2021年4月11日日曜日

行楽日和なんだろうな…

土、日とも天気がいいので、行楽日和なんだけど…

12日からまん延防止等重点措置適用 京都市観光地人出減る」(京都NHK 4月10日)
 なかのとおるさんのTwitterに

Google の COVID-19 予測。
大阪のデータがすごいことになってます。
本当にこんなに増えるんでしょうか。


COVID-19 感染予測(日本版)
を見ると28 日間(4月7日~5月4日)に大阪では
予測される死亡者数が287人と、陽性者数が8788名となっていました。

でも現実になりそうです…
新型コロナ 大阪府で760人感染確認 6日連続700人超」(関西NHK)

感染急拡大で医療体制ひっ迫 大阪府が看護師を緊急募集」(関西NHK)
 保坂展人さんのTwitterに

おはようございます。
昨日は、大阪府918人、兵庫県351人と過去最多を更新しています。
「まんえん防止等重点措置」の段階から、「緊急事態宣言」のレベルにすでに到達しているのではないかと議論されています。
「まんえん防止」の効果はどうだったのか、検証も必要です。
朝刊に
とあったのだけど

鳥飼玖美子さんのTwitterに

今年度の共通テストを利用した大学は、一件あたり
750円の手数料を入試センターに納めた。
センター試験から180円の値上げだが、来年は1200円、第3回以降は1500円に倍増。
大学によっては約2千万円の支出増となり、コロナ禍で経営難の大学財政を直撃する。


大学入試センターの収入は約9割が検定料、1割近くが利用大学の「成績提供」手数料。
検定料は据え置きでも大学からの手数料が増えれば赤字解消になるが、今度は大学経営が赤字になる。
値上げ分を受験料に上乗せするなと文科大臣が指示するだけでは問題解決にならない


経営が苦しい大学は増加。
教員退職後の後任を採用できない大学もある。
入試科目によっては専門教員がいないので共通テストを利用することになる。
大学が受験料を徴収することを文科大臣は「暴利」と発言したようだが、大学経営の実態をもっと勉強して欲しい。


私立大学・短大を経営する学校法人(全国で658)のうち、
2023年度末までに破綻しそうな法人は21、
将来の破綻が懸念される法人は121(全体の18.4%)。
日本私立学校振興・共済事業団による調査
(2021.4.6 讀賣新聞オンライン)
1868(慶応4)年4月11日 江戸城が幕府から官軍に引き渡されました。

江戸開城と民衆の動向

 勝と山岡と益満


 ところが3月になると、かれらも軟化した。
 3月9日、山岡鉄太郎(やまおかてつたろう<鉄舟(てっしゅう)>)が勝海舟の手紙をもって、駿府の大総督府に西郷参謀をたずねた。
山岡は低い地位の旗本であったが、剣道に達し、禅の修養をつんだすこぶる気骨のある人物であった。
かれはなんとかして主家の危急を救うべく、自分が直接に誠意をぶちまけて東征大総督に嘆願しようとしたが、幕府の役人は相手にしなかった。
たまたま3月5日、勝海舟に会うことができたので、その志をのべると、勝は一目で山岡が非凡の人物であることを見抜き、おおいにこれをはげまし、かねてたがいに尊敬しあっていた西郷に手紙を書いて、これを山岡に託した。
(『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫 2006年改版)
 このさい、事実は小説より奇なりというが、昨年末の三田の薩摩屋敷焼打ちのさい、幕府が捕えていた薩摩藩士益満休之助(ますみつきゅうのすけ)が、たまたまこのとき勝の家にあずけられていたので、勝はこれ幸いと益満を山岡に同行させ、官軍陣営を通りぬける便宜をえようとした。
 3月6日、山岡は益満をつれて江戸を発した。
六郷川(ろくごうがわ)を渡ると、すでに官軍先鋒部隊が街道にあふれ、怪しいものは一人も通さない。
山岡は平気で、益満を先にたて、薩摩藩士がいそぎ総督府へ連絡にいくと称して官軍陣営を通りぬけ、9日、無事に駿府へ入り、ただちに西郷をたずね、勝の手紙を渡した。
もしも益満がすでに死刑にされているか、またはこのとき勝家にあずけられていなかったら、山岡は無事駿府に行けただろうか。
また益満が勝家にいたとしても、かれが勝に心服し、さらに山岡の人物を尊敬しなかったら、かれは甘んじて山岡の先供になったであろうか。
勝・山岡といい、また益満といい、運よく役者がそろったものである。
 勝の西郷への手紙にいう。
 「徳川氏の土民もまた皇国民の一人であり、かついまの日本は、兄弟は牆(かき<垣>)の内で争うとも、外敵には一致して当たるべきであると考えて、徳川の君臣一致して恭順している。しかし江戸は四通八達の地で、数万の士民が往来しており、あるいは『不教の民』が主君の意を解せず、今日の大変に乗じてなにをするかわからない。自分はその鎮撫に全力をつくしているが、ほとんどその道がない。しかし、後宮には天皇の叔母静寛院宮(せいかんいんのみや)がおられる。『一朝不測の変にいたらば頑民無頼の徒何らの大変牆内に発すべきか、日夜焦慮す』。『軍門参謀諸君、よくその情実を詳にし、その条理を正されんことを』」
  江戸城明渡しの談判

 この手紙は、もし官軍が江戸を攻撃すれば、いかなる大変がおこるかもわからないことを強調し、西郷君よ、ここを察せよというだけで、一言も徳川家をたすけてくれとはいわない、まことに相手をよく知りぬいた高度の政治的英知の結晶である。
さらに手紙の趣旨を山岡がくわしくのべた。
最後はただちにその意味を深く察した。
山岡をしばらく待たせて参謀会議をひらき、大総督の承認をえて、慶喜謝罪の七条件を山岡に示した。
  第一、慶喜を備前藩にあずける。
第二、江戸城明渡し。
第三、第四、軍艦と兵器いっさいを引き渡す。
第五、城内居住の家臣は向島(むこうじま)へ移り、謹慎する。
第六、慶喜の妄動をたすけた者の謝罪の道をたてる。
第七、幕府で鎮撫しきれず暴挙する者があれば、その者のみを官軍が鎮定する。
以上の七条が実行されるなら、徳川家存続は寛大に処置する。
 山岡は第二条以下は即座に承服したが、第一条に断然反対した。
西郷もまた一歩も譲らず、両者激論した。
その間に西郷は山岡の誠意に感動させられた。
やがて西郷は、慶喜のことはわたくしが一身に引き受けると答えた。
山岡は感謝して、西郷から官軍陣営通行証をもらって早々に帰った。
  西郷は3月13日に江戸高輪(たかなわ)の薩摩邸に入った。
勝はただちに西郷を訪問し、たがいに知己同士の久しぶりの挨拶をかわした後、一朝不測の変があれば静寛院宮の安全をどうするか、よく考えられたい、後は明日談判しようとだけいって帰った。
翌14日、両者はふたたび会談、勝のほうから、西郷が山岡にもたせた七条件につき、第一条の慶喜を備前藩にあずけるのを、水戸に引退して謹慎すると改めたほかは、ほとんど大差ない七条件をだした。
西郷はそれに同意し、大総督のゆるしをうけようと答えた。
  西郷はそこですぐ駿府に使者をだし、翌日にせまった江戸城進撃の中止を命じさせた。
使のでた後、西郷と勝はなにごともなかったかのように、久しぶりに会った友人同士の話に時を移した。
(『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫 2006年改版)
勝海舟の手紙にある『不教の民』は論語にあることばで

レッスン13 子路 332
 子曰く、教えざるの民を以(ひき)いて戦う。是れ、これを棄つと謂うなり。

「訓練もせずに、人びとを戦場に送りこめば、どうなるかわかりますね。犬死にするだけです。かつての日本がそうであったように。というか、物資も戦略もなくて、精神と竹槍で戦わせたわけですから、もっとひどいんですが」
(センセイ、怒ってる……)
(「一億三千万人のための『論語』教室」 高橋源一郎 河出新書 2019年)

オリンピック・パラリンピックを開催しようとしている状況と一緒ですね。

大田垣蓮月は

 あた(敵)みかた かつもまくるも 哀なり おなじ御国の 人とおもへば

の歌を西郷に託しています。
太田垣蓮月
  剃髪
(ていはつ)の決意の日

 いよいよ黒髪を薙ぎおとした時、誠(のぶ)はこれが俗世の中で最後の男性にささげる手向けだ、と思った。
古肥(ひさとし)のために幸せになれた幾年かの誠の感謝であると同時に、もはや外の男にはまみえませぬ、という節操であり、それゆえに俗を断つ思いを堅めた薙髪(ちはつ)であった。
 養父の悲嘆も誠の悲嘆も極限のところに追いつまっていた。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年)
  知恩院大僧正(だいそうじょう)によって得度をうけたのは古肥が死去していくばくもない日であった。
古肥との間にもうけた女児をつれ、門主のはからいによって真葛庵(まくずあん)へうつったとき、養父の光古(みつひさ)は西心(さいしん)、誠は蓮月(れんげつ)という法名を授けられていた。
 この日から蓮月尼は誕生したのである。
 養父光古は六十九歳
 蓮月尼 三十三歳
 であった。
   色も香も思ひ捨てたる墨染(すみぞめ)の袖(そで)だにそむる今日のもみぢ葉

 蓮月尼はさすがに切なかったのであろう。
悲痛なたましいの凝りを吐き出すように、この一首を書きとどめたのである。
養父西心と蓮月尼と一女の生活は、しばし静寂の中にあるかに見えたけれど、真葛庵にうつって翌々年、つまり文政(ぶんせい)八年の春、一女が病死するに至った。
添っては削(そ)ぎ落とされ、生まれては没していく肉親との薄い縁(えにし)に、蓮月尼(れんげつに)はまたここで打撃をうけなければならなかった。
生まれながらにして生母に別れ、実父があっても名乗ることを許されなかった悲運の「生」は、どこまでも鎖をひいてきた。
彼女は孤独にさらされとおしたとも言える。
  常ならぬ世は憂きものと三(み)つ栗(ぐり)の独りのこりて物をこそ思へ

 子を喪(うしな)った日の激情をおさえながら、蓮月尼はこのようによみのこそうと思った。
しかも不幸はこれだけにとどまらず、養父の西心が七十八歳の夏、蓮月尼の心をこめた看護もむなしく世を去ったのである。
天保(てんぽう)三年(1832)八月十五日、蓮月尼は四十二歳になっていた。
  たらちねの親の恋しきあまりには墓に音(ね)をのみなくくらしつつ

 養父の死は蓮月尼にとってさらに悲しい事件であった。
(だれ)の死よりも、孝心の厚かった蓮月尼には痛い訣別(けつべつ)であった。
彼女はあかつきに起き、庵(いおり)を出ると墓前に侍し、日のくれるまで去ることはなかった。
さびしいひとりの庵にいるよりは、墓の下にねむる養父とともに山にあることが、蓮月尼には安らぎとなったのであろうか。
狂うことも許されぬ蓮月にとっては、この墓山が何よりの鎮魂の場であったのであろう。
 夫の亡くなる前日、薙(な)ぎおとした髪は、夫への節操のしるしであり、また俗を断つ意味をもったのであった。
童女のように短くおかっぱにしたのは、養父が悲しむことを予測して控え目な薙髪(ちはつ)であったけれど、いよいよ養父と訣別した蓮月尼は、この童女型の薙髪を、剃髪(ていはつ)にした。
青あおとそりおとされた頭部から風が沁(し)みた。
今は蓮月尼の身近なものを掠(かす)めとりつくした証(あかし)のように、よるべもない形になった。
 誰一人として身に添うもののない今は、剃髪することに何の障害もなかったのである。
 すがすがしいが、寂寥(せきりょう)の人生が、この日からまた蓮月尼にはじまったのである。
 蓮月尼の心の中に求道の火が燃えた。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年)

つづく…