2020年7月13日月曜日

小雨だったけど…

歩き始めは、小雨だったのですが、帰る頃には本降りとなっていました。
まるで人工的に植えたようにサークルを作っているのは…
キノコなんですが、素人は手に取らないほうがいいと思う。

毒キノコの食中毒に注意」(大阪市)

毒キノコに要注意」(厚生労働省)
ETV特集「ひなたの氷 九二歳、桜守の遺言
ナレーションがないので佐野藤右衛門さんの言葉が心に沁みました。
取材した女性にまるで孫娘のように接していたような感じを受けました。
恵梨子さんは、桜に自分の名前を付けてもらって幸せだっただろうな(*´▽`*)

佐野さんが、よく口にする言葉が「異常」
地球温暖化が言われて久しいのですが、
今までは肌で感じていたけど、この頃は、目に見えるほどなっていると…
ひなたの氷」ってなんだと思います(^_-)
こころの時代~宗教・人生~「今 互いに抱き合うこと―コロナ禍に読む聖書―
北九州市にある東八幡キリスト教会牧師・奥田知志さんの言葉。
コロナの時代に聖書は大きな導きを示してくれているのだと思う。
奥田さんの話の前半を抜粋して紹介したいと思います。
文字だけでなく、奥田さんの肉声を見逃し配信(7月19日まで)や、
再放送(7月18日午後1時から)でお聞きください。
心が病みだしてる私たちの中の。
大丈夫か?俺たち。
コロナウイルスにうつってなくっても私たちは、もう、半分、病人になってんじゃないか。
どっかで何かを恐れながら、どっかで他人を疑いながら
どっかでマスクしてない人を「非常識だ。あいつが犯人かもしれない」っていう。
現代は、手を洗うということで、ある意味、関係を断ち切るっていうメンタリティーに今、つながろうとしてしまってる。
分断の社会になろうとしている。
実はですね、聖書を見てると、イエスの時代もそういう分断があったわけです。

(「荒野の給食」)
すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。
かえって人の中から出てくるものが人をけがすのである。
(マルコによる福音書 7.15)

私たちがウイルスで病んでいるんじゃなくって
ウイルスじゃない、もともと持ってるもので
私たちが今病み始めてる。
病気になろうとしてるってことが、このイエスの文脈でよくわかると思うんですね。

ちょっと立ち止まって、じゃあ、今まで何だったのかっていうことを、やっぱり考える機会にもなってると思うんですね。
(旧約聖書の冒頭「創世記」に書かれている人間の姿)

最初に「光あれ」から始まって、光ができたり、大地ができたり、太陽と月ができたり、
あるいは、草が生え、実のなる木ができ、
そして海には魚が登場し、獣が登場し、
あらゆるものが整った最後に人間が生まれ、
そして、人間に全てを従わせよ、支配せよということを神が言うんだけども
あれは何を意味をしたかっていうと
それだけ前にいろんなものがつくられてやっとこさ人間は生きていける。
相対的なもんだと。
その前につくられたものが全部そろってないと
人間なんてポンと一人、最初に「光あれ」と同時に
「はい人間あれ」って言われたら何食べるの?っていうのから始まって
どこに住むの?から始まって、何もできない。
その人間が最後にしか生まれなかった。
最後にしか登場できなかったのは…
あらゆるものが人間を守っているっていう。
なんか、いかにも最後に支配者が登場して神の全権委任がされて
「従わせよ」とか「支配せよ」っていう、そういう言葉に見えるんだけども
僕は違うと思うんですね。
今回のコロナの状況を見てると、人間って、全然そんな存在じゃないっていうことが、はっきりわかったわけですよ。
例えばですね、ステイホームっていくら言っても
そんなの世界中の人が本気でステイホームしたらね
生きていけないですよ誰も。
だってステイホームできてる人は、ステイホームすることで、うつさないし、うつらなっていうことが確保できるけども
その間も、例えば、アウトホームで医療従事者たちはみんな働いてくれてたわけでしょ。
あるいは、いくらスーパーには週2日にしましょうとか、週3日にしましょう。
毎日、買い物行くのはやめましょうといってもですね
スーパーやってる人は、毎日、働いてたわけでしょ。
そして家で、ずっと過ごしたら、いつもよりかたくさんゴミが出るわけですよね。
その生活ゴミなんかを、毎日、収集に来てくれる人たちがいたわけでしょ。
これら全ての人はステイホームができなかった。
アウトホームで働いてた人たちがいるがゆえに、ステイホームの人たちが守られてたっていう、そういう関係にすぎない。
人間っていうのは、そういう相対的な関係にすぎない。
これは、もう、まさにステイホームだけでは、ダメなんだっていう現実。
私がステイホームしたら、じゃあ、私の命が守られてるかっていったら
そうではなかったという現実をですね、示してるわけですよ。
お前一人で生きてる気持ちになるなよと。
お前一人で生きてないんだよって。
みんながいて、お前がいるんだ。
魚がいて、鳥がいて、獣がいて、木があって、果物があって、
そういうものが全部そろって君の存在が守られてるんだ、ということですね。
多くの人たちが愚痴も言えず、弱音も吐けず、みんな、どっかで我慢してる。
人には吐き出す時が、私は必要なんだと思う。
特に、現在のような思いがけず、しかも「なぜ私が?」という問いに
答えのないまま、苦難が突如として訪れた。
こういうコロナ禍の時代においては、
多くの人がムカムカしながら、そわそわしながらビクビクしてる。
それをどうするのか。
イエスはこう言った。
あなた方が祈る時は、自分の部屋に入り戸に鍵を閉めてね。
戸を閉じて隠れたところにおいでになる、あなたの父に祈りなさい。
すると隠れたことを見ておられる、あなたの父は報いて下さるであろう。
これは偽善者のように、人前でかっこよく祈るな
謙虚に祈れということを言ってるだけではないと思います。
それはね、みんなの前では祈れないような、ほんとうの気持ち
すなわち、心の中にあるムカムカを、そのまま祈ったらいいんだ。
怒りや、やるせなさ、恨みや愚痴…
それを正直に祈ったらいいんだ。
その日はね、大通りで祈らなくてもいい。
この世界は、弱さを受容しない。
弱さを共有しない、弱さを否定する。
「あの人、愚痴ばっかり言ってる」
そんなふうに言われちゃう。
だったら戸に鍵を閉めてね、こう祈りなさい。
神様、くそったれ何してくれてんねん。
なんで俺がこんな目に遭わないかんねん。
神様、くそったれ、あんた神だろう、俺を救え。
今日(こんにち)コロナ状況において、ほんとにやり場のない
「なんで、こんなことになったんだろうか」。
たった3~4か月前までは、まさか、こんなことになるとは思ってなかった店が、次々に倒産していってるわけですよ。
その状況の中で、やはり、みんなムカついてんじゃないか。
やっぱ、その吐き出し口ですよね。
その吐き出し口に、教会がなってるか。
教会、来るには、ちょっと襟を正して、
「神様、感謝します」って言わないと入れないっていう教会もあっていいですよ。
うちは違うんですね。
吐きに来たみたいなね、あっちこっちに、なんか裏路地みたいにね
なんかゲーゲー吐いた跡が残ってるような、教会になりたいと思うし
牧師自身も、どっか吐いている。
一緒に悩むことしかできないし「大変やったね」しか言わないし
「どうするかは、一緒に考えましょう」しか言わないし。
「ここに来たら、もう安心ですよ」にはならないし
もっと言うと、ここに来て、いろんな人と出会うと
新たな問いが生まれたりするし。
だけども、やっぱり、一緒に悩んでいくとか
一緒に吐いたものを、ちゃんと引き受けていくとか
そういうことの方が、答えを与えるということよりかは
よっぽど、僕は大事なんじゃないかなと。
宗教って、それでいいんじゃないかなっていう気はしますよね。
だからキリスト教のね、今までの、例えば、救いの概念、救済の概念っていったら
大体2つだったんですねよね。
一つは何かっていうとね、直接的な救済ですよ。
例えば、食べれない人に、イエスが奇跡を起こしてパンを配ったとかね。
そういう…病気を治したとか。
問題解決、もうストレートな問題解決ですね…のイメージが一つ。
もう一つは、贖罪論(しょくざいろん)といって、人間の犯した罪を、神が、あがなったっていう。
まあ、イエスの十字架が、あがないの死だったんだと。
私の代わりにイエスが罰を受けた。
それが十字架だったんだと。
これは贖罪論ですね。
罪をあがなうキリスト。
この2つが来たんですよ。
これ、どっちもね。
僕から見たら、問題解決型なんですよ。
罪という問題を解決するか、例えば食べれないとか、貧しいとか、病気だという問題を解決、どっちも問題解決型なんですよね。
でも、長いことかかってキリスト教は、
なんかもう一つの救いのイメージを忘れたんですね、忘れてきちゃった。
それは何の救いかというとね
「インマヌエル( Immanuel )」っていう言葉に象徴される救いなんですよ。
インマヌエルっていうのは、どういう言葉とかいうと
神様が一緒にいるっていうだけの言葉なんですね。
「神、われらと共にいます」って訳されてますけども
神様が一緒にいるよっていう。
これはね、問題可決型の概念じゃなくって、関係の概念なんです。
病気が治ろうが治るまいが、
あるいは、罪がゆるされるとか、ゆるされないとかじゃなくって
とにもかくにも、くそったれって、あなたが神をも恨んでたとしても
「なんで、お前、俺のこと助けへんねや」って筋違いの文句を神に訴えている
その場面においても神様は共にいる。
これがね、実は、聖書の順番からいうと
一番最初に出てくる救いのイメージなんですよ。
「マタイ」の1章に出てくる。
神が共にいて下さるっていう。
このね、救いのイメージを、私はキリスト教会も長く忘れてきたんじゃないか。
だから、インマヌエルっていうイメージを
今日(こんにち)教会は、こういう苦難の時代の中にあって
どこまで、それをこう体現できるか、そういうことを考えると、
感染リスクは、一方でありつつも、どうつながるかとか
どう出会うかっていうことが、やっぱり、教会にとって非常に大事。
孤立させない。
孤立が、やっぱり罪なんですよ。
そういう意味でいったらね。
(ここまでで三分の一位です)
今朝の父の一枚です(^^)v
タイサンボクも最後かな…
今朝も、父に雨が降っているけどどうするって聞くと、「行く」と言いました。
今週は、雨が多いのですが、天候に関係なく散歩にこれない日があるし、
父が頑張って散歩に来るのは、コロナが落ち着いたら田舎に帰省したいという思いがあるからです。