2020年7月5日日曜日

セミの声が聞えたので…

歩いている途中で雨がポツポツしてきましたが
セミが元気に鳴いていたので大丈夫かなと思いました(*´▽`*)

最近、テントウムシの姿をあまり見ないなと思っていたら
キイロテントウに初めてであった(^^)v

幼虫も成虫もウドンコ病の菌を餌とするので、益虫の仲間ということになります。(「キイロテントウ」おおきくなあれ)
ダンゴムシって虫?
(略)
 ダンゴムシは、昆虫と同じく節足動物の一員です。
ただし、昆虫とは別の、甲殻類という動物群に含まれています。
もう少し細かく言うと、甲殻類・等脚目の中のワラジムシ亜目というグループに含まれているのがダンゴムシの仲間ということになります。
(『身近な自然の観察図鑑』盛口満 ちくま新書 2017年)
 甲殻類の代表といったら、カニやエビです。
すなわち甲殻類は基本的に水中生活者です。
海の貝が陸に進出してカタツムリになったように、甲殻類の中で陸上に進出したのがダンゴムシなのです。
ダンゴムシと同じ等脚類で、まだ水中生活をしているものもいます。
魚釣りが好きな人は、海の魚を釣ったとき、口の中にダンゴムシみたいな寄生虫が入っているのを見たことがあるのではないでしょうか(ウオノエと呼ばれる仲間です)。
このような水中生活をしている等脚類から、やがて陸上生活を送るものが生まれました。
海岸の岩場で見かけるフナムシも等脚類の一員です。
フナムシの場合は陸上生活といっても、完全に海から離れることはできていません。
(後略)
(『身近な自然の観察図鑑』盛口満 ちくま新書 2017年)
7月5日
 関東の戦国大名、北条氏直が豊臣秀吉に降伏した。 1590(天正<てんしょう>18)年

 秀吉の大軍にアリのはい出るすきもないほどに包囲されて三ヵ月、この日、北条家の当主氏直(うじなお)は滝川雄利(かつとし)の陣営に赴(おもむ)き、自分が切腹するので籠城兵(ろうじょうへい)の命を助けてくれるようにと事実上の降伏を申し出た。
これをきいた秀吉は、氏直の命を助け、父氏政(うじまさ)、おじ氏照(うじてる)に戦争の責任者として切腹を命じた。
氏直の妻は秀吉の同盟者徳川家康の娘であったから、家康の気持を考えて氏直の命を助けたのである。
また、北条氏の重臣の大道寺政繁(だいどうじまさしげ)・松田憲秀(まつだのりひで)にも戦争中主君にそむく行為があったとして切腹させた。
こうして5日のうちに小田原開城が決定し、翌日家康が城を受け取った。
秀吉の全国統一に最後まで抵抗した強大な戦国大名としてはまことにあっけない終末であった。
 秀吉は17日小田原を出発、奥羽(おうう)平定のために会津(あいづ)へ向かった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
 永原慶二氏の『戦国時代』より「城と合戦」と『戦国の動乱』より「籠城と女性たち」を転記しますφ(..)
城と合戦
 大名同士の戦いが動員兵力、軍団数を飛躍的に大きくし、組織化された大規模な合戦が行われだすと、本城と支城が計画的な戦略のもとに大兵力の敵の攻撃を受けることも少なくない。
小田原城は永禄4年(1561)上杉謙信に包囲され、同12年(1569)には武田信玄に襲われた。
毛利元就の郡山城は尼子に包囲攻撃された。
それらの場合、城は何とか守り抜かれたが、浅井の小谷城や尼子の月山城は信長や毛利によって攻撃され、そのまま大名家に滅亡に連なった。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
 こうした領国支配と大名家の命運がかかる本城、中核的な支城には、敵襲となれば、武将・兵員ばかりでなく「証人(しょうにん)」とよばれる同盟者からとった人質や、家臣たちの妻子もみな籠城させられ、一蓮托生(いちれんたくしょう)の形をとった。
戦国の主従制の不安定さから、危機に直面すると家中の中からさえ敵に通ずるものが発生したからである。
 攻める側は、城の周辺の集落や城下町を焼き払い、略奪しながら、城を丸はだかにして外部との連絡を絶って包囲攻撃するという作戦をとるのが普通である。
永禄7年(1564)5月、上野西部に侵入した信玄は敵地の麦をことごとく苅り取り拠点の蔵に収納してしまうとともに、田の苗代(なわしろ)はことごとく薙(な)ぎ払い、民屋には火を放って廃墟とした。
地元の民衆は逃亡するか捕えられて人商人(ひとあきびと)に売り払われることも多い。
秀吉は上杉軍の「人取り」の激しさにおどろきかつ怒り、これをきびしく禁止した。
 そのため守る側は町の住民、とくに職人、商人なども、総構(そうがまえ)とよぶ城をとりまく防禦施設(土塁など)の内に取り込み、民衆もろとも籠城するのが普通だった。
 秀吉が天正18年(1590)小田原城を攻めたとき、城主氏政・氏直父子はかつて氏康が謙信・信玄の攻撃に耐え抜いた自信から、籠城作戦をとり、全領の民衆を夫役に駆り出し、城郭の大補強を行うとともに、城下町をそっくり取り囲むおよそ9キロメートルの「大外郭」を構築し、小田原を城町ぐるみ城塞都市化した。
このため秀吉も激突をさけ、20万に及ぶ陸上軍と海上船団でその大外郭をまた包囲し、水・兵糧を絶ち飢餓に追いこむ完全な「旱殺(ひごろ)し」作戦をとって屈服させた。
北条氏の誇った全領国の城システムは秀吉軍によってことごとく分断され、機能することができなかった。
 こうした事実を見ると、城は戦国社会の軍事・統治・技術などをはじめあらゆる人間模様までを集約的に物語る大舞台だということができる。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
籠城と女性たち
 なおこの章の終わりに、籠城(ろうじょう)と女性たちのはたらきにもふれておこう。
戦国の世のつねとして、籠城という深刻な事態もしばしばまぬかれられない。
そのようなとき部将・兵員の妻子たちはみな城にはいらされた。
一つの例として、ややのちのことだが、秀吉の小田原攻めに関連した史料がある。
八王子城主北条氏照(うじてる)は、秀吉の攻撃が避けられないものとみて、はやくも天正16年(1588)、麾下(きか)の久下兵庫助(くげひょうごのすけ)にあてて、「天下の御弓箭(ゆみや)」が切迫しているから、
(イ)八王子に屋敷をもたない者は、寄親(よりおや)あるいは知人の屋敷に兵糧をはこびこめ、
(ロ)いよいよ情勢が緊迫したら妻子は八王子城に入れよ、と命じている。
(『日本の歴史 第14巻 戦国の動乱』永原慶二 小学館 1975年)
 籠城にあたって妻子を城に入れさすのは、一種の人質という意味があった。
このばあいは久下兵庫之助自身も籠城するのかどうかははっきりしないが、ともかく妻子を城に入れることによって、その夫たちはもう迷う余地なく城主と運命をともにせねばならなくなる。
その意味で、妻子の城入りはなんとも非人間的で残酷なものであった。
 籠城した女性たちは、もちろん兵糧の用意や負傷者たちの看護などに活躍したであろう。
『おあむ物語』には、石田三成の挙兵によって、大垣城に籠城したときのことを、
  我々母人も、そのほか、家中(かちゅう)の内儀、娘たちもみな天守にいて、鉄砲玉を鋳(い)ました。
  味方へ取った首を、天守へあつめられて、それぞれに札をつけて覚えおき、さいさいおはぐろをつけておじゃる。
  それはなぜなりや、昔はおはぐろ首はよき人とて、賞翫(しょうがん)した。
  それゆえ白歯(しらは)の首はおはぐろつけて給われとたのまれておじゃったが、首もこわいものではあらない、その首どもの血くさきなかに寝たことでおじゃった。
と語っている。
鉄砲玉の鋳造、味方がとってきた生首(なまくび)に札をつけたり、おはぐろをつけて上級者らしくみせかける、それもおそろしくはない、というあたり、あまりにもなまなましい戦国籠城の光景ではないか。
 しかも不幸にして落城となれば、妻や娘たちはみな城と運命をともにした。
八王子城も、天正18年(1590)6月、前田利家(としいえ)のひきいる北国勢にかこまれて落城の悲運となるが、城中の婦女子は御守殿脇の滝つぼに身を投じて、生きのこる者はなかったということである。
(『日本の歴史 第14巻 戦国の動乱』永原慶二 小学館 1975年)
今朝の父の一枚です(^^)v
父がプリントのリクエストをした画像とは違うのですが…

中川五郎さんのTwitter

補償なき要請を受け、どのお店もライブハウスも生き抜くためにアクリル板を作ったり、ビニール幕を張ったり、知恵をしぼったり、妥協したりして、なんとか頑張ろうとしているのに、それを嘲笑して、何ひとつ思いやろうとしない知事。
Never Again!! 消え去れ‼︎