2021年4月16日金曜日

雨が降ったけど…

天気予報では、午後から雨。
でも、雨雲の様子をテレビで確認すると
降るかもしれないと望遠レンズを諦めて出かけました。
歩いていると、時々、パラパラと降るていど。
日ざしがさすと暑い…
もうキショウブが咲き出していました。
帰る時に旗を持った人が先頭の20人位の団体(老人クラブ?)に出会った。
朝刊の1面記事に
大阪「災害レベルの緊急事態」府の医療政策トップ警鐘〟(朝日新聞)

大阪府が夜の繁華街で“外出自粛”呼びかける」(関西NHK)
外出自粛は、夜の時間帯で繁華街なんだろうなぁ
オリンピックを開催すると国が躍起になっているのだから
20人位での行動はなんともないようです。
この後、出会った女性が立ち話をしているのが聞えました。
「子どもの世話にならないように(歩いている)」
「子どももあてにならないから…」と話していました。
私も父や妹の世話にならないように歩いていますp(^^)q

ちなみに居住地の掲示板を見ると町会の催しは、軒並み中止になっている。
オリンピックが中止になれば国民の意識も変わるかなぁ
“第4波はまるで違う”大阪の記者が感じる医師の危機感」(WEB特集 NHK 4月15日)

田中均さんのTwitterに

感染状況次第で五輪開催中止は選択肢だという二階発言は常識論だが、
波紋が生まれること自体、開催ありき論が如何に強いかを物語る。
変異型が猛威を振るっている時、ワクチン接種加速の道がほぼないなら、更なる制限しかない。
中途半端な措置の繰り返しでは国民の生命は脅かされ五輪も到底可能でない。
 内田樹さんのTwitterには、

信濃毎日に「仮定の質問」について送稿。
二階幹事長の「これ以上とても無理だということだったら、これはもうスパッとやめなきゃいけない」発言がどうして「波紋を広げた」のかについて書きました。
この発言が問題になったのは「これ以上とても無理だという場合」を仮定したからです。

「とても無理」というのは「できない」ということです。
だから「無理なら止める」というのは同語反復に過ぎません。
そのどこが「波紋を広げた」のか?
それは「できない場合があり得る」という「仮定」を口にしたからです。
それは「仮定してはいけない仮定」だったのです。

わが国では「仮定の質問にはお答えできない」という言い訳が公認されています。
だから、為政者は「仮定」をしません。
仮定さえしなければ失政の責任を取ることが免ぜられるからです。
幹事長はうっかりそのルールを忘れて「仮定」してしまったので党内騒然となったのでした。

日本の歴史を大転換させた幕末維新人物事典』より「野村望東尼」を転記しますφ(..)
この本は、取り上げられている人物が多く、便利なのに品切れになっています。
再版されるといいなと思っています。
 野村望東尼――のむら・ぼうとうに
1806~1867(文化3~慶応3)
■出身地=筑前国(福岡) ■父=浦野重右衛門 ■母=今泉みち
■諱=もと ■雅号=向陵・招月 
■墓=福岡市・明光寺、山口県防府市・三田尻花浦桑野山麓

 勤王の女流歌人

 日本人の誰もが期待と不安を交錯させていた幕末に、歴史の表舞台で活躍した志士たちを、陰になり日向(ひなた)になって見守り、援助の手をさしのべた女たちがいた。
 女流歌人としてすでに名をなしていた野村望東尼も、その一人である。
(『日本の歴史を大転換させた幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
 望東尼の本名はもとといい、福岡藩士の浦野重右衛門の三女として生まれた。
父母ともに風流を解する教養人で、もとはその影響を強くうけて育った。
 成長してもとは17歳で同じ藩の武士と結婚したが、わずか半年で離婚した。
 実家にもどったもとは、その後、福岡藩の書道師範であった二川相近(ふたがわすけちか)のもとにせっせと通って、和歌の道にはげんだ。
 この二川は国学を本居宣長(もとおりのりなが)の高弟に学んだことから尊王(そんのう)派に傾倒していた。
もとの勤王への志(こころざし)はこの二川によって形成されたといってよい。
  そして、24歳になったとき、もとは二川にすすめられて、やはり福岡藩の足軽頭(あしがるがしら)で同じ二川の門下生であった野村貞貫(のむらさだつら)と再婚することになった。
 貞貫には先妻とのあいだの子が三人もいたが、文学を愛する好人物で、もとは幸せな家庭を築くことができた。
 同じ道を愛する二人は当時ではめずらしく生活に根づく歌人として注目を浴びていた大隈言道(おおくまことみち)にそろって入門し、歌をつくってはたがいに批評しあう日々をすごしていた。
 やがて先妻の子も立派に成長し、隠居の身となった二人は余生を送る住まいとして平尾山荘(福岡市平尾)を建てた。
 しかし、歌に親しむ静かな山村での生活も、十年で終わりを告げた。
安政(あんせい)6年(1859)に夫の貞貫が66歳で亡くなったからである。
 最愛の夫を失ったもとは髪をおろし、望東尼(ぼうとうに)と名のるようになった。
 しかし、歌に明け暮れる優雅な暮らしをしていたとはいえ、もと夫婦が世間の動きと隔絶されていたわけではななかった。
 むしろ、文学に対する研(と)ぎすまされた神経は激動する時の流れを敏感に感じとっていたのである。
 貞貫が亡くなる前年には安政の大獄(たいごく)がはじまっている。
 梅田雲浜(うめだうんぴん)や橋本左内(はしもとさない)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、吉田松陰(よしだしょういん)らが次々と投獄されて、悲惨な死をとげ、つづいて桜田門外(さうらだもんがい)の変(へん)が起こるにいたって、歴史の大転換期がせまろうとしていることは、誰の目にも明らかだった。
 すでに老境をむかえていた望東尼は、なにかにつき動かされるようにして京都に旅立った。
京都はすでに、みやびなだけの都ではなく、志士たちが暗躍(あんやく)する混迷(こんめい)の地となっていた。
 望東尼は一年半の滞在中に、かつての師である大隈言道に再会したり、転居中の近衛(このえ)家の村岡局(むらおかのつぼね)と歌をかわすなど、風雅(ふうが)の道を再認識したばかりではなく、寺田屋(てらだや)事件を間近に経験するなど、肌身で幕末の空気を感じとり、自分の内にある勤王の志を確認して故郷に帰った。
 そして、望東尼の平尾山荘は、望東尼の母性にひかれた尊攘(そんじょう)の志士たちが次から次へと訪れる場所になっていた。
 福岡藩士の平野国臣(ひらのくにおみ)もその一人であり、安政の大獄によって京都の六角(ろっかく)獄舎に投獄されて斬罪(ざんざい)されてしまった。
年齢を超えて同志としてはげましあった国臣の非業(ひごう)の死に望東尼の心は深く傷ついた。
 それからほどない元治(げんじ)元年(1864)11月、谷梅之助(うめのすけ)という志士をかくまうことになった。
 実は、この梅之助とは高杉晋作(たかすぎしんさく)のことで、長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)や長州藩内の保守派・俗論党(ぞくろんとう)からのがれるために望東尼のもとにやって来たのだった。
 晋作には、望東尼の心くばりがなによりの支えになった。
 十日あまりの滞在の後、俗論党を一掃(いっそう)するために長州に旅立つ晋作に贈った望東尼の歌である。

  まごころをつくしのきぬは国ため
  たち帰るべき衣手にせよ

  山口の花ちりぬとも谷の梅の
  ひらく春びをたえて待たなむ
 これに対して、晋作は次の歌で応(こた)えた。

  自ラ愧(は)ヅ知君ノ我ガ狂ヲ容(い)ルルヲ  
  山荘我ヲ留メテ更(さら)ニ多情
  浮沈(ふちん)十年杞憂(きゆう)ノ志
  若(い)カズ閑雲野鶴(かんうんやかく)ノ清キニ
  その後、晋作のめざましい働きによって長州は倒幕の決意をかためることになった。
 しかし、福岡藩でも勤王の志士たちへの弾圧がはじまり、望東尼は捕らえられて玄界灘(げんかいなだ)の孤島・姫島(ひめしま)に流されることになった。
慶応元年(1865)のことである。
  畳もなく、すきま風が絶えず吹きこむ牢につながれた望東尼は、歌を詠むことを忘れず『姫島日記』として残した。
 つらい幽閉(ゆうへい)の憂き目に耐える尼のもとへ、晋作は6名の志士を放って豪胆(ごうたん)にも救出作戦に成功した。
 そのときの心境を彼女は「思ひもかけず、ひとやをのがれ出侍(はべ)りぬ。いかにかたの御耳を驚かしつらむ……ゆめ見るここちにわたり侍り」と、あらわしている。
 だが、このとき晋作はすでに病んでいた。
晋作がわずか27歳の若さで慶応3年(1867)4月に亡くなると、望東尼も緊張の糸が切れたのか、後を追うように同年11月に帰らぬ人となった。
 王政復古(おうせいふっこ)が発せられたのは、わずかその一ヵ月後のことである。
(『日本の歴史を大転換させた幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
今朝の父の一枚です(^^)v
「葉桜になるのはやいなぁ」と呟いていました。

はざくら【葉桜】
 花が散って、若葉となった桜の木をいう。
桜は、花の咲く前も、盛りも、また散る風情も、古来好まれ愛でられてきた。
そしてその花が散り始める頃、新芽をひろげはじめ、若葉となり、たちまち重(おも)々と葉を繫らせる。
そうした木の姿を称えることはよくあることだが、ことさら葉桜といい、ある感慨を持って歌われたり、語られたりするのは、桜の花への哀惜の思いがそうさせるのだろう。
(後略) 藤井常世
(『岩波現代短歌辞典』岡井 隆 監修 岩波書店 1999年 )