2020年7月17日金曜日

予報では…

予報では、曇りでしたがけっこう降りました…
でも、梅雨時の天気はこんなもんだなぁと思います。
リハビリ散歩をするようになって、今年で8回目の夏だけどハグロトンボ(♂)に初めて会った。
散歩の時間が1時間ほどなので会うチャンスが少ないです。
90mmレンズなので近づこうとしたら気づかれてしまった…
祇園祭 山鉾巡行中止で練り歩き」(京都 NHK)

今日は、山鉾巡行が執り行われているはずなんだよなぁ…
去年、「茶亭よし本」で、一度も祇園祭を見たことがないとお話しすると
祇園祭の団扇を下さった!(2019年6月14日の記事
のんびりと京都を歩きたいのだけど
Go Toトラベルが22日から始まったら、怖くてなおさら行けないなぁ…
7月17日
 江戸を東京と改めた。 1868(慶応<けいおう>4)年

 人心一新をめざす新政府は、かねて計画していた遷都(せんと)を実行するため、この日その準備として江戸を東京と改めた。
政府は江戸を西の京に対する東の京という意味で東京と改め、ここを政治の中心にすることとした。
同じ日に天皇の東幸(とうこう)が発表された。
これを知った絵師たちは、天皇が京都から東京にくる有様(ありさま)を想像で描き、庶民はその絵を買って天皇の行列の様子を思いめぐらせた。
 このころ、江戸の町は日一日と変わっていた。
主人を失って荒れ果てた武家屋敷の場所に商工を営む人々が住みはじめ、新しい町並みが作られていった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
明治天皇」(小学6年 動画)

京都史跡見学』より「古都浮上」と「車賀東幸」を転記しますφ(..)
終章 遷都千二百年
 古都浮上


 江戸幕府によって非政治的な存在とされた京都と朝廷ですが、幕末にいたりにわかに騒然としてきました。
嘉永(かえい)6(1853)年ペリー来航をきっかけに、急速に指導力を失った幕府にかわり、朝廷に結集する動きがたかまってきたのです。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
 京都にはぞくぞくと諸藩の大名や志士(しし)が上洛(じょうらく)しはじめ、文久(ぶんきゅう)3(1863)年3月には、将軍徳川家茂(いえもち)も上洛、これは寛永(かんえい)11(1634)年に家光が上洛して以来、じつに230年ぶりのものでしたが、後者が示威(じい)であったのにたいし、これは、朝廷の助力を求めてのものでした。
 こうして京都は、尊攘(そんじょう)派や公武合体(こうぶがったい)派、佐幕派(さばくは)など、思想信条を異にする派閥集団の集まる、政治のるつぼとなったばかりでなく、他の存在を認めずに抹殺(まっさつ)する暗殺の季節が到来するのです。
文久2(1862)年4月におこった寺田屋事件(伏見の船宿寺田屋で、公武合体派の薩摩〔鹿児島〕藩主島津久光<しまづひさみつ>の命により尊攘派の同藩士有馬新七<ありましんしち>が襲撃される)をはじめ、元治(げんじ)元(1864)年6月の池田屋事件(新撰組が尊攘派志士を襲撃)、慶応2(1866)年正月の寺田屋事件(坂本竜馬が幕吏<ばくり>に襲われ危機一髪助かる)、慶応3年11月の近江屋(おうみや)事件(坂本竜馬、中岡慎太郎<なかおかしんたろう>が幕府見廻組<みまわりぐみ>のため殺される)などはその一端にすぎません。

(「るつぼ」に圏点「、、、」)
ことに壬生村(みぶむら)を屯所(とんしょ)とした、近藤勇(こんどういさみ)ひきいる新撰組は、幕府の京都見廻組の下にあって行動したのですが、尊攘派にとっては恐怖の的(まと)でした。
またその間、元治元(1864)年7月には、京都御所に乱入しようとした長州(ちょうしゅう<山口県>)兵を鉄砲で撃退した、いわゆる蛤御門(はまぐりごもん)の変がもとで、いま京都ホテルのあるあたりにあった長州屋敷から出火、これがおりからの強風にあおられて京都の大半を焼くということもありました。
俗に「鉄砲焼け」とか「どんどん焼け」といわれるものがこれで、焼失した町81、人家2万7513戸、抗争に巻き込まれた市民こそ、いちばんの被害者でした。
 こうした幕末の京都の政情をくわしく述べる余裕はとてもありませんが、京都はもとより、わが国の歴史を大きく回転させるような事件は、この時期すべて京都を舞台にくりひろげられていたといってよいのです。
将軍家茂は三度、京都にのぼっており、またそのあとをついだ慶喜(よしのぶ)は、文久2年以来京都にありました。
諸国の藩主もあらかた京都にのぼっています。
この時期は、いわば「京都幕府」になっていたのです。
 そして、慶応3(1867)年10月14日、将軍徳川慶喜は二条城に諸大名の登城(とじょう)を求めます。
40藩、50数名が参集しています。
議題は幕府として政権を返上すること、すなわち大政奉還(たいせいほうかん)についてでしたが、もはや論議はまったくといってよいほどありませんでした。
翌日慶喜は参内(さんだい)して孝明(こうめい)天皇から「御沙汰書(おさたしょ)」をうけ、事実上徳川幕府は消滅したのです。
12月9日、王政復古の号令が出され、京都に新政府が樹立されました。
 車駕東幸

 しかし、徳川幕府の倒壊、新政府の樹立は、京都にとっては重大な結果をまねくことになりました。
東京遷都(せんと)です。
 前章で、江戸後期、江戸にたいして京都をことさら皇都とみる意識がつよくなっていたと申しました。
これには中期以降たかまりはじめた尊王思想も無関係ではありません。
京都にとって朝廷の所在地であるというのがいちばんのよりどころとなっていたわけです。
長いあいだ共存してきた禁裏(きんり)にたいする市民感情には、こんにちの保守的といったいい方では表わし切れないある種の親近感がこめられており、江戸幕府のような権力的存在でなかったことが、その関係を身近なものにしていたのでしょう。
その禁裏が京都からはなれる――それは市民にとって一大事であったのです。
請願や反対運動がくりひろげられることになります。
神社にはお百度まいりをする人たちもいたと申します。
 もっとも遷都といっても、公式にそのことが表明されたわけではなく、むしろ右のような市民感情をおもんぱかって、遷都はなしくずしに行なわれたというのが実情です。
それから、東京遷都だけでなく、じつは〝大坂遷都〟もあったのです。
これは外交や経済の面で大坂がこれからの首都にふさわしいとする、新政府の大久保利通(おおくぼとしみち)の意見にしたがったもので、天皇は慶応4年3月から4月にかけて、大坂本願寺別院に一ヵ月ほど滞在するということがありました。
 その年の7月に、江戸を東京とあらためる詔(みことのり)が出されます。
  朕(ちん)、今、万機(ばんき)ヲ親裁(しんさい)シ、億兆(の民)ヲ綏撫(すいぶ)ス。
  江戸ハ本国第一ノ大鎮(だいちん)、四方輻湊(ふくそう)ノ地、宜(よろ)シク親臨(しんりん)、以(もつ)て其(その)(まつりごと)ヲ視(み)ルベシ。
  因(よつ)テ自今(じこん)江戸ヲ称シテ東京トセシム。
  是(これ)、朕ノ海内一家(かいだいいっか)、東西同視(とうざいどうし)スル所以(ゆえん)ナリ。
  衆庶(しゅうしょ)此意(このい)ヲ体(たい)セヨ。
 これによれば、東京遷都も予定の行動であったことがわかります。
二カ月後の9月、明治天皇は京都を出立しています。
ただしこの時は年末には京都に戻っています。
 年が明けて明治2(1869)年正月、京都市民には酒237石余、スルメ11万8500余枚などをふくめ、金4266両余が下賜(かし)されたのは、市民の不安をなぐさめるためでしたが、それは遷都を断行することの表明でもありました。
じじつ天皇は3月7日、車駕(しゃが)を東京にむけて進めています。
おくれて皇后も、10月14日、京都をはなれます。
こうして平安遷都以来の「皇都」は、1075年で生命を終えたのです。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
今朝の父の一枚です(^^)v
このとき本降りになっていました。
 
17日金曜日は近畿南部中心に雨も」(えりの気象日記 7月16日)