2020年7月3日金曜日

あまり汗をかかなかったのは…

天気予報を見るとお昼近くに雨が降るかなと思って出かけました。
涼しい風に間もなく降りそうだなと思っていると、小さな雨粒があたりました。
それでも傘をささずに駐車場に戻れました。

3日は梅雨空戻る 4日にかけて大雨のおそれ」(えりの気象日記 7月2日)
研究が進んでいるのだなぁ!

京都大学櫻井准教授は、
「iPS細胞から分化させるときに、すべてが目的とする筋肉細胞になるわけではない。
余分な細胞を取り除く安全な手法が確立されれば、患者への臨床応用に近づくのではないか」
と話しています。

iPS細胞から筋肉細胞」(関西 NHK)

30年以上前に国立療養所刀根山病院(現、大阪刀根山医療センター)に併設されていた
大阪府立刀根山養護学校(現、大阪府立刀根山支援学校)を訪問したことがあります。
その時に案内して下さった先生が
七夕の短冊に願いごとを書く内容が入学して間もない子どもは
「早く病気がなおりますように」と書いていたのだけど
学年が進むと、書かなくなると話しておられました。
病棟から廊下づたいに学校へ通っている子どもたちは、
病気が進行していっている先輩の姿を見ているので、
病気が治るという希望を次第に失ってしまうのです。
坂本史衣さんのTwitter

全国の感染管理の皆様

と、ある方のTwitterをリツイートされていました。
そこには
人が操作するシステムを開発する際に、
 常に配慮すべき重要事項
 人間の特性8箇条
高橋秀俊)」
7月3日
 宣教師ビレラの情報がポルトガルに伝えられた。 1569(永禄<えいろく>12)年。

 この日、あるポルトガル人が、ガスパル・ビレラの語ったこととして、次のような話を本国に書き送っている。
 ビレラが京都にいたとき、身分の高い人や武士らがキリストの教えをきこうと彼のもとに集まった。
しかしその土地の領主と民衆は、坊主(ぼうず)に扇動(せんどう)されて彼を殺そうとし、「このような悪人は他の方法で殺す価値はないから、石で打殺せ」と宣告した。
これをきいた信者ら80人が急ぎビレラのもとに集まり、「あなたを殺せという命令が出たのを知り、ともに死ぬ決意でここに来た」と語った。
これに対してビレラは「自分が死んでも失うところは少ないが、あなた方は妻子があるのだから家に帰りなさい」と説いた。
しかし信者らはデウスのために死ぬ決意を変えようとせず、これを知った領主と民衆はビレラを殺すことをあきらめた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
NHKスペシャル
戦国~激動の世界と日本~第1集秘められた征服計画 織田信長×宣教師
を興味深く見ました。
宣教師が、世界征服の先兵として活動していたことは知っていたけど
豊臣秀吉と宣教師の思惑が一緒だったというのが驚きでした。

日本の歴史12 天下一統』より「キリシタンの公認」「フロイスと信長の問答」を転記しますφ(..)
天下布武
 キリシタンの公認

 
 京都での信長のしごとといえば、二条の館の造営とともにもう一つ特記すべきことがある。
永禄12年(1569)4月8日、信長ははじめて宣教師ルイス・フロイスに面会し、その京都居住を許したことである。
かつてのザビエルの願いが本格的に達せられたのである。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)
 その間のキリシタンの伝道はどうであったろうか。
ザビエル以後、北九州の普及はきわめていちじるしいものがあった。
その影響は畿内にもおよび、9年後の永禄2年(1559)10月には、ガスパル・ビレラなるものが比叡山の僧侶の招きによって入京したことがあった。
しかもビレラは比叡山にのぼるをえないで、京都において大道説教をこころみ、群衆の嘲笑や僧徒の迫害にも屈せず熱心に布教につとめた結果、ついに三好長慶(ちょうけい)に知られ、さらにその庇護をえて、翌3年、将軍義輝から布教の認可をえていたのである。
ちょうど桶狭間(おけはざま)の戦によって信長の名声が天下に知られたそのときに当たっていた。
このときビレラが信徒の寄付金によってつくった会堂が、京都における天主堂(てんしゅどう)の濫觴(らんしょう)であり、のちの永禄寺(えいろくじ)の起源をなすものであった。

南蛮寺跡(なんばんじあと)」(京都市)
 ビレラは永禄4年(1561)、堺にもおもむいて布教し、仏教の非難におよんだので叡山僧徒の反対にあったが、長慶らの保護によってやうやくことなきをえた。
永禄8年正月には新しく平戸(ひらど)から宣教師ルイス・フロイスが到着し、将軍義輝・同夫人近衛(このえ)氏から厚遇をうけ、そのころには高山飛騨守(ひだのかみ)、その子右近(うこん)らも信徒になっていた。
しかるに同年5月に将軍義輝が松永久秀らによって弑(しい)されるにおよんで、京都の法華宗徒(ほっけしゅうと)らが三好党にせまってキリシタンを禁じ、宣教師を殺戮(さつりく)せんとした。
ここにいたって8月2日、ついに宣教師追放令が発布され、フロイスも堺にしりぞいていたのであった。
 こうした経過からみて、信長のキリシタンにたいする態度の是非はきわめて注目すべきものであったのだ。
信長は、摂津芥川(あくたがわ)城主となっていた和田惟政の紹介で堺から入洛したフロイスを、一度は拒否したが、再度の惟政の熱望によって引見したのである。
フロイスの眼に映じた信長の風格は、ただちに1569年6月1日付、都発の書翰としてローマに報ぜられた。
 「この尾張の王は、年齢三十七歳なるべく、長身痩軀、髯(ひげ)少なし、声ははなはだ高く、ひじょうに武技を好み、粗野なり。正義および慈悲の業をたのしみ、傲慢にして名誉をおもんず。決断を秘し、戦術に巧みにしてほとんど規律に服せず、部下の進言にしたがうことは稀なり。かれは諸人より異常な畏敬を受け、酒を飲まず、みずから奉ずることきわめて薄く、日本の王侯をことごとく軽蔑し、下僚に対するがごとく肩の上よりこれに語る。諸人は至上の君に対するがごとくこれに服従せり。よき理解力と明晰なる判断力を有し、神仏その他偶像を軽視し、異教のいっさいの卜(うらない)を信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なることなく、死後なにごとも存せざることを明らかに説けり。その事業は完全にして巧妙をきわめ、人と語るにあたり、紆余曲折(うよきょくせつ)を悪(にく)めり」
 長文の書翰の一部分だが、フロイスの観察の鋭さがよくうかがわれる。
 フロイスと信長の問答

 信長がフロイスに面会する直前に、松永久秀はとくに信長を訪問し、「キリシタンのいたる所はことごとく騒擾(そうじょう)し、破壊せられるゆえに、ふたたび放逐せん」ことを懇願した。
しかし信長はこれを笑って、「ただ一人の者が都のごとき大なる都市に滞在することによって、一国をみだす原因となると考える久秀の心ははなはだ狭隘(きょうあい)である」として、その意見をしりぞけたという。
 それでも信長がただちにフロイスを引見しなかったのは、外国人の引見にいかなる礼儀をもちうべきかを知らなかったこと、ひそかに面会すると、フロイスが洗礼を授けるために来たように懸念するものがあること、この二つをおそれたためであった。
しかし面会してみると、信長はフロイスを質問責めにして、およそ1時間半から2時間も語りあった。
 フロイスの書翰によると、
 「かれ(信長)は、まず予(よ)は何歳なるか、ポルトガルおよびインドより日本に来たりて何年なるか、何年間学びしか、予が両親はポルトガルにおいて予を見ることを期待せるか、毎年キリスト教国より書翰をうるか、途中の距離、日本に滞在せんと欲するかなどを尋ね、この重要ならざる前置きののち」
つぎのような問答が交わされた。
 信長「若しデウスの教えがこの国に弘布せざるときは、インドに帰るべきか」
 フロイス「たとえキリシタンがただ一人のほかになしとするも、これを持続するため、パードレ一人は一生当地に留まるべし」
 信長「なにゆえ都において繁昌することなきか」
 フロイス「穀物が生じても、荊棘(いばら)はなはだ多ければただちにこれを枯死させてしまう。そのように坊主らは高貴なる人がキリシタンになることを好まず、パードレを追放し、デウスの教えの宣布を止めんため各種の手段をつくす。このゆえにキリシタンとならんと欲する者は多しといえども、この妨害を見て猶予するなり」
 信長はここで仏教僧侶らの「忌むべき生活と悪しき習慣」を長々と説いて、
 信長「坊主らは金銭をえ、肉体を喜ばしむることのほか望むものなし」
と断言した。
フロイスはこの返答を好機として仏教僧侶との宗論を希望し、さらに居住のための朱印状(しゅいんじょう)の下付を請うた。
信長はこれにたいして「愉快なる容貌を示したるのみ」であったが、やがてフロイスにまったく無償で朱印状をあたえ、ついで会堂を引き渡すにいたったのである。
 かくしてキリシタンは布教認可をかちとったが、信長は果たしてどのような意図を秘めていたであろうか。
そこで考えられる理由は、かれ自身の「かぶき者」らしい猟奇(りょうき)的趣味も大いにあずかっていると思われるが、やはり仏教僧侶への対抗的役割をあたえようとしたものと考えられる。
その点では山門や一向一揆(いっこういっき)を敵視した信長の信仰は、フロイスが言うように法華宗に近いものがあった。
京都における居館が妙覚寺(みょうかくじ)であり、あるいは本能寺(ほんのうじ)であったことを考えると、それはほぼ首肯(しゅこう)できる。
信長がキリシタンを許したことによって、法華宗との関係はいったいどう動くか、それは安土の城下であらためて検討しよう。
(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)
今朝の父の一枚です(^^)v
修復されたパキスタン館です。

廃墟「国際庭園」外国人観光客から嘆きの声…花博から四半世紀“残念”な実態〟(産経WEST 2016年)