2020年7月21日火曜日

ジーっとしていても…

今朝起きたら寝汗でシャツがビッショリ…
ジーっとしていても汗が出る蒸し暑さだから少しでも歩かないとp(^^)q
リハビリ仲間の方は、公園に着いた時に帰られるところでした。
暑くなったので早めにリハビリに来ておられます。

数日前から蕾が膨らんでいたナツズイセン(ヒガンバナ科)が咲き出しました。
前から都知事の注意喚起の仕方に違和感を感じていました。
発言するのに勇気がいったと思います。

日本水商売協会「ひとくくりにして批判せず本質的な解決を」〟(NHK)
日曜美術館「蔵出し!西洋絵画傑作15選(3)
今回も素敵でした。
ひまわりは、「西洋では、『愛』の象徴とされてきました。」
ゴッホの「ひまわり」を見る忌野清志郎さんがガラスケースにもう顔がつくくらいに見入っていた。
また、「ゲルニカ」について大林宣彦さんが学生たちに語りかけていました。
今日は、

万葉人も江戸人も食べた鰻は夏バテの特効薬

 梅雨も明け、やっと夏本番という感じがする7月末。
しかし暦上では早くも夏は終わりを迎えようとしています。
日本の四季の考え方は、中国の陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)に影響を受けているため、立春、立夏、立秋、立冬の前の18日間を、季節の移行期と考え、それを「土用(どよう)」と名づけました。
(『和ごよみで楽しむ四季暮らし』岩崎眞美子 学研プラス 2009年)
 なかでも夏の土用が特に有名になったのは、やはり「土用の丑(うし)の日」の影響が大きいようです。
この日に鰻を食べると夏バテしないとうのは、江戸時代、エレキテルで有名な平賀源内(ひらがげんない)が、鰻屋さんに頼まれて考えたキャッチ・コピーだったというのは有名な話です。
ビタミンB1を多く含み、滋養強壮に優れた鰻は古代から優れた薬用食として重宝されていました。
万葉集にも「石麻呂(いわまろ)に吾(あれ)もの申す夏やせによしといふ物そむなぎ取り食(め)せ」という大伴家持(おおとものやかもち)の歌が残されています。
ひどく痩せた男にむかって夏痩せには鰻がよいぞとからかい半分に勧めた歌です。
この当時からすでに夏の食欲減退には鰻がよいとう認識があったわけですね。
夏バテの体には脂(あぶら)たっぷりの鰻は重すぎる、という人は、ひつまぶしがおすすめです。
(『和ごよみで楽しむ四季暮らし』岩崎眞美子 学研プラス 2009年)
   土用の鰻

 土用の丑というので鰻がスーパーの棚にいっぱい並んでいた。
土用は立秋の前18日間、これを暑中といい、暑中見舞いを書き、暑いので商売を休むところもある。
立秋は8月8日なので、土用は7月後半にある。
ようやく梅雨があけ、本や着物を干すのが土用干し。
そして暑さ負けせぬようニンニクや鰻を食べる。
ほかに土用波などともいう。
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)
 明治24年7月20日、「今日は土用の入とぞいふ。土用三郎とかや、この三日のほどの天気は作物にいといたくかゝる所ありとて、人々空をあふぎて思ひわづらふに、朝よりかきくらし打くもりて、ひる過るころより少しこぼれ来ぬ」。
 土用に入って三日目の天気は作物の生育に大影響があると、町なかの人まで気にしていたようである。
日照りは困る。
やっと少し雨が来て、ひんやりした風も吹き、すごしよかった。
 ところで、鰻は一葉一家にとってご馳走だった。
24年9月7日、母たきは浅草の三枝新三郎宅へ借金に赴き、三十円借りることができた。
このとき三枝夫人に「いといたうやせのみゆるに鰻とらん、くひ給へ」といわれご馳走になったことが見えている。
しかし上首尾に気をよくしたたきは翌日、神田小柳町の知人が赤ん坊を抱え困っているというので、見舞いに行き、借りたばかりの金を貸してしまった。
このように明治の人間はまだ「愚かさという美徳」を持ち、苦しいときは相身互いだったようである。
また26年2月5日、母たきが水天宮に参詣した帰り、佐藤梅吉に鰻をご馳走になったことも日記に見える。
 まだまだ鰻の記述はつづく。
 明治27年7月20日、「土用の入なればとて蒲焼を芳太郎おごる」。
 明治28年5月22日、この日、西村釧之助が相場で二十円利益があった。
これで伊勢屋の質草を出しなさい、と喜色満面だった。
西村は樋口家と親戚づきあいをしており、明治24年に小石川表町に紙や文房具を扱る礫川堂(れきせんどう)を開いている。
直前には借金のことで樋口家と行きちがいがあったが、この日は一葉も大いに喜んだ。
「一同にうなぎの馳走をなす」。
26日にも孤蝶、禿木、眉山が来たので、「うなぎ取よせなどして人々にまいらす」。
 丸山福山町の家は守喜という鰻屋の離れ座敷、そこから取ったものだろう。
 西村釧之助はくにとの縁談を望んだが断られ、いったん妻を迎えるが本意ではなかった。
一葉の死後、一時、くにを預かったが、くにに子が出来たため責任をとり、吉江政次との結婚を仲介して、二人に礫川堂を譲った。
なつ、くに姉妹に魅きつけられ、親身に世話をした男の一人といえよう。
付けくわえれば、姉一葉の死後、日ならずして母たきも喪(うしな)ったくには姉の遺作と遺物を守り、大正15年、52歳まで生きた。 
(『一葉の四季』森まゆみ 岩波新書 2001年)
今朝の父の一枚です(^^)v
蓮の花も日差しがきついと日傘をさしていました。

午後から散髪に行き、父に頼まれた送金をコンビニでして、買い物をしてから帰ってきた。
血圧を測ると、不整脈が出ていました。
歩いた歩数は3000歩ほどだったけど、
30度を超える暑さの中をマスクをして町中を歩くのはかなり負担になったようです。
そのまましばらく横になっていました。
夕食は、父と妹と三人で外食。
何にしようかと迷ったけど、せっかくなので柳川風鰻の卵とじ丼にしました。
おかげで少し元気を取り戻しましたp(^^)q