2020年7月12日日曜日

梅雨の中休みは…

今朝は、傘を持たずに歩けたんだけど明日から再び大雨になるとか…
豪雨の被害にあっている方は、片づけをする気力がわかないだろうな…

13日以降再び大雨のおそれ」(関西 NHK)
昼食後、コーヒーをいれた後、サーバーを洗って水きりのカゴに置こうとしたら
水道の蛇口にカチンと当ててしまった…
いつものようにしているつもりでもいろいろなミスをするようになりました。
例えば、スーパーなどで買い物をしているときに床に引っかかる時があります。
足先が上っていないのだろうな…

サーバーを買いに行くと、いつ見ても「完売」の貼紙がされている
エアリズムマスク」が販売されていて、
会計に並んでいると完売なりました。
運の悪いこともあるけど、いいこともあった(^^)v
日曜美術館のアートシーンに葛飾北斎の「朱描鍾馗図」(1846年)が紹介されていました。

鍾馗とは疫病を退けるという神。
男の子のいる家では、端午の節句に鍾馗ののぼりを掲げました。
当時、流行していた疱瘡
(ほうそう)には、赤いものが効くとされ朱色の濃淡で表しています。

〝肉筆「朱描鍾馗(しゅがきしょうき)図」〟(すみだ北斎美術館

松平露~全国から寄せられた追悼(江戸)」の続きを転記しますφ(..)
追悼を寄せた人々

 冠山のもとに、北は蝦夷地松前(えぞちまつまえ)から西は四国の讃岐(さぬき)国、九州の日向(ひゅうが)国や薩摩国と、全国に近いほぼ千六百人、千八百点の追悼の詩歌書画が寄せられた。
それらの中には、時の老中備後(びんご)国福山藩主阿部正精(まさきよ)の書、寛政(かんせい)の改革を推進した陸奥(むつ)国白河(しらかわ)藩主松平定信(さだのぶ)の和歌四首など各地の大名たちの詩歌や書のほか、幕府の御用絵師狩野栄信(ながのぶ)や文人画家谷文兆(たにぶんちょう)らの画家たちの絵、幕府学問所<昌平黌(しょうへいこう)>大学頭(だいがくのかみ)林述斎(はやしじゅっさい)やその教官古賀精里(こがせいり)等の長文の書、戯作者滝沢馬琴(たきざわばきん)の和歌、神社仏閣からの書も寄せられている。
蘭学者の桂川甫周(かつらがわほしゅう)らはオランダ語の追悼文を寄せている。
さらに天文学者や商人・職人などあらゆる身分の人々から漢詩、誹諧、書画などが寄せられている。
(『江戸期に生きた女表現者たち』柴桂子 NHK出版 2016年)
 そうした中に、百七十人ばかりの女性たちも追悼を寄せている。
大名の家族、旗本の妻、歌人、俳人にまじって瞽女(ごぜ)や少女の物もある。
 大名家の奥へ出入りして歌の指導をしていた歌人の村田たせ子は、長い前詞に添え二首の和歌を贈っている。

  みこゝろのふかさくまれて水くきの跡になみたをなかしそへつゝ
 瞽女の柳女も和歌一首を送っている。

  思ひやる袖こそぬるれなてしこのかれし垣ねやいかに露けき
 七歳の少女せい子は、「燕子花(かきつばた)図」、十一歳の恵比子(花渓<かけい>)は「蜻蛉(とんぼ)に沢潟(おもだか)図」を贈っている。
松平豊後守(ぶんごのかみ)室周子(かねこ)は早くも文政6年に長文の追悼文を送っている。
中には、夫婦、母娘、姉妹、大名家の奥女中たちと身近な人たちで寄せ合って贈られたものもある。
 なぜこれだけ多くの追悼が方々から寄せられたのであろう。
理由のひとつは、父冠山の幅広いネットワークにある。
冠山は7歳の時、旗本池田家から養子に入り、養祖母桂香院(けいこういん)に厳しく育てられた。
若い頃より学問に励み、地理や仏典に通じ、『武蔵(むさし)名所考』や『浅草寺志』などの著書もある。
儒学や古典にも造詣が深く、江戸城柳(やなぎ)の間詰(まづめ)時代には「柳の間の三賢」と称された。
35歳で隠居し、はやくに長子長興に藩主の座を譲ったのも、自由の身になって文化生活を楽しみたかったからと考えられる。
隠居生活に入ってさらに多くの儒者や高僧、文人たちと深く交わった。
こうした関係で冠山のネットワークは広がり、結果、多くの人々からの追悼が送られたと考えられる。
 もう一点は、父冠山の観音信仰に影響されて幼い時から純真無垢な気持ちで観音さまを信仰する生活をした露の姿と、かかわり合った人々へのあどけない差別のない思いやりの心に人々が打たれたからであろう。
遺書と追悼文から見えるもの

 露の遺書の文章も文字も決して立派なものではない。
当時の少女の歌や筆跡はほかにも見出せるが、それらは手ほどきを受けたものなので巧みで、筆跡もずっと立派である。
露の遺書から見て、歌の手ほどきも手習いも受けたものとは考えられない。
本格的に手ほどきを受ける年齢に達してはいなかったこともあるが、露は自分の心の向くまま、おおらかに育てられたと思われる。
露はほとんど見よう見まねで字を覚え、手紙の書き方も文の運びも自己流で学び取ったと考えられる。
遺書には話し言葉が混じり、文字の抜けたところもあり、意味不明の個所もあるが、それぞれの人々への精いっぱい思いを述べていて、ありのままの気持ちが伝わってくる。
周囲の人々に愛情を注がれて育った露は、自ずと慈悲の心を多くの人々に返した。
 多くの追悼文や和歌、書画からは、文化文政期の文化の高さを感じ取れる。
著名な文化人のものもあるが、各地のさまざまな身分の人々からの追悼の書画は、著名人のものと遜色がないように思われる。
見知らぬ人へも歌や絵を贈り届ける心の豊かさは、文化が日常生活に深く入り込んでいたことを感じさせられる。

【参考文献】
玉露童女追悼集刊行会編『玉露童女追悼集』全5巻 浅草寺教化部 1988~96年
小谷恵造著『池田冠山傳』三樹書房 1990年
(『江戸期に生きた女表現者たち』柴桂子 NHK出版 2016年)
今朝の父の一枚です(^^)v
なんとモクレンが二度咲きしていました。
シモクレンは時に返り咲きをするようです。 

らららクラシック♪「Remix おんがくのじっけん~ラヴェルとライヒの場合~

を見ながら母が映画「愛と哀しみのボレロ」が好きだったことを思い出していました。
長編の映画だけどテレビの放送を録画したビデオを
何回か見たいというので再生したことがあります。
最後の舞台シーンが好きだった。