているが、うれしいはずはないから、きっと気が気でない警戒の叫びなのだろう。
その顔色が私たちには読めないだけなのだ。
ヒナが巣立ってからも、近くに危険を感じるとこのさえずりをする。
さえずり続けている母親は、巣やヒナに近づかないから、私たちがこの声を鑑賞しているということは、子育ての邪魔をしているということだ。
もし不用意に近づいてしまい、メスがさえずりを始めたら、彼女が鳴きやむところまで移動しよう。
いつも自慢ののどをを震わせているオスは、メスが必死にさえずっているときはあまり目立たず、まるでいくじがないように見える。
一方で、オオルリのオスとメスが並んでさえずり合うという観察もある。
アメリカの何種類かのヒタキ類などでは、つがいでのデュエットがよく研究され、つがいの絆を強めるなどの意味があるとみなされている。
日本ではそのようなテーマでの詳しい調べはまだないので、オオルリをぜひじっくり観察してみたい。
(『鳥のおもしろ私生活(旧版)』 ピッキオ編著 主婦と生活社 1997年)
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今日は俳人・尾崎放哉の命日(1926年)。
エリート街道の前半生と各地を転々とした後半生。
亡くなったのは最後に落ち着いた小豆島でした。
冒頭の句など、一度知ると忘れ難い、印象的な自由律の秀句の数々を岩波文庫に収録。


池内紀編『尾崎放哉句集』(岩波文庫)
1926年(大正15年) 41歳
「層雲」新年号より「入庵雑記」の掲載がはじまる(5月号まで5回連載)。
1月31日、(地元の)木下医師によって癒着性肋膜炎から来る肺の衰弱、合併症湿性気管支カタルだと診断されたことを井泉水や杉本宥玄に伝える。
2月2日、木下医師が来診。
3月11日、咽喉結核がすすみ、御飯がつかえるようになる。
23日、荻原井泉水からの来信で京都の病院に入院することを勧められるが拒否。
4月7日、南堀シゲの看病を受け、午後8時ころ瞑目。
電報を受け取り、その日3時に大阪港をたった馨(かおる)は、彼の死を見届けるには僅かに間にあわなかった。
4月9日、井泉水、内島北朗、姉並来庵し、西光寺墓地に土葬と決めて埋葬する。
戒名「大空放哉居士」。
(『尾崎放哉全句集』村上護編 ちくま文庫 2008年)

放哉入滅 ―あれから九十年―」(井上泰好 放哉記念館)
  時の流れの中で――あとがきにかえて
 放哉・山頭火と井泉水

(前略)
 山頭火が大正15年4月7日の放哉の死を知ってから、行乞流転の旅に出たかどうかの確証はありませんが、既に放哉の命が風前も灯火であったことは、誰に目にも明らかでした。
山頭火が8年の沈黙を破って層雲に句を発表したのは大正15年11月号でした。
次の句です。
(『決定版 尾崎放哉全句集』伊藤完吾・小玉石水編 春秋社 1993年)
  分け入っても分け入っても青い山  山頭火

  鴉鳴いて私も一人 (放哉居士に和す)

  さみだるる大きな仏さま

  しとどに濡れて之は道しるべの石

  炎天をいただいて乞ひ歩く

  日ざかりの水鳥は流れる

  木の葉散り来る歩きつめる
 おそらく山頭火は放哉の果たせなかった夢を引き継ぐ形で、孤独の旅を歩み続けたのではなかったでしょうか。
昭和3年夏、小豆島に脚を踏み入れた山頭火は、親しく放哉の墓に詣で、放哉を援けた人達から彼の南郷庵での生活を訊ねたりしています。
(後略)   
         伊藤完吾
(『決定版 尾崎放哉全句集』伊藤完吾・小玉石水編 春秋社 1993年)
 (「第十一章 三つの座標」つづき)

 しかし両大戦間の知識人の一般的傾向は、さかのぼって必ずしも明治の文学者の特徴ではない。
「様々なる意匠」が、兆民や鷗外や漱石や露伴を生んだのではない。
彼らにおいて精神が肉体を離れていたのではなかった。
いわんや、さらにさかのぼって、徳川時代の儒者が借り物の概念体系と戯れていたのではない。
そのことに小林自身が後に触れたとおりである(『考へるヒント』1964)。
また両大戦間のマルクス主義者も、そのすべてが「転向」したわけではないし、誰にとってもマルクス主義が「新感覚派」程度の「意匠」に一つにすぎなかったわけではない。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
もし野呂栄太郎の概念的体系がその人間と係るところ浅かったすれば、彼は警察の手で殺されなかったろうし、『日本資本主義発達史』を書き得なかったろう。
またもちろん、マルクス自身は、その高度に抽象的で包括的な体系を外から借りてきたのではないとすれば、マルクス主義そのものに対する小林の意見は、どういうものであったか。
小林は、論理実証主義者がしたようにマルクス主義の論理的構造を内在的に批判したのではなかった。
またポッパーがしたように社会科学としてのマルクス主義に別の社会科学的方法を対立させようとしたのでもなかった。
そうではなくて、一般に抽象的な概念の体系に具体的な生活感覚(彼はそれを「常識」とよんだ)を対置し、社会科学の代りに美学を採ったのである。
その美学は、彼の場合には、いかに生くべきかという問いへの答でもあった。
それは、知的で同時に感覚的な人格の全体に係り、特定の瞬間における一回限りの内的経験に集中的にあらわれ(主観性)、歴史的手時間を超越しようとする(非歴史性)。
「私は宣長の思想の形体、或は構造を描き出さうとは思はない。実際に存在したのは、自分はこのやうに考へるといふ、宣長の肉声だけである」(『本居宣長』その二)。
ここでいう「肉声」とは、「生きた個性の持続性」(同上)であり、要するに宣長の「心」である。
その「心」はまたはるかに石田梅岩の「心」にも近いだろう。
「神儒仏トモニ悟ル心ハ一ナリ」(『都鄙問答』巻之三、「性理問答ノ段」)といったときに、梅岩にまた、神儒仏の「思想の形体、或は構造」の差は、二次的なものにすぎず、彼にとって重要なのは、それらの外在的な体系に対する内面的な「心」の反応である、といおうとしていたのである。
かくして小林はマルクス主義の客観的歴史主義に対し、主観的で超歴史的な「心」の内的経験を対立させた。
彼はそういう立場は、モーツァルトについて、美しく正確に語ることを可能にしたと同時に、日本の中国侵略戦争について、冷静に客観的に語ることを不可能にした。
人生の一回性を歴史的過程に還元することができないように、歴史を歴史家の心に還元することもできない。
  マルクス主義的語彙によって武装された政治的宣伝さえも見破ることのできた林達夫にとっては、日本軍国主義の宣伝を見破る程度のことは、朝めしまえであったろう。
彼は1940年に、「楽屋裏を熟知している人間には、今時の芝居が馬鹿馬鹿しく見てはおられない」と書き、「絶壁の上の死の舞踏(ダンス・マカーブル)に参加するひまがあったなら、私ならばエピクロスの小さな園をせっせと耕すことに努めるだろう」と書いた(「新スコラ時代」)。
太平洋戦争の間はほとんど全く沈黙していた林は、敗戦後当時を回想して、「思想闘争には個性の数だけ戦法がある」といい、「いつの場合にも私にとっては反語(イロニー)が私の思想と行動の原則」であるといった(「反語的精神」1946)。
「自由を愛する精神にとって、反語ほど魅力のあるものがありましょうか」(同上)。
林は決してその原則を曲げなかった。
  日中戦争の最中に、その本質を見事にも描いて、小説「マルスの歌」(1938,発表の雑誌『文學界』は、陸軍の圧力により発表を禁止された)を書いたのは、石川淳である。
その小説の主人公は、東京の裏街の自室で、「狂躁の巷から窓硝子を打つて殺到して来る流行歌『マルス』」に耐えきれず、外へとび出し、すこし酒を飲んで、映画小屋へとびこむ。
その小屋では、たまたま戦場の光景――それはあきらかに中国大陸の戦場である――が映されていて、激しい砲撃の後、次のような場面に移る。
水辺に楊柳のある村。
そこで笑い顔の「壮丁のむれ」が農家の前に集り、そのなかの隊長と覚しき人物が、これも笑いながら、二人の子供のあたまに手をおいている。
「まさしく壮丁らとは国籍を異にするところの二人の子供」。
「それはまさに平和な光景らしかつた」が、彼らの顔には、「涙とか憂鬱とか虚無感とか、絵に写せば写せるような御愛嬌な表情はなかつた。かれらは切羽つまつた沈黙の中で素直にNO! と叫んでゐた」。
――征服者が押しつける「平和的な」笑顔、被征服者の立場と心理に対する征服者の側の無知、その無知が相手の表情のNO!を読めぬところまで徹底している社会とその指導者、すなわち中国大陸での「泥沼戦争」の必然性、今日からふりかえっていわゆる《pacification》なるものの本質、そういうことのすべてが、映画の一場面の叙述のうちに、要約されている。
小説家の眼光怖るべし。
これは日本の小説家が日中戦争について書いたもっとも鋭く、もっとも正確な文章であったろう。
  小林秀雄は戦時中に戦争批判の言葉を書かなかった。
マルクス主義のみならず一般に歴史解釈の概念的装置を放棄した以上、一つの戦争を他の戦争から明瞭に区別することはできない。
「戦ひは勝たねばならぬ」(「戦争について」1937)。
その戦いが水辺に楊柳のある村の子供に対するものであってもということになる。
しかし小林は軍国主義の思想動員にも決して便乗しなかった。
「文学や思想の御都合な国策的方向或は理論といふやうなものを、頭の中からどうにかして早くしぼり出さうと苦労するのは、百害あつて一益もない」(支那より還りて」1938)。
そして太平洋戦争の最中に、日本の古典文学について、戦争とは関係のない文章を書いていた(『無常といふ事』1946年刊に収める)。
それらの短く緊密な文章には、芸術的形式や自然や言葉に対する詩人小林秀雄の鋭い感受性が遺憾なくあらわれている。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)

つづく
 今朝の父の一枚です(^^)v
中央噴水があがっていました。
去年からコロナ対策で停止されていたのですが再開されたのかな?
中央噴水・緑のせせらぎの停止について」(2020年4月27日)

お昼のニュースを見ていると
大阪 新型コロナ 感染者過去最多800人台後半か」(関西NHK)
父がボソッと「すぐに1000人超えるな…」
そして夕方のニュースには
大阪 新型コロナ 新たに878人感染 過去最多」(関西NHK)

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イタリアでは、E484kの事を「日本株」と呼び、どの新聞でも大きな記事にしていますが、日本の新聞を見てもあまり書いてない。
どうしてだろう。