2020年7月29日水曜日

セミは元気だけど…

蒸し暑い中でも、ワシャワシャと元気なクマゼミ
顔見知りの方と、セミに負けていますねと挨拶をしていました。

29日も傘の出番ありそう」(えりの気象日記 7月28日)

を見ると、今月一度も現れていないものがあるそうです。
太平洋高気圧」「オホーツク海高気圧」「台風」「
のどれかなのですが、確かに一度も現われていません。
でも、現われたと同じ豪雨が何度も襲っている。

山形で記録的な大雨 最上川氾濫 周辺の浸水続く 安全確保を」(NHK)
日曜美術館「自然児、棟方志功~師・柳宗悦との交流~
素晴らしかったなぁ…
棟方志功も柳宗悦も大好きなのに、二人の師弟関係を知らなかった。
倭健命(やまとたけるのみこと)の生涯をうたった叙事詩に感動した棟方の版画「大和し美(うるわ)し」に出会った柳宗悦はたちまち魅了され
変にゴチャゴチャしたものが眼に映った。
眼を近づけると驚いた。
その混雑した中から妙な美しさが光り出るではないか。
実に、前代未聞の作にぶつかったのだ。
あたりを見回すと、頭で出来たり、指先で出来たり…
それらの器用な絵の中にただ一つ
野生の花が活き活きと咲いているのだ
」。

棟方が初めて日本民藝館を訪れた時のエピソード。
部屋の正面に置かれていた大きな鉢(鉄絵緑彩松文大鉢)に目を奪われた棟方に
柳の返辞は
九州の職人の造ったものだよ…
君は鍛冶屋の子供だと聞いたが、君のお父さんが、刃物をつくるのと同じだよ。
君は、お父さんの刃物を見て驚くときがくるだろう。…

と、父を偉い先生(柳)が讃(ほ)めてくださった。
番組を見ていて奇蹟の出会いだったんだなと思いました。
石井頼子さんが、時々、涙ぐみながら解説されていた。

日本民藝館
ドーナツ食べた入所者死亡 准看護師に逆転無罪 東京高裁」(NHK)
大熊一之裁判長の人間味のある判決にホッとしました。
おやつなどの間食を含めて食事は人の健康や身体活動を維持するためだけでなく、精神的な満足感や安らぎを得るために重要だ。身体的なリスクに応じて幅広くさまざまな食べ物を取ることは、人にとって必要だ
という言葉、病院や施設などでは、患者や入所者の食べる意欲よりも安全が優先されているように思います。
母が入院していた時に、食事指導をしてくださった言語療法士の方が、少しでも普通食に戻してあげようと努力されていました。

Twitterを見ていて石原慎太郎氏がALSを「業病(ごうびょう)」だと…。
かりにも作家として活躍されていた方が
ALSを「悪業(あくごう)の報いでかかると考えられていた難病」(広辞苑第6版)と決めつけるなんて…
7月29日
 結城合戦(ゆうきかっせん)で上杉清方(きよかた)が結城城を囲んだ。 1440(永享<えいきょう>12)年
 
 永享の乱で敗れた鎌倉公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)は、1439年自殺した。
しかし安王(やすおう)・春王(はるおう)の二人の子どもは日光山に逃れ、翌年3月下総(しもうさ)の結城氏朝(うじとも)を頼って結城城に入った。
氏朝は安王のの名で各地の武士に参陣を求め、反幕府・反上杉の兵を挙げた。
宇都宮・小山・佐竹・今川などの有力な国人(こくじん)や守護の一族のなかにもこれに応じて馳(は)せ参じるものが少なくなかった。
一方、関東管領(かんれい)は幕府の命をうけて攻撃軍を編成し、総大将上杉清方がこの日、結城に到着した。
清方が城を攻めおとすまでには長い時間がかかり、結城合戦は関東をゆりうごかした。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
室町人の精神 日本の歴史12』よりこの時代のことを紹介したいと思いますφ(..)
(「はじめに――室町亭のもののけ」より)
(前略)
 室町亭のもののけといえば、義教の嫡男(ちゃくなん)で義政の兄にあたる七代将軍義勝(よしかつ)の死がやはり彼らのしわざと信じられていたことも触れておく必要があろう。
義勝はわずか10歳で世を去ったたために、19歳で父義持に先だった五代将軍義量とともに歴史的に影の薄い存在になっているが、当時の人びとは、義勝の死を幕府によって抹殺された足利持氏・一色義貫・赤松満祐(あかまつみつすけ)らの祟(たた)りと解釈したのである。
義勝の死の直前、幕府が室町亭に霊媒師(れいばいし)を招いて口寄せをおこなったところ、一色義貫の霊は「のびのびになっている一色家の相続を早く実現せよ」と語り、赤松満祐の霊は「孫を召し出して赤松家を相続させよ」と語ったという。
(『室町人の精神 日本の歴史12』桜井英治 講談社学術文庫 2009年)
 けれども彼らが発したこれらの言葉は、現代を生きる私たちにとっては少々意外なものであろう。
怨霊(おんりょう)たちにとっては殺された恨みよりも、家が存続するか否かのほうがはるかに大きな関心事だったのである。
このような彼らの価値観をふまえておかないと、彼らの痛みを本当に理解できたことにならない。
彼らが死んだのちまでこだわりつづけた家とは何か、そのことを念頭においたうえで、さっそく室町時代の歴史をひもといてゆくことにしよう。
(後略)
第三章 「無為(ぶい)」と「外聞(がいぶん)
  一色義貫・土岐持頼の謀殺
 翌1440年(永享12)3月、下総(しもうさ)の結城氏朝(ゆうきうじとも)が足利持氏(もちうじ)の遺児安王丸(やすおうまる)・春王丸(はるおうまる)を擁して挙兵した。
結城合戦のはじまりである。
義教(よしのり)はただちに幕府軍を関東に派遣したが、その直後、義教は突如一色義貫(いっしきよしつら)と土岐持頼(ときもちより)の両人を大和の陣中に謀殺した。
一色義貫は持氏の残党を分国三河にかくまった罪を問われたものだが、一方の土岐持頼については誅殺の理由がいまひとつ明らかでない。
二人とも義教政権に尽くした功労者であったが、政治家というよりは軍人であり、古武士としての頑固さゆえに義教ともたびたび衝突をくりかえしていた。
義貫の供奉ボイコット事件については前に触れたが、持頼も1428年(正長元)に伊勢守護に再任されて以来、国内の寺社本所領や奉公衆所領を押領し、再三にわたる義教の返付命令にも応じなかったため、義教から危険分子と目されていた。
 一色義貫は武田信栄(たけだのぶよし)に朝食に招待されたところを信栄によって謀殺され、翌日には京都の義貫亭を義貫の甥(おい)一色教親(のりちか)が襲った。
一色義貫の遺領のうち丹後は一色教親に、若狭は武田信栄に、三河は細川持常(ほそかわもちつね)にそれぞれ与えられたが、信栄は義貫勢との戦闘の際にうけた傷がもとで同年7月に死去している。
また土岐持頼は伊勢国人長野氏によって討たれたが、『応仁略記(おうにんりゃっき)』によれば、「見物せよと云うままに腹十文字に懸切(かっき)り、腸を巻き出し、敵の方四方へ投げ散らし、その後陣屋に火懸けよと下知して剣を口の中に含み、うつぶしざまに成りて死にけり」という壮絶な死であったといわれる。
持頼の遺領である伊勢半国も一色教親に与えられたが、謀殺にかかわった武田信栄・細川持常・一色教親はいずれも義教の近習(きんじゅ)である。
有力守護を滅ぼし、近習を新たに守護に取り立てていこうとする義教の意図が白日のもとにさらされた事件であった。
 同年6月、篠川御所足利満直(ささがわごしょ あしかがみつなお)が結城氏朝と結んだ石川持光によって滅ぼされ、7月には上杉清方・持房・教朝が結城城を囲んだ。
翌41年2月には年号が永享から嘉吉(かきつ)に改まり、3月には熊野からはるか日向(ひゅうが)に逃れていた大覚寺義昭(ぎしょう)が島津貴久に攻められ自殺した。
4月には結城城が陥落して結城氏朝・持朝父子が敗死し、捕縛された足利安王丸・春王丸兄弟も同年5月、京都へ護送される途中、美濃垂井(たるい)で斬殺された。
義教のもとには連日のように東西から首級が届けられ、京都は戦勝ムードい沸いたが、その間にも義教の守護弾圧は続けられた。
正月には畠山満家の嫡子持国が関東への出陣を拒否して、弟の持永が畠山家の惣領となり、6月にも加賀守護富樫教家(とがしのりいえ)が上意に背いて出奔し、醍醐寺三宝院の稚児(ちご)であった弟の泰高(やすたか)が還俗して家督を継いだ。
嘉吉の変がおきたのはその直後、6月24日のことである。
(『室町人の精神 日本の歴史12』桜井英治 講談社学術文庫 2009年)
 『日本の歴史22 大日本帝国の試練』より岩崎弥之助について転記しますφ(..)
藩閥・政党・政商
  政治の舞台廻し


 以上、政権の交代と政党の出入りとをゴタゴタと書いたのは、日清戦争後の政界に、二、三注目すべき現象が現われてきたことを見よとしたからである。
その一つは、舞台裏で糸をひく政商の役割が大きくなり、ときに舞台の面にまで姿をだすようになったことである。
もともと政商といわれる明治の実業家たちは、藩閥政府と結びつき、その手あつい保護によって資本を蓄積し、そのリベートとして藩閥になにがしかの献金をしてきたので、みずからが政治の舞台廻しになるようなことはなかった。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
 ところが、日清戦争後になると事情は変わってきた。
岩崎=三菱が舞台にチラチラ現われるのである。
いうまでもなく、岩崎は日本の海運業を独占し、明治7年の台湾征討や、10年の西南戦争にあたり、大久保や大隈の後楯で官軍の兵員・軍需品輸送を一手にひきうけ、大いにもうけるとともに、そのたびに船舶を増加して独占の基礎を固めていき、その財力をもって高島炭鉱や長崎造船所を経営し、また海運業の安全をはかるため東京海上保険をその支配下に収めもした。
さらに日清戦争前後には、筑豊炭田に進出するとともに、九州の鉄道を手に入れ、石炭輸送の実権をにぎるにいたった。
こうして三菱は日清戦争前後には、押しも押されもせぬ大政商となったのである。
 このような日本の全経済界における実力を背景として、明治22年には、三菱の大番頭川田小一郎(かわだこういちろう)が松方蔵相の懇請で日本銀行総裁となり、7年間日本の金融界に君臨した。
かれらの勢力は大蔵大臣をもしのぎ、頑固な点では当時有名だった渡辺国武(わたなべくにたけ)蔵相にたいしてさえ、「用があるならそちらからこい」といった、と伝えられるほどである。
 29年秋、川田が死んで、後任としてポストに坐ったのは、弥太郎の長男久弥に三菱社長の椅子をゆずって第一線を退いていた岩崎弥之助であった。
この弥之助が大いに力を入れたのは、改進党総裁となって以来あまりパッとしない大隈と藩閥政治家とのよりをもどして、もう一度大隈を政治の第一線に押し出すことであった。
弥之助は以前からの関係で、薩閥のリーダーである松方と結びつけようと画策し、この二人を京都で会談させ、提携に成功した。
松隈内閣が瓦解したとき伊藤が、「岩崎果して何等の感覚を抱持する呼」と書いたのは、このような関係にたいする長閥のリーダー伊藤の反撥を示している。
 ところで、これまで三菱と藩閥を結ぶパイプとなってきたのは、同じ土佐藩の後藤象二郎であった。
後藤の長女は弥之助の妻であるから、後藤は弥之助の義父に当たるわけである。
その後藤はハッタリもきき、術策にもたけていて、明治22年、みずから主唱者となって運動した民党の大同団結を置き去りにして黒田内閣に入閣して以来、三菱をバックにし、土佐閥の代表として藩閥政権の一角に地歩を占めてきたのである。
 明治30年に後藤が死ぬと、弥之助はいきおい自分で政治の舞台廻しをしなければならなくなった。
岩崎の名が政界にチラチラするようになるのは、このためである。
政治活動の面で弥之助を助けたのは、従兄弟(いとこ)の豊川良平(とよかわりょうへい)であった。
そもそもこの豊鵜川良平という名は、臣・徳・張・陳という日本・中国の英雄・智謀の名を集めてみずから作った姓名である。
慶應義塾の出で三菱銀行を主宰したが、金もあり、山気(やまけ)もあって、政界と財界とくに三菱とを結ぶ陰の演出者となった。
進歩党の幹事長役であった犬養毅(いぬかいつよし)とは慶応での同期生で、そんな関係から犬養や同じ進歩党の大石正巳(おおいしまさみ)のパトロンであった。
 日銀と三菱との二つに君臨する岩崎は、財界はもちろん、政界においてもきわめて大きな影響力をもったのである。
 このころ、三井は政治的にはまだ雌伏の時代であった。
23年の恐慌で三井銀行がガタガタになり、中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)が三井の顧問井上馨(いのうえかおる)のお声がかりで三井に入り、その改革に全力をあげ、むしろ藩閥との腐れ縁を切るほうに一生懸命であった。
三井としてその欠を補っていたのは、井上の三井への置土産(おきみやげ)であった三井物産であり、その社長益田孝(ますだたかし)であった。
益田は旧主人である井上とはもちろん、山縣や伊藤とも密接な接触をもっていた。
接触といえば、益田は小田原(おだわら)の自分の別荘の隣りに、山縣のために別荘古稀庵(こきあん)を作ってやったが、その古稀庵の隣りに女名前の吉田貞(よしださだ)という家があり、貞女は山懸の愛妾であった。
しかもその姉は益田の二号夫人であった。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試練』隅谷三喜男 中公文庫 改版2006年)
昨日、姪が休みだったので夕食を一緒に食べに行くことができました。
姪が看護師をしているので一緒に外食をするのは本当に久しぶり。
前日に連絡が来たときは、父が大喜びをしていました。
マスクをしている間は、話をしていたのですが、食べる時はマスクを外さないといけない…
で、ほとんど会話のない食事風景になりました。
入る時は気がつかなかったけど、妹が会計をしている間、何気に見ると
やってまっせ!感染防止対策」ステッカーが掲示されていました。
今、大阪は感染確認者が増えていっている。
油断すると一気に増加するやっかいなウイルスです。
一番問題なのは、大勢で声を出すことだと思う。
前から思っていたことを岩田健太郎さんが呟いていた

なるほど。
パチンコは高校生の時一度行ったきり、行ってないので不勉強でした。
雀荘も行ったことない。