2020年7月18日土曜日

不安定な天気で…

予報では、曇りでしたが公園に向かう途中で小雨…
昨日みたいになるのかなと思っていたら雨が止みました。
帰る頃には青空が見え出した…
梅雨が長引くと野菜などに影響します。

じゃがいも にんじん 平年の倍以上の高値 天候不順の影響」(NHK)
アブラゼミの翅が動いたなと思って見るとアリが一匹で運ぼうとしていました。

食料の大きさに合わせた運び方

 働きアリは、小さい物ならばくわえて持ち上げ、前に歩いて運ぶ。
持ち上がらないほど大きな物ならば、引きずって後ずさりしながら運ぶ。
では1匹で動かせないほど大きな物はどうするだろう。
働きアリはいったん巣に戻り、たくさんの仲間を動員する。
道すがら出合った仲間を連れて、引き返すこともある。
この時、目的地からの道のりには匂いがつけられていて、それをたどりながらぞろぞろと目的地に向かうのだ。
この様子がいわゆるアリの行列である。
ちなみに何百匹もの行列を作るのは、体の小さな種類が多い。
またクロオオアリなどの大きな種類では、数匹で列をなして歩くのが見られる。
(『虫のおもしろ私生活』ピッキオ編著 主婦と生活社 1998年)
 このようにして集まった働きアリたちは、力を合わせて大きな獲物と引きずって運ぶ。
さらに大きく何匹かかっても動かせない場合は、大アゴでかみちぎって小さくして運ぶ。
ちなみに花蜜や肉汁などの液体は、腹の中にためて運ぶ。
巣口で気をつけて見ていれば、一見手ぶらでも腹がぱんぱんにふくらんだアリが戻ってくるだろう。
(『虫のおもしろ私生活』ピッキオ編著 主婦と生活社 1998年)

アリの行列できるわけ」(小学3年 動画)
7月18日
 プチャーチンが長崎にきた。 1853(嘉永<かえい>6)年

 海軍中将プチャーチンをのせたパルラダ号など4隻のロシア艦隊は、バルト海沿岸のクロンシュタット港から10ヵ月もの航海をへて、この日ようやく長崎港に入った。
ペリーが浦賀(うらが)を去って一月余のことであった。
 翌月、プチャーチンは日本にきた目的をかいた手紙を日本側に手渡した。
この手紙は、オランダ語と漢文で書かれてあったが、長崎の通事(つうじ)たちがアッというまに翻訳した。
 国境問題の解決と通商を求めてやって来たロシアとの交渉は、こうして長崎ではアメリカとよりも早くはじめられることになるのである。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
ついペリーの来航についていろいろ記録を読むことが多いのですが、
ロシア船については、知らないことが多いと思います。
日本の歴史18 開国と幕末変革』より「ロシアの長崎来航」を転記しますφ(..)
第四章 開国と外交交渉
 3 クリミア戦争と日本の開国
   ロシアの長崎来航

 
 ペリーの来航計画を知ったロシアは、海軍中将プチャーチンを遣日(けんにち)全権使節として派遣し、4隻のロシア艦隊が長崎に入港した。
ペリーが浦賀沖に停泊したおよそ一ヵ月後である。
ロシア交渉の応接掛は、筒井政憲(つついまさのり)と川路聖謨(かわじとしあきら)に命じられた。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
 ロシア宰相ネッセリローデ書簡は、19世紀の世界情勢の変化を述べたうえで、日本に対して、国境を定めること、通商をはじめることを要請する一方、日本の国法を守るとも言明した。
川路は、ロシアを通じて諸国からの通商要求を拒否しようとしたほど、ロシアを「穏やかなる国法」の国と評価していた。
前章でも述べたように、19世紀前半期の日本のロシア観は、むしろ良好なものであった。
 長崎における交渉では、ロシアはカラフト島全土の領有とエトロフ島の折半(せっぱん)を、日本側は、カラフト島北緯50度を国境とすることと千島全島領有をそれぞれ主張した。
ロシアからの通商の要請には、川路が「異国通商は、国の痛みにあいなり、益にはあいなり申さず」と拒否する。
 交渉のなかで川路らは、隣国ロシアへの友好論を随所で使いながら、幕閣の指示である交渉の引き延ばしを続けた。
プチャーチンは、川路が「もし通商をほかの国に許すときは、隣国のロシアへも許す」と繰り返した機を逃さず、「書面で渡してほしい」と要求した。
この結果、ロシアに最恵国待遇を保証する覚書(おぼえがき)が渡される。
川路は覚書に姓名を記さなかったと幕閣に断ったが、日米和親条約でペリーが最大の成果と評価した片務的最恵国待遇より二ヵ月、早い。
「老練」と定評があった川路が、軍事・外交に経験豊かなプチャーチンに、最恵国待遇を認めさせられた場面であった。
 プチャーチンが来航した約一ヵ月半後、トルコがロシアに宣戦布告(西暦1853年10月4日、クリミア戦争開戦)したため英仏艦隊がロシアに対抗して黒海に入り、シノペの海戦ではトルコ艦隊が全滅した。
「オランダ別段風説書(べつだんふうせつがき)」は、長く続いたウィーン体制の「静謐(せいひつ)」が崩れ、戦雲が巻き起こりつつあること、ロシアが黒海に「恐怖すべきのおびただしき船勢(軍艦)を備え」たことなどを詳細に記していた。
欧州の大戦争となるクリミア戦争は、翌年1854年(嘉永7)2月(西暦の3月)にイギリスとフランスが参戦する。
日米和親条約締結は、その三日後である。
プチャーチンは、英仏艦隊を避けて沿海州(えんかいしゅう)のインペラトール湾に退却し、半年後、半年後、クリミア戦争のなかでも、世界の戦史に残る三百四十九日に及ぶ大消耗戦セバストポリの攻防は、8月(西暦の10月)に火蓋を切る。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年)
あるニュースが気になったので
こころの時代「今 互いに抱き合うこと―コロナ禍に読む聖書―
の中で奥田知志さんが最後に語った言葉を転記しますφ(..)

聖書の「ヨハネによる福音書」っていうところに
光はやみの中に輝いている。やみはこれには勝てなかった」(ヨハネによる福音書第1章5)
って言葉があるんですね。
普通、皆さん絶望と希望の関係っていうのは、絶望のトンネルを抜けたら、希望が広がる。
あるいは明けない夜はない。
夜が明けたら朝が来るっていう。
絶望の先に希望があるって、普通、考えるじゃないですか。
でも聖書は、そう言っていないんですね。
光はやみの中に輝いている」。
つまり闇が通り過ぎたら、光がいつか来るから、まあ「冬来たりなば春遠からじ」なんですよね。
そういう感覚で、みんな、過ごしてるんだけど、そうじゃないと。
実は、冬の真っただ中に、もう既に、春は始まっているってことを聖書は言いたいわけですよね。
つまり、闇の中に光が輝いている。
だから闇が通り過ぎたら、光が来るんじゃなくって、もう既に、光は始まってる。
希望は始まってるっていうことを、聖書は「ヨハネ福音書」に書いた。
しかも最終的に闇は光には勝てないって宣言してるわけですね。
私はね、これだけ不安が大きくなった時代で
コロナのことで、みんなが来年どうなるんだろうとか。
今年の冬はどうなるんだろうっていう
非常に不安の中に、あるいは、絶望の中にいて
いつまで我慢したら、夜明けが来るんだろうっていうふうにみんな考えてるけども
もう少し、ちょっと心を研ぎ澄まして、もう少し落ち着いて、今、周りを見たら
希望のかけらみたいなものが、もう始まってるんじゃないか。
あれだけこう何ていうかな、孤立が進んでた社会なのに
いざステイホームって言われたら、やっぱ、みんなさみしくなって
インターネットで何とか、つながろうとか。
家で踊ろうとか言いだした。
だから、そういう中で、人恋しって思いが出始めたとか。
まあ、私は、なんかいろんなことが、もう今、始まりつつあるっていうふうに思うんですね。
だから、この闇の中に光が既にあるって、聖書は言っていますよと。
私たちは、今もう、それを探そう。
この闇の中に光を探そうっていう気持ちで日々を過ごした方がいいと。
我慢する時期じゃなくって、なんか宝探しをするような気持ちを持とう、一方でっていう。
今朝の父の一枚です(^^)v
公園に来たときは、ほとんど来園者は見られなかったのですが
帰る頃には家族連れなどで賑わっていました。

大阪も東京並みになってきましたね…
大阪府 新たに86人感染確認 80人以上は4月20日以来 新型コロナ」(NHK)