2021年4月8日木曜日

卯月八日

毎年、蕾が冬の間にヒヨドリなどの餌になっていた。
今年は、その蕾が残っていたので、まだかなと思っていたら咲いていました!

名前の由来・・・貝原益軒『大和本草』(1709年)には「切れば早く長ず、故にキリという」と記されているとおり、この木は伐るとその木の生長が速いことから、キリと名付けられた。
桐という漢字は、キリの木の幹が、筒のように真っ直ぐに伸びる姿をしていることによる。
樹木シリーズ46-1 キリ(桐) 森と水の郷あきた
[キリ]

(前略)
 このように用途の広い桐だが、成長の早いことでも有名だ。
「娘が生まれたら桐を植え、それで簞笥(たんす)をつくれ」という諺(ことわざ)があるが、私はそれはきっと成長の早いたとえで、実際に二十年ぐらいで簞笥ができるような大きな材になるわけがないと思っていた。
それでも試しに植えてみて、しっかり肥料をやったところ、なんと本当に簞笥ができそうなくらい大きくなったのだ。 
 こんなに早く成長して、こんなに用途の多い木は、まさにエコロジカルとしかいいようがない。
最近、ドングリだけでなく桐の育林にも力を入れたいと思い始めた。
(『森の博物館』 稲本正 小学館 1995年)
花摘(はなつみ)
 山野で花を摘むことであるが、仏教ではこれに特別な意味をもたせて、4月8日の灌仏会(かんぶつえ<仏生会>)の供花(くげ)を摘むことをいう。
この日諸寺では花堂を特設し、小さな釈迦像(誕生仏)を安置して山野の花を供養する。
この花供養は民間習俗としての3月3日、4月8日の山遊びとも密接に関係するもので、女性の参加が特徴的である。
有名なのは、比叡山戒壇堂の仏生会の花摘で、女人禁制の時代、女性はこの日に限って登山を許され、東坂本の花摘の社に参詣した。
「この上の山へ、花つみにいらせ給ひてさぶらふ」〔平家灌頂・大原御幸〕
「東寺にもまた花摘の儀あり。七日より花堂を造り、小釈迦の銅像を安ず」〔日次記事4.8〕
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
 卯月八日(うづきようか)
 旧暦四月八日のことで、民俗学では四月八日の行事の総称として用いられる。
実際にこの日をウヅキヨウカ・オッキヨウカ・シガヨウカ・ヨウカビ・オヨウカなどと呼ぶ地方もある。
新暦では月遅れの五月八日とする地域も多い。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
  卯月八日の山行き
 この日を山遊びの日、山登りの日と定めている例が各地にある。
たとえば宮城県では野がけといって、ムラじゅうが誘いあって高みの山へ登り飲食する所がある。
徳島県の剣山(つるぎさん)山麓地方では高い所へ登って海の方を眺めるといい、山いさみと呼んでいる。
この日、老若男女が酒食を携えて近くの小高い山に登って一日過ごす習俗は広い範囲にみとめられ、高い山・お山はじめ・山遊び・山遊山(やまゆさん)・嶽行(だけゆ)き・花見の山行きなど、さまざまな名で呼ばれている。
八日が薬師の縁日にあたるために薬師へ参る所も東日本に多いが、これも山行きの変形とみることができよう。
また、鳥海山・蔵王山・赤城山・浅間山・三峰山・立山・大峰山・大山(だいせん)など、各地の著名な霊山の山開きの日としたり、この日に春の例祭を行なうという例も少なくない。
山伏の峰入り修行もこの四月八日を一つの目安とし、羽黒山伏はこの日から夏の峰に入り、中世の大峰山では大晦日から山中に籠っていた晦(みそか)山伏が出峰した。
  天道花(てんとうばな)
 卯月八日の山行きでは、ツツジ・石楠花(しゃくなげ)・藤・山吹・空木(うつぎ)・樒(しきみ)など、山の花をとってくる所が多い。
近畿・中国・四国地方では、この花の束を竹竿の先にゆわえつけて庭先に高く掲げ、天道花あるいは高花・夏花・八日花などと呼ぶ。
お天道様に供える、月に供える、お釈迦様に供える、仏に供えるなどと説明され、団子や水・線香を供えたり、水を振りかけたりすることもある。
関東地方では藤や空木の枝を軒端にさしたり戸口に飾ったりすることが多く、埼玉県にはこの日を藤の節句と呼んぶ所がある。
仏壇あるいは神棚・屋敷神に供えることも珍しくない。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
室井佑月さんのTwitterに

もうみんな気がついているよね。
緊急事態宣言を回避してまん防って、解除の時期を失敗したっていわれたくないだけだよね。
どうせどっちもあたしたちの意識に頼りつーことは変わりがない。


坂本史衣さんのTwitterには、

今朝聴いたBBCの解説
”日本はワクチン接種が始まったばかりでG7の中では最も出遅れており、関西では変異株の検出数と検査陽性者数が増加しているが、7月のオリンピックで6万人を海外から迎える予定”

「不思議の国」感が強い。
関西で過去最多1442人感染確認 大阪は医療非常事態宣言」(関西NHK)
確か、大阪は緊急事態宣言を前倒しで解除したとき、専門家から感染が拡大すると言われていた。
その危惧が現実となり、「緊急事態宣言」を求めると、
判断ミスを責められるので「医療非常事態宣言」と言葉を使っていると思う。

大阪 新たに905人感染確認 3日連続で過去最多 新型コロナ」(NHK)

父が昨日、「すぐに1000人超える」と呟いていました。
平野啓一郎さんのTwitterに

自殺報道やテロ報道では、「アナウンス効果」の抑制が求められますよね? 
聖火リレーで、人が集まってる映像だって、当然、アナウンス効果はあるんですよ。
メディアは「気の緩み」と言うけど、自分たちが煽ってることも自覚すべし。


思い出すのは4月8日に

昭和61年(1986) アイドル歌手岡田有希子(おかだゆきこ)飛び降り自殺(少年少女の後追い自殺続出)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
(「第十一章 三つの座標」つづき)

 現存する作家のこれからの仕事は予想できない。
今日(1980)までのところで、林達夫は多く書いていない。
ベルクソン(『笑』)、ヴォルテール(『哲学書簡』)、ファーブル(『昆虫記』共訳)などの翻訳の他に、10冊にみたない論文集とその他の短い文章の若干があるだけである(主要な文章は、すべて『著作集』六巻に収める)。
その形式は、論文または「エッセー」に限られ、詩歌小説の類の発表されたものはない。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
内容は、第一に、西洋思想史の話題を、宗教・哲学・文学・芸術にわたって論じ、中世と文芸復興期を主とするが、古代ギリシャにも触れ、現代にも及ぶ。
第二に、マルクス主義に係る文章が多く、中世の社会思想史的記述(「社会思想史・中世」)や無神論としての唯物論の主張(「唯物論の歴史」)から、スターリニズム批判に到る。
第三に、同時代の日本の社会文化現象の、殊に思想的な面での、批判もある。
その沈黙を含めて、戦時中の林達夫は、大勢を支配した軍国主義的言論の知的対極であった。
文章はいかなる抽象化の水準においても明瞭であり、常に対象から知的距離を保って、決して煽情的でなく、決して感傷的でなく、殊に決して日本語の修辞法の習慣(「イディオム」)にひきずられてそお整然たる理路を乱すことがない。
すなわち現代日本語による理性的な散文の可能性の最高のところを示す。
 しかし日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは、石川淳である。
その漢文くずしの短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜き、ほとんど鷗外の塁に迫る。
同じ世代、または以後の世代の文学者で石川に匹敵する者がないのは、いうまでもない。
しかも他方では、俗語の活用にすぐれ、短篇小説においても「エッセー」においても、あるいは諧謔の、あるいは反語の、あるいは日常性への急な接近の自由自在な効果を生む。
極端な場合には、対象についてほとんど何らの情報も提供しない紀行文でさえ、ただその文章の芸によって読ませるのである(『西游日録』1965)。
石川の仕事は、多方面にわたる。
第一に、序・跋などの短文があって、その文章が極度に磨かれているのは、和漢の文学的伝統である。
能くこれを作る者は文人であり、作らない者は素人であった。
この定義に従って、荷風以後に文人と称し得る者は、ただ一人の夷斎石川淳だけである。
その『夷斎筆談』(1950~51)の序にいう、
 「鶴林玉露、解経不為煩辞のくだりに、六経の古註もまたみな簡潔にして煩辞をなさずといへり。余もとより煩辞を悪む。あに簡潔を好まざらんや。ただ世界は古来すでに六経の外にあり、文章は今日もはや三両字をもつて意義燦然たらしむべき術なきをいかにせん」
 そこで第二に、考証伝記の類がある。
たとえば『諸国畸人伝』(1975)。
簡潔な小伝を作って人物の肖像を躍如たらしめるのは、これもまた中国の古典文学の主要な形式の一つであった。
しかし西洋にもその先緃がなくはない。
『諸国畸人伝』の一部分は、たとえばジョン・オーブリ(John Aubrey,1626~1697) が同時代人を描いた『小伝集』(Brief Lives, pub. 1813)を思わせる。
第三に、文芸批評がある。
文学者の仕事としてこの形式を用いるのは、いうまでもなく、鷗外以来の西洋の影響である。
石川のこの面での代表的な仕事は、『森鴎外』(1941)で、木下杢太郎と中野重治のそれとならび、もっとも独創的な鷗外論の一つであった。
その独創には三点があり、一つにはその作品を論じて抽斎・蘭軒・霞亭の伝記を最高の傑作としたこと、二つには、その人物を見るのに「我百首」に拠ったこと、三つには、その影響を測って翻訳の仕事を分析したことである。
第四に、文章・学識・批評的洞察を総合して、自由自在なのは、多くの「エッセー」である。
たとえば『夷斎筆談』(前掲)は、「面貌について」にはじまり、「恋愛」、「権力」などの話題を通って、「仕事について」に終る。
それぞれの話題については結論というべきものがない。
しかも各章、建設的に構成されて一点に集中するのではなく、絵巻物のように部分を連ねてそれぞれの部分にそれぞれの妙味を発揮する。
その状あたかも、目的地を問わず、道程を娯しむ旅に似ている。
これは「ことばのはたらきに於て顕現される精神の運動」(「面貌について」)であった。
 第五に、小説。
小説は人物を描くが、その「美はことばのはたらきにあって、人間像の近似値には無い。書かれた人間像と実在の人間との関係の上なんぞには、じつに何の芸術的意味も無い」(同上)とされる。
すなわちその限りでは、「エッセー」と異ならない。
かくして石川淳の独特の傑作は、超現実主義的な短編小説である。
戦時中に「普賢」と「マルスの歌」があり、戦後には、「黄金伝説」や「焼跡のイエス」(1946)、「紫苑物語」(1956)、「喜寿童女」(1960)がある。
これに「おとしばなし清盛」(1951)のような和漢の古典の「パロディー」を加えて、いずれも他に比類がない。
 小林秀雄は一方でランボーやモーツァルトやセザンヌの芸術を論じ、他方でドストエフスキーの生活を論じた(『ドストエフスキの生活』1939)。
芸術または学問と生活を併せて説き、小林の最大の著作となったのは、『本居宣長』である。
その考え方の特徴(殊に歴史に対する考え方のそれ)は、そこに要約されている。
すなわち宣長の「心」と説いて、そこに古代信仰があり、その信仰が宣長を推して古代文献学へ赴かせた動機を活々と描く。
詩人小林の感受性がなければ、その洞察と叙述は成りたたなかったであろう。
しかしその文献学の実証的方法の由来を説明して、明瞭でなく、殊に宣長における神話と歴史、「言」と「事」との混同を弁護して、明瞭でない。
歴史家の「心」のなかで「言」はすなわち「事」であるとしても、そのことは、必ずしも歴史家の外の世界で、「言」と「事」とが一致することを意味しないだろう。
そのとき「心」の内面性を、歴史的世界の外面性へつなぐために、多数の「心」をもちだすのは解決ではない。
「国民の大多数の生活のうちに生きてゐる歴史」――しかし『古事記』の時代に「国民」というものはなかった。
 小林秀雄の文章は、おそらく芸術的創造の機微に触れて正確に語ることのできた最初の日本語の散文である。
その意味で批評を文学作品にしたのは、小林である。
しかしそれほどの画期的な事業は、代償なしには行われない。
代償とは、人間の内面性に超越するところの外在的世界――自然的および社会的な世界――の秩序を認識するために、有効で精密な方法の断念である。
  かくして両大戦間の西洋思想の挑戦に対する小林・林・石川の反応は、徳川時代以来の、あるいはさらにさかのぼって、平安時代以来の、日本の文化の構造を反映したといえるだろう。
内面的な直接経験における自己同一性の確認、外来の概念的装置を通じて客観的世界への通路を見出そうとする企て、権力に対する反語(イロニー)としての芸術、および全体に対して部分の洗練を重んじる様式、――それは徳川時代の梅岩にも、徂徠にも、また狂歌師たちにも、あらわれていたものである。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)v
昨日も中央噴水の画像でしたが、水の動きにカメラを向けていました。
昨夜のEテレ2355に造波装置が登場していたので(^_-)
以前、見た時にその波の芸術にビックリしました!

波の芸術」(海上技術安全研究所)

とびはぜのトビーの呟き

明日、4月8日はお釈迦様の誕生日らしい。
お釈迦様といえば、あの言葉が有名だよね。
「天上天下唯我独尊」
みんな本当の意味知ってるのかな?


天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」(泉 惠機 大谷大学)