2020年7月24日金曜日

スポーツの日だけど…

今日は「スポーツの日」。
私の世代は10月10日の「体育の日」がしっくりするのではないかな?
来年、オリンピックが開催されたら、スポーツの日は7月24日か7月の第?月曜日に変更されるのかな?
真夏に運動会などは危険だけどなぁ…
体育の日
 国民の祝日の一つで、10月の第2月曜日。
「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」日として、昭和41(1966)年に、「国民の祝日に関する法律」によって定められた。
昭和39(1964)年10月10日に第18回オリンピック東京大会が開会されたことを記念したもので、制定当初は10月10日であったが、平成12(2000)年から第2月曜日となった。
毎年このころは全国各地で運動会や体育競技が開催されている。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
昨日のニュースを見ながら考え続けています。

在宅ケア医「プロセスが欠落」〟(関西NHK)の中で

「あんなになってまで旅行したいのかな」と通りすがりの人が話すのを耳にしたという出来事を打ち明けました。

このような言葉が出てくる人がいるから、今回のことも「安楽死」だと支持する人がいるのだと思し、
「津久井やまゆり園」事件も起きるのだと思う。
今回のことをニュースで見るかぎり安楽死や尊厳死と思えない。

私の場合は、心臓の上半分(左右心房)が壊死している。
それでも生きている、生かされていることに感謝しながら日々生活しています。
このことを読んだ方の中には、ALSや末期ガンなどの苦痛とは違うと思う方がいると思います。
舩後靖彦議員が見解を発表しています。

事件の報道を受けての見解」(舩後靖彦 official site)

「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。
7月24日
 芥川龍之介が自殺した。 1927(昭和2)年

 作家芥川龍之介はこの日の早朝、東京郊外の自宅で多量の睡眠薬を飲んで自殺した。
35歳の若さであった。
自殺の動機は「ぼんやりした不安」であると遺書には記されていた。
学生時代に『羅生門(らしょうもん)』を発表して夏目漱石の絶賛をうけ、文壇にはなやかにデビューした芥川は、その後『鼻』や『芋粥(いもがゆ)』など、とぎすまされた知性で人間の心理を解剖した傑作をつぎつぎと発表した。
しかし、死の数年前からはノイローゼになやまされて眠れない夜がつづいた。
「ぼんやりした不安」とは、長びく不景気と社会主義運動の台頭という社会の変動に対応できない芥川のあせりと絶望だと言われる。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
岩波文庫『河童 他二篇』の解説を吉田精一氏が書いておられます。
他二篇としておさめられている「三つの窓」の解説部分を転記しますφ(..)
(「解 説」 吉田精一)
(前略)

 「三つの窓」(昭和2年7月『改造』)は、彼が生前発表した最後の短篇である。
海軍機関学校の教官時代の経験を生かした作品で、「1 鼠」と「2 三人」とでは軍人気質とでもいうべきものが鮮明に描かれている。
「快活で、透明な(略)彼の初期にあったような若々しさと健康をそなえその作の中に感じられた」(広津和郎)と、発表当時は見られた出来栄(できば)えであった。
(『河童 他二篇』芥川竜之介 岩波文庫 2003年改版)
 それでも、「2 三人」には、戦争で死んだ軍楽手と、砲身にまたがり、波にさらわれた水兵と、自尊心のために自殺した下士との三つの死を扱っている。
明るい外貌(がいぼう)の中に、彼の心にわだかまっているものを包んでいたわけである。
 とりわけ結尾の「3 一等戦闘艦××」は、自身の発狂をおそれていた彼が、友人の宇野浩二(うのこうじ)の発狂によってひきおこされるショックをモチイフにしている。
宇野は五月末に発病したようである。
彼は「或阿呆(あるあほう)の一生」の中で、
  彼の友だちの一人は発狂した。彼はこの友だちにいつも或(ある)親しみを感じていた。それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為(ため)だった。彼はこの友だちの発狂した後(のち)、二三度はこの友だちを訪問した。
  「君や僕は悪鬼(あくき)につかれているんだね。世紀末の悪鬼と言うやつにねえ。」
  この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりした。が、それから二三日後には或温泉宿へ出かける途中、薔薇(ばら)の花さえ食っていたと言うことだった。彼はこの友だちの入院した後、いつか彼のこの友だちに贈(おく)ったテラコッタの半身像を思い出した。それはこの友だちの愛した「検察官」の作者の半身像だった。彼はゴオゴリイも狂死したのを思い、何か彼らを支配している力を感じずにはいられなかった。(五十、俘<とりこ>
と書いている。
宇野は一見精神に異常がありそうでなく、意識もはっきりしていて、記憶も明瞭だった。
ただ急に前後の連絡がなくなるのであった。
この友人の姿を見ている彼は、間もなく自分を襲って来る運命を、目の前に見たように感じたであろう。
 宇野浩二の「芥川竜之介」では、6月上旬のある晩、芥川を尋ねた時の会話を次のように記している。
  「君の『軍港行進曲』の向うを張った訳ではないが、横須賀(よこすか)を題材にした小説を書いたんだ。……妙な小説だけど、これは、ちょいと自信があるんだがね……」
  「長いもの」と、私は、ちょっと息をはずまして、聞いた。
  「いや、二十五枚だが、君の『軍港』のような勢いはないけど、……僕のは、二万噸(トン)の一等戦闘艦が舞台だ。……が結局、しまいに、その戦闘艦を人間にしてしまうのが、『味噌(みそ)』なんだけど、……」と言って、言ってしまってから、なぜか、芥川は急に、侘(わび)しそうな顔をした。
 それ以上の説明は不要であろう。
滅びる運命を持っている一等戦闘艦の××は、とりも直さず芥川竜之介自身であり、××の友だちである一万二千噸の△△、火薬庫に火のはいったため、突然爆声をあげて、なかば海中に横になった△△が、宇野浩二であることに疑いはあるまい。
 彼は宇野に対して、××が△△をはげますように、最後まで親切であった。
宇野は斎藤茂吉の世話で滝野川の病院に入院したが、斎藤に宇野を紹介したのは芥川であった。
のみならず、自殺する二日前、彼は宇野の留守宅をたずねて、浴衣(ゆかた)と菓子を宇野にとどけてくれるようにと、宇野の妻にたのんだ。
 その時彼は宇野の手紙を読んできかせたりして、涙ぐんでいた。
宇野の回復の近きにあることなどを語り、そして「あの病気は恢復(かいふく)期が非常に危険で、そういう時節には、厭世(えんせい)的になって、時によると自殺などする恐れがあるそうですから、どうぞくれぐれもお気をつけになって」とも語ったそうである。(広津和郎<ひろつかずお>「梅雨近き頃」)
 彼は実に自分の自殺の二日前に、友人の自殺を、その妻に向かって警戒したのであった。
(『河童 他二篇』芥川竜之介 岩波文庫 2003年改版)
今朝の父の一枚です(^^)v
イチジクの実が可愛かったそうです。
いつも完熟する前に来園者が摘み取っています。
マナーの悪い人がいます。
野鳥や虫たちにあげたらいいのにといつも思う。