2020年7月26日日曜日

あきらめていたけど…

予報を見ると今日も雨だったけど止んでくれた。
まだ咲かないのは
祇園祭の山鉾巡行がなくなったからかなと思っていたけど、これからかな?

京都の夏の風物詩・祇園祭を彩る「檜扇(ヒオウギ)」を今年は御自宅で!〟(京都市)
昨日は、雨、風ともにきつかったので諦めて
お盆のお供え用のお菓子を買いに行っていました。
父は、お盆の頃に帰省したかったのですが、
田舎の近くの与論島などで感染拡大がニュースになっていると諦めるしかない。
ここ数日、手紙を書いたり荷造りしているのを見て、
妹と「父のようにはできないなぁ」と話し合っています。

感染拡大で与論島に危機感」(鹿児島 NHK)
7月26日
 江戸日本橋に新田開発を奨励する高札が立った。 1722(享保<きょうほう>7)年

 この日、江戸日本橋の大高札(こうさつ)場に、つぎのような幕府の高札が立った。
 「諸国で新田(しんでん)になるようなところがあれば、領主や百姓とよく相談のうえ、くわしい絵図をそえて申し出よ。自分勝手の申し出はとりあげないぞ。」
享保改革のなかで徳川吉宗(よしむね)は、農民からいっそう多くの年貢をとりたてようとし、同時に、金持ちの町人の資金をあてにして、新田開発にのりだしたのである。
 これを知った信州米子(よねこ)村の商人竹前権兵衛(たけまえごんべえ)は、硫黄(いおう)でもうけた金を越後(えちご)国蒲原(かんばら)郡紫雲寺潟(しうんじがた)の干拓(かんたく)につぎこみ、2千ヘクタールの町人請負(うけおい)新田を作った。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
先人たちの底力 知恵泉「江戸の危機管理II」(前編)では、
徳川吉宗の疫病対策についてなるほどと思いながら見ていました。
無料の小石川養生所や、庶民のための医薬書などについて吉宗の功績ですね。


小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)」(東京都)

救民薬方(きゅうみんやくほう)」(国立国会図書館)

普救類方(ふきゅうるいほう)」(国立公文書館)
「暴れん坊将軍」や「赤ひげ」、「大岡越前」など時代劇でよく取り上げられています。

別の見方をすると農民への負担を重くしたとも言えるし、評価は見方によって変わってきます。
story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』と

日本の歴史6 江戸時代』より転記しますφ(..)
徳川吉宗(とくがわよしむね)
 吉宗の政治
 八代将軍徳川吉宗(1684~1751)は、享保(きょうほう)の改革を推進し赤字で苦しんでいた幕府財政を黒字にして財政再建に成功した自分物で、「幕府中興(ちゅうこう)の英主(えいしゅ)」と呼ばれ歴代将軍の中でも評価が高い。
(『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』日本史教育研究会 山川出版社 2001年)
 しかし、その評価は正しいのだろうか。
その政策を検討してみよう。
吉宗は改革をはじめるにあたり「諸事権現様定(しょじごんげんさまさだ)めの通り」と、家康を模範として政治を開始したという。
このような保守的立場をとった上で、具体的な政策を出したことを忘れてはならない。
吉宗の主な政策は次の通りである。
(一)文武の奨励・倹約令―消費支出の抑制、
(二)足高(たしだか)の制―幕府官僚体制の整備・人材の登用、
(三)上米(あげまい)の制―幕府の財政難救済、
(四)定免法(じょうめんほう)―年貢収納強化、
(五)新田開発―年貢増収、
(六)甘藷(かんしょ)などの栽培―飢饉対策、
(七)目安箱(めやすばこ)―庶民の意見聴取、
(八)株仲間の結成公認―商業統制、
(九)堂島(どうじま)の米市場―米価調整……。
その実態
 このように吉宗の政策は全体的にみて、発達してきた商品経済にブレーキをかけ、消費支出を減らし、農民からの収奪(しゅうだつ)=年貢の確保に主力を注ぐコースでであった。
中でも検見法(けみほう)から定免(じょうめん)法に年貢徴収方法をかえたことは、従来の検見法では毎年作物(さくもつ)の出来具合を役人が見分(けんぶん)して年貢率を定めることから、役人のサジ加減で決まることが多く、そこに役人と農民の不正が生まれやすく(事実、吉宗の頃には従来の代官が大量に更迭されている)、年貢収納高も一定せず、幕府の収入も不安定であったのが解消されるおちうメリットがあった。
しかし、これは農民たちを役人の不当な年貢徴収から守ることが狙いではなく、農民たちからできるだけ多くの年貢を徴収しようとする意図であったのは、当時の勘定奉行(かんじょうぶぎょう)神尾春央(かんおはるひで)が「胡麻(ごま)の油と百姓は搾(しぼ)れば搾るほど出る」といったという言葉からもわかる。
さらに吉宗時代に百姓一揆が増大している。
吉宗は彼の治世中(ちせいちゅう)、江戸時代最高の年貢収納高を達成したが、これは農民たちが幕府・封建領主たちから年貢を搾取(さくしゅ)され、困窮していったことを示している。
さらに、吉宗の頃から米価=物価ではなく、米価安(やす)の諸式(しょしき<諸物価>)高となり米価が物価の主役として機能せず、そのため米を売り現金にかえて生活している武士は、米価安になると生活に困窮することから、吉宗は米価の調整をする必要に迫られた。
そこで、大坂の堂島に米市場を設置するなど米価の調整に苦心したことから「米将軍(こめしょうぐん)」と呼ばれた。
こうして、武士に有利なように米価を高く調整した結果、西国の蝗(いなご)などによる飢饉で江戸へ廻す米不足もあり、江戸では米価が高騰し、米が手に入らなくなった江戸の下層町人たちは、1733(享保18)年、米を買い占めたとして高間屋伝兵衛(たかまやでんべえ)という米商人を襲う江戸で初めての打ちこわしが発生した。
さらに江戸時代、1600万ないし1800万人だった全国の人口は農業生産の増大とともに順調に増えつづけ、享保の改革の頃は約2600万人ほどになっていたが、この改革以降、人口は増加しなかったばかりか、年によっては2500万人に落ち込んでいる。
このように人口の停滞・減少の原因も吉宗の年貢増徴政策の結果ではないかと考えられる。
このように吉宗は、幕府側からみれば、幕府財政の再建に成功した「中興の英主」であったが、農民・庶民からみると全く違った評価がされる。
(『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』日本史教育研究会 山川出版社 2001年)
第3章 十八世紀の改革政治と社会
 1公儀政治の改革
   白石から吉宗政権へ

(前略)
 吉宗は、紀州藩主徳川光貞(みつさだ)の四男に生まれ、越前に3万石の所領を与えられたが、相次ぐ兄の死去で本家55万石を継ぎ、藩主として12年間、財政窮乏の解決をはかった。
将軍在位30年に及び、享保の改革を主導した。
吉宗は、政治・行財政改革を主導し、教養人ではなかったが、系統的に法的支配のための整備を行ない、民百姓の心を管理する教諭支配をめざした。
また、倹約と米価対策に熱中したので野暮(やぼ)将軍・米(こめ)将軍と渾名(あだな)された。
それらは、吉宗の聡明さからというより、厚みを増して内部に矛盾を蓄積し、ますます複雑な対立を抱え込みつつある民間社会に応(こた)える政治意欲がもたらしたものであった。
(『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己 岩波ジュニア新書336 2000年)
 吉宗は、江戸城評定所の脇に目安箱を設けた。
民間の直訴を募(つの)るのは、捨文(すてぶみ)の横行を防ぐためだと高札(こうさつ)に明記し、「直訴すべき事」として、政治上の提言、役人の私曲非分(しきょくひぶん)、訴訟の遅滞、の三つをあげた。
また清(しん)朝の教諭書『六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)』を出版したが、六諭とは父母に孝行、長上(ちょうじょう)を尊敬、郷里の和睦、子孫を教訓、生命を運用、非違(ひい)の停止であった。
当時、これらを踏み躙(にじ)る事実が増えていたことが、六諭奨励の契機になったにちがいない。
 『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』は、公儀が初めて編纂した判例集で、「御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう)」とも呼ばれた。
御定書は新法の制定ではなかったが、改革を反映して享保期の法令が多かった。
裁判の促進、追放刑の制限、残酷な刑罰の緩和、縁坐(えんざ)や拷問(ごうもん)の制限、時効の制定など、司法にも文治化が進んだ。
田畑永代売買・質地(しっち)・借金銀などの規則が多いのは、社会での金融・信用取引が煩雑化し、質地地主の成長による土地集積で農地の変動が進んだためであった。
いずれも、正負両面はあったが、民間社会の活力に対応しようとする政治の表現であった。
大岡忠相(おおおかただすけ)と田中休愚(たなかきゅうぐ)
 『公事方御定書』編纂は、初め江戸町奉行の大岡忠相が担当した。
吉宗政権は、初めて本格的に人材登用を行なった。
家制度のもとでは、多くの武士が日の目を見ずに生涯を終えた。
大岡政談で有名な大岡忠相は、大身旗本の四男で番士から順調に昇進し、伊勢の山田奉行を勤め、吉宗によって、江戸町奉行に登用された。
忠相は、裁判審理の促進と公正化で成果をあげ、膨張した江戸の防火のため、町火消「いろは組」を結成させ、屋根を瓦葺にすることを奨(すす)め、火除地(ひよけち)を設け、医療では小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)を設けた。
 さらに、地方御用掛(じかたごようがかり)を兼任し、本来の担当の勘定所と対立しつつ、関東の各地で開発や治水工事を展開した。
農政では、地方巧者の評判を取った田中休愚、蓑正高(みのまさたか)、川崎定孝(かわさきさだたか)らを抜擢(ばってき)して率いたが、他にも国学者加藤枝直(かとうえなお)、救荒作物として甘藷(かんしょ)を薦めた蘭学者青木昆陽(あおきこんよう)、数学者野田文蔵(のだぶんぞう)ら、多方面の識者を配下に抱え、政治に生かそうとした。
 田中休愚は、武蔵国多摩郡の諸稼(しょかせ)ぎ農家の子で、絹織物の行商をしていたが、東海道川崎宿本陣田中家の養子に迎えられた。
宿名主・問屋役を兼ね、六郷川(ろくごうがわ)の渡船権を許され、疲弊した宿財政を立直した。
1721(享保6)年、鋭い時勢批判を展開し、百姓15人・商人10人を公儀の会議に出席させ諮問(しもん)すべきだという民政献言をふくんだ『民間省要(みんかんせいよう)』をまとめ、師の成島錦江(なるしまきんこう)の仲介で、大岡忠相を通じて吉宗に献上した。
これを機縁に公儀の川方普請御用を命じられ、荒川・多摩川の治水、二ヶ領(にかりょう)・大丸(だいまる)用水の改修を行ない、相州酒匂川(さかわがわ)の治水では「文命堤(ぶんめいてい)」を築いた。
晩年、大岡配下で3万石の御料代官を勤めた。
 上下の板挟みになる社会的中間層の休愚の怒りは、民間社会の病症と無力で腐敗した政治に対して向けられた。
法と機構を重視する官僚制的な統治が深まると、今度は役人と商人の癒着や腐敗が生まれた。
休愚は、無計画な過剰開発を批判し、小作農増加によって起こる難問を検討した。
そして小作人の中に土地持ち百姓より能力のまさる者がいると指摘し、経営者の能力を十分発揮させるためには、年貢を固定する定免制(じょうめんせい)がよいと主張した。
(『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己 岩波ジュニア新書336 2000年)
あれから4年経ちました。
そして
岩永直子さんのTwitter

相模原事件から4年。
事件後も人の命を選別する言葉が公に語られ、SNSで共有されることがとても気になっていました。

自身の病と言葉を見つめてきた詩人、岩崎航さんに今私たちはどんな言葉が必要か聞きました。
京都の事件についても急遽追加で伺いました。


命を選別する言葉にどう抗うか 詩人の岩崎航さん「私たちには今、人を生かす言葉が必要」〟(BuzzFeed)