2020年7月27日月曜日

不安定な天気…

予報では雨だったけど、クマゼミの合唱が耳鳴りのように響いていました。
8年前に公園を散歩するまでクマゼミの合唱がこんなに迫力があると知らなかった…
は第1回目の放送だった。
この時にヤブカンゾウが美味しいことを知りました。
でも、写真には撮りますが、お花は取りません(^_-)
再放送は、8月1日(土)午前5:30~
マラリアの重症化 仕組みを解明」(関西 NHK)
父は、戦後、南方からの復員兵がマラリアを持ち込んで感染した辛い思い出があります。
再放送ですが、
サイエンスZERO「挑戦者たち! 新型ワクチン開発で世界を救え
を一緒に見ていた父が感動していました。
年間約40~50万人も亡くっているマラリアは、日本では感染拡大が起きないと思われがちですが…
七 マラリア(おこり)の蔓延(まんえん)
 古来、マラリアを「瘧疾(ぎゃくしつ)」「わらはやみ」「えみや」「おこり」と呼んでいたが、江戸時代には「おこり」が通称となり、その症状が川柳に詠まれたり、歌舞伎で演じられているように、ごくありふれた病であったのだ。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
 マラリアは突然、激しい震えに襲われ、40度前後の高熱が4、5時間続いたあと、唐突に平熱に戻り、二日後あるいは三日後に再び熱発作をおこす病である。
 マラリアをおこす原虫プラスモジウムの中には、人に感染するものが4種類あるが、それぞれ熱発作の現れ方が違う。
1回目の発熱から2度目の発熱までの間隔が不定のものと、一日半から二日、三日目と決まっているものとがある。
不定なものを熱帯熱といい、その他を発熱の間隔によって三日熱あるいは卵型熱、四日熱という。
熱帯熱は悪政化しやすい。
 江戸時代に日本で流行していたものは、三日熱や四日熱が多く、急に悪化することはなかった。
しかし、それ以前には悪寒戦慄(せんりつ)、発熱が連日続いて、体力を消耗して、衰弱して死ぬ例が多かった。
 昭和になってからも地方にマラリアが発生し、終戦直後にはGHQの指導によってマラリア撲滅運動が大々的に繰り広げられたのであった。
 また、太平洋戦争では多くの兵士が東南アジアでマラリアのために戦病死した。
日米戦ではマラリア治療薬の供給が十分であったアメリカが圧勝し、抗マラリア剤の供給路を断たれた日本軍は戦う前にマラリアなど地方病に惨敗したのであった。
 戦後、南方からの帰還兵の間にマラリアやアメーバ赤痢の患者が多くいた。
彼らのマラリアは、その後、慢性化して、再三発作をおこして苦しみ、なかなか戦争の傷を癒すことができなかった。
しかし、現代の若い日本人にとって、マラリアは昔話になってしまった。
 だが、現代の世界人口の半数がマラリアの流行地に住んでいる。
その中の1億人以上がマラリアに病んでいる。
アフリカでは乳幼児の死亡原因の第1位がマラリアであり、怖い病気である。
 日本人にとっても、マラリア流行地に住んだり、旅行することで輸入伝染病としてマラリアが再び注目されている。
 マラリアに近代医学の成果が見られるようになったのは、19世紀に入ってからであった。
1880年にフランス軍軍医ラヴェランがアルジェリアに赴任中、マラリア患者の血液中にプラスモジウムという原虫を発見、血液中の寄生虫が原因であると発表し、1907年のノーベル賞生理学医学賞を受賞したのである。
(『病が語る日本史』酒井シヅ 講談社学術文庫 2008年)
7月27日
 日根野荘(ひねのしょう)の農民が守護方の百姓召捕(めしと)りに抗議した。 1503(文亀<ぶんき>3)年

 和泉国の日根野荘(大阪府泉佐野<いずみさの>市)に属する入山田(いりやまだ)村の農民6人が、付近の佐野市(さのいち)にでかけたところ、理不尽(りふじん)にも守護方に召捕られてしまったのは7月12日のことであった。
 入山田村では大さわぎになり、当時この地に下ってきていた荘園領主の九条政基(くじょうまさもと)に頼んで、堺にいる和泉の守護にも抗議の手紙を出してもらった。
だがなかなか解決しない。
この日入山田村は、守護方についている地元の国人(こくじん)日根野氏にも抗議と嘆願の手紙を出した。
守護の荘園侵略がはげしかったことからこの事件は起こった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
もう30年以上前になるかな?
一度、仲間の職場がある日根野を訪ねたことがあります。
当時、田園が広がっていていい所だなと思った記憶があります。
まさか、ふるさと納税で注目をあつめるような町だと思わなかった。
当時は、別の市長さんだったけど

林景一裁判官は補足意見で、泉佐野市勝訴の結論に「居心地の悪さを覚える」とストレートに心情を吐露するほど (毎日新聞 2020年6月30日
村の姿
 六斎市


 ここで、農民の経済生活に欠くことのできない六斎市(ろくさいいち)にふれておこう。
 大永4年(1524)4月、三条西実隆(さんじょうにしさねたか)は高野山に参詣した。
かれはそのとき往復とも泉州の佐野を通った。
往路の4月22日、かれは佐野で輿(こし)をやすめて、市人がにぎやかに活動しているのをみて

  いづみなる佐野の市人(いちびと)たちさわぎこのわたりには家もありけり

と詠んでいる。
歌そのものはとりたてていうことはないが、22日という二の日に、佐野の市がにぎわっているという点は、見のがすことはできない。
(『日本の歴史 11戦国大名』杉山博 中公バックス 1971年)
 あるとき、入山田村の百姓3人が守護方のものに佐野で捕えられたが、その中の一人が血にそまったまま逃げ帰ってくる事件があった。
大木の百姓らは報復のために「佐野に放火して、守護領のものを人質に取ってこよう」と蜂起したけれども、政基はとても大勢の守護方には勝味がないと村人らのはやる心をおさえたという。
この日の記事の中で政基が「きょう佐野市なり。二、七日に立つなり」と注記しているのをみても、佐野の市が二の日と七の日に立つ、月6回の六斎市であったことがわかる。
 では、なぜ市の立つ日に争乱がおこるのか。
入山田村は、まえにも述べたように田地が少なく、紺灰座(こんはいざ)にみられるように商工業に生活のよりどころを求めたので、村人は佐野の市に出かけざるをえなかった。
ところがこのころ、日根野荘には守護勢力が侵入しており、とくに地味ゆたかな日根野村西方をめぐって争いがたえなかった。
文亀3年(1503)にも、入山田村の百姓5人が佐野の市で守護方に捕えられた。
召捕ったその張本は、なんと日根野村の日根野光盛(みつもり)であった。
かれは守護勢力をかりて日根野村西方を押さえようとして、入山田村の百姓を人質に、荘園領主の九条家と対抗してたのである。
 本来ならば、村人や町衆の交歓の場であるべき市場が、戦国のさなかにあっては、このように争乱と無縁ではありえなかった。
しかし正月ともなれば、佐野では傀儡(くぐつ<あやつり人形>)師がきて人形をまわした。
佐野の町は人々であふれ、守護方の武士も桟敷(さじき)をこしらえて見物するありさまであった。
また佐野は大阪湾の海岸にある港町であったから、市の立つ日には新鮮な魚類がたくさん並べられた。
 さて六斎市は、永禄・元亀・天正の16世紀後半以降、とくに武田・上杉・後北条氏の領国下で、急速に発達する。
史料の残存状況によって、六斎市の研究は、もっぱらこの三つの戦国大名の領国内の場合について述べられている。
そのため六斎市は、まるで東国の戦国大名の特殊な経済現象のように思われがちであった。
 しかし政基の記事でも明らかなように、佐野が二と七の日の六斎市であったことは、この周辺に、さらに一と六、三と八、四と九、五と十の、ほかの市日の市場があったことをじゅうぶん考えさせる。
 おそらく日根郡という領域が、その一つの六斎市場圏であったのではあるまいか。
 泉南地方の北には商業のさかんな堺があって、商品流通・貨幣経済の波が、辺鄙な日根野荘にまでおよんでいたのではあるまいか。
それが二、七の佐野の市を生み、政基への貢租の銭納化をも招来していたのであろう。
(『日本の歴史 11戦国大名』杉山博 中公バックス 1971年)
今朝の父の一枚です(^^)v
昨日の雨でカンナがうなだれていたけど、
傘代わりの葉のおかげで元気な子たちがいました(^^♪

午後から、父が注文していた本が届いたので本屋さんに行ってきました。
店員さんと「なかなか梅雨があけませんね…」と話した後、
「コロナも明けませんね」と…

令和2年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)」(気象庁)