2020年7月16日木曜日

久しぶりの青空

久しぶりに青空を見たような…
公園に来ると青い柿の実が落ちていました。
昨日の大雨で落ちたというよりも
クチバシでかじったような跡が付いているので
カラスの仕業かな?
天気がいいとセミの声が賑やかでしたし、チョウトンボにも出会いました。
チョウトンボに出会うと、望遠レンズがいいなと思うのですが…
あれもこれもと欲張らずに90mmレンズでリハビリ散歩をしています。
今朝のニュースの中で〝「マスクがつけられない」切実な悩み〟が報道されていました。

症状:顔や耳に痛み、気分が悪くなる、発熱など
原因:皮膚病、脳の障碍、発達障碍に伴う感覚過敏

共通するのは、見た目では分からないことです。
汗をかく機能に障碍があるYさんは、体温の調節が困難です。
マスクをして外出したところ顔が腫れ、体温が38度まで上がり熱中症になったそうです。
そのためYさんは、マスクが付けられないために外出をためらうことが多くなっています。
というのもマスクを着けていないことに対しての視線に耐えるのは結構きつい。

発達障碍の子どもの中には感覚過敏でマスクをつけられないことがあります。
〝触覚〟の反応が痛みなどに繋がっているのではないかと考えられています。
〝マスクがつけられない人〟の正確な統計のない状況で、
発達障碍に伴う感覚過敏についてのメカニズムについては研究が始まったばかりだそうです。

マスクがつけられないことで外出をためらう人たちのために
中学3年生の加藤路瑛(かとうじえい)さんが「感覚過敏研究所」という情報交換サイトを立ち上げています。
7月16日
 日蓮が『立正安国論』を書いて幕府に提出した。 1260(文応<ぶんおう>元)年

 1258、59年はひどい飢饉で疫病も流行し、死者が続出した。
『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』はそのような状況を嘆き、その原因を客と主人の会話から話が始まる。
主人日蓮は、阿弥陀如来(あみだにょらい)だけを信じて専修念仏(せんじゅねんぶつ)を唱(とな)える法然(ほうねん)をはげしく批判し、この邪教が広まっているために飢饉・災難がおこったのだと論じる。
早く念仏を停止して法華経(ほけきょう)を信じなければ国内に叛乱(はんらん)がおこり外国の侵略をうけると予言して、念仏を信じていた客を説得するという話の運びになっている。
日蓮はこの日前執権(しっけん)北条時頼(ときより)にこの書を提出したが無視され、8月27日には念仏者に松葉(まつば)ヶ谷(やつ)の庵(いおり)を襲撃されて、一時下総(しもうさ)へ逃れた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
日蓮について『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』より転記しますφ(..)
日蓮
 日蓮は1222(承久<じょうきゅう>4)年安房国小湊(あわのくにこみなと<現千葉県天津(あまつ)小湊町>)に貧しい漁民の子として生まれた。
12歳で同地の清澄寺(きよずみでら)にあずけられ、16歳で出家した。
そして17歳との時に仏教をより深く学ぶため鎌倉に遊学(ゆうがく)し、さらに21歳の時比叡山にのぼり、10年にわたり勉学に励んだ。
(『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』日本史教育研究会 山川出版社 2001年)
 鎌倉・比叡山を中心とした15年の勉学で彼が求めたものは、真の仏教とは何かということであったが、それは法華経(妙法蓮華経<みょうほうれんげきょう>)のなかにある、というのが彼の至りついた結論であった。
さらに6万9000字におよぶ法華経の内容を研究する学者の道を捨て、その一部、さらにつきつめると妙法蓮華経の五文字がその内容を表わしていることになるとの考えに行きついた。
こうして「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の唱題(しょうだい<題目を唱えること>)が生まれた。
 彼はこの境地を故郷の清澄寺に帰って同胞(どうほう)たちに説いたが、念仏を批判する彼の考えは、念仏信者である土地の地頭東条景信(とうじょうかげのぶ)の怒りを買い、ついに彼は故郷を追われて、鎌倉に向かいそこで布教を開始した。
しかし布教を始めて数年後、彼は大きな疑問につきあたった。
それは鎌倉を中心に各地で天災地変があいつぎ、多くの人々が餓死・病死するという事態に直面したことである。
彼は、仏教が盛んになっているのに何故このような災害で人々が苦しむのか、これは仏教の信奉(しんぽう)の仕方に間違いがあるのではないか、そう考えた彼はもう一度最初から仏教を学びなおす決心をした。
その結果できあがったのが『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』である。
そのなかで、彼は天災地変で多くの人々が苦しむのは、世の中に正しい法が行なわれていないからである。
このままだと経文(きょうもん)に説(と)かれた最悪の事態である他国からの侵略、自国での内乱が起こる、と警告した。
彼はこの著を前執権北条時頼(ときより)に献じたが、逆に幕府の怒りを買い、その結果、彼は伊豆(いず)に流された。
 1268(文永<ぶんえい>5)年、幕府に蒙古の国書が届くと、日蓮は自分の予言が的中したとして、たびたび幕府に進言(しんげん)したが、無視されつづけた。
そうした中で1271(文永8)年、幕府が日でり対策のために、旧仏教の代表的人物である鎌倉極楽寺(ごくらくじ)の忍性(にんしょう)に雨乞いの祈禱を命ずると、日蓮は「七日のうちに雨が降れば日蓮は忍性の弟子になる」と挑戦状を突きつけた。
しかしこれがもとで告訴され、ついに佐渡へ流罪(るざい)となった。
佐渡へ送られる時、鎌倉郊外の龍口(たつのくち)で切り殺されようとしたがその難も逃れた。
1274(文永11)年、二年半にわたる佐渡流罪を許されて鎌倉に帰った日蓮は、幕府から蒙古襲来についての質問を受け諫言(かんげん)するが受け入れられなかったため、ついにあきらめ甲斐国身延(かいのくにみのぶ)へ引退する。
1282(弘安<こうあん>5)年、身延で得た病をなおすため、常陸(ひたち)の温泉に向かう途中、武蔵(むさし)の池上(いけがみ<現東京都大田区>)でなくなった。
61歳であった。
 日蓮は念仏者は無間地獄(むげんじごく)へ落ちる、真言(しんごん)は亡国(ぼうこく)の教え、禅は天魔(てんま)の仕業として他宗は激しく攻撃し、また権力に抵抗したため、弟子とともに多くの迫害にあった。
また、彼は、末法(まっぽう)のこの世が救い難(がた)く乱れ、穢(けが)れているという認識では他の鎌倉新仏教の祖師(そし)たちと共通していた。
しかし、法然らが、だから現世(げんせ)を捨てて浄土(じょうど)の往生(おうじょう)せよと説いたのに対し、末法のこの時こそ最高の真理が現れ汚れたこの世を改め、迷える人々を救うと説き、それは法華経の説くところを広めることにあるとした点で異なっていた。
(『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』日本史教育研究会 山川出版社 2001年)
京都の町歩きをしていると、八坂神社、清水寺や東福寺、東寺などに観光客が集まるのですが
ちょっと視点を変えると日蓮宗(法華宗)のお寺が多いことに気がつきます。
そしてもう一つ、多いのが(…学生時代にお世話になった(^_-)…)
8章 祇園会の季節
 町々の銭湯

 
 ちょっとゆったりした話をしましょうか。
町湯(まちゆ)・銭湯風呂(せんとうぶろ)のことです。
庶民だけでなく、公家なども好んで町湯に入り、女房衆(にょうぼうしゅう)などの場合、「止湯(とめゆ)」といって、一定時間を買切りにして入ったこともありました。
銭をはらって入る町湯は都市の発達にともなって出現するもので、記録のうえでは平安末期には認められますが、京都では室町・戦国時代にふえています。
もっとも風呂そのものは寺院では古代からあり、中世でも庶民のための功徳(くどく)風呂が用意され、地蔵講(じぞうこう)風呂とか真言講(しんごんこう)風呂のような講風呂ももたれています。
また内風呂(うちぶろ)をもつ公家や武家の場合、仲間同士が各自薪(たきぎ)を持参して風呂を立てて入る合木(ごうぼく)風呂とか、その際、焼き番を交替する巡(じゅん)風呂とか、それをクジできめるクジ風呂などもあり、風呂に入ることがいかに楽しみであったかを物語っています。
そんなときにはかならず風呂から上がって、酒販を喫したものでした。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
 洛北八瀬(やせ)にある竈(かま)風呂は、壬申(じんしん)の乱(672年)のとき、背中に矢が当たって傷を受けた天武天皇(大海人皇子<おおあまのおうじ>)が入って癒(いや)したことから、矢背(やせ<八瀬>)の名がおこったという伝承があります。
土饅頭(どまんじゅう)のような形をしていて、せまい入口を入ると内部は三畳敷(さんじょうじき)ほどの広さです。
そのなかで青松葉を焚(た)き、かまの上部が十分熱したら火を引き、塩水で浸した筵(むしろ)を敷いてその上に木枕をつかって横になり、温まるのです。
したがってこれは一種の蒸し風呂で、湯船につかるのではありません。
 いままで区別なしに使っていましたが、じつはいわゆるフロには2種類ありました。
「風呂」と「湯」です。
風呂というのが蒸し風呂(サウナ)であり、湯というのは、釜(かま)でわかした湯を湯船に入れ、それに入るか洗湯を使うものです。
この二つの語は、実際にはあとになるほど混同して用いられていますが、形式ははっきりと別々です。
 そんなわけで町のなかに出現する町湯・銭湯風呂も両種類あったものと思われますが、後者の湯屋のほうが主であったようです。
記録のうえでは室町・戦国時代、一条室町、正親町(おおぎまち)室町、中御門西洞院(なかみかどにしのとういん)、大炊御門(おおいみかど)東洞院、三条室町、四条東洞院、五条堀河に町湯があり、また記載が簡単ですが、一条、鷹司(たかつかさ)、武者小路(むしゃのこうじ)、あるいは万里小路(までのこうじ)富小路の間、高倉などにもありました。
こうした町湯のある一帯は人家の多いところでしたから、町湯・銭湯風呂の分布を見ることによって町の姿を推測することも可能でしょう。
これによれば北は一条から南は五条までの間、東は富小路から西は堀川までの間に集中していたことが知られます。
洛中法華二十一ヵ本山
 銭湯と同一にはあつかえませんが、中世京都の町衆に深く信仰された法華宗(ほっけしゅう)の寺院の分布も、街の姿を考えるうえで参考になると思います。
日蓮による法華宗は即身成仏(そくしんじょうぶつ)を説き、現世利益(げんせりやく)を強調したことで室町時代、京都や堺の町人の間に急速にひろまったのですが、京都においては、鎌倉末期の永仁(えいにん)2(1294)年4月、日蓮の法孫日像(にちぞう)が西国布教のため入京し、有力町人の帰依(きえ)を得たのがきっかけです。
すなわち翌年、下京の五条坊門西洞院に店をかまえていた大酒屋、柳屋仲興(なかおき)の帰依を得て、その屋敷内に一宇(いちう)を設け妙法蓮華寺(みょうほうれんげじ<妙蓮寺>)と称しました。
屋号により一名柳寺ともいい、また山号の卯木山(うぼくざん)は柳の字を二字に分けたものといいます。
のち四条綾小路(あやこうじ)に移りましたが、これが洛中法華寺院の第一号でした。
 その後、おなじく日像が元亨(げんこう)元(1321)年大宮通上長者町(かみちょうじゃまち)に創建、暦応(りゃくおう)4(1341)年四条櫛笥(くしげ)に移った妙顕寺(みょうけんじ)は、公武の帰依を受け、貞和(じょうわ)元(1345)年に入洛した日静(にちじょう<足利尊氏の叔父>)が六条堀川に創建した本圀寺(ほんこくじ)の六条門徒にたいして、四条門徒と呼ばれ、洛中法華宗の二大勢力となります。
この両派の活躍に刺激され、東国から法華僧がつぎつぎと上洛、京都は最大の活躍場所となるのです。
永徳(えいとく)元(1381)年に入洛した日什(にちじゅう)は、六条坊門室町の豪商天王寺屋通妙(つうみょう)の外護(げご)を得てその邸内に妙満寺(みょうまんじ)を建て、また永和(えいわ)4(1378)年には妙顕寺の日実(にちじつ)が室町の豪商小野妙覚を檀越(だんおつ)に妙覚寺(みょうかくじ)を分立、おなじく日像門流の日隆(にちりゅう)は永享(えいきょう)元(1429)年、六角室町の豪商小袖屋宗句(こそでやそうく)の帰依を得て内野(うちの)に本応寺(ほんのうじ)を建立(こんりゅう)しましたが、同5年、信者の如意王丸(にょいおうまる)から六角大宮の土地を寄進され、ここに移転、寺号も本能寺(ほんのうじ)と改めています。
のちに織田信長が明智光秀に襲われた、あの本能寺です。
 以上その一部を述べたにすぎませんが、激しい折伏(しゃくぶく)活動もあって町衆の間に浸透し、法華宗が「京中に充満す」とか、「京都の半分は法華宗」などといわれるほどとなりました。
こうして最盛期、16世紀半ばの天文初年には、諸派の本山は二十一ヵ寺にのぼり、洛中二十一ヵ本山と称されたものです。
それらの所在地を見ますと、北は一条から南は六条、東は富小路から西は櫛笥に及んでいますが、二条以北の六ヵ寺、六条の二ヵ寺を除く十一ヵ寺は三―四条の間にありました(二ヵ寺不詳)。
これは下京のそのあたりが、檀越や信者の多い地域だったことを示唆しています。
天文法華の乱
 しかしこうして急成長をとげた法華宗ですが、旧仏教の天台宗はもとより、北陸地方から畿内(きない)にもひろがりをみせていた一向宗(いっこうしゅう)とも対立をひきおこします。
天文(てんぶん)元(1532)年8月の法華一揆(ほっけいっき)がそれです。
当時山科(やましな)には、寛正(かんしょう)6(1465)年東大谷(ひがしおおたに)の本願寺を山門(延暦寺)に破却された蓮如(れんにょ)が、文明10(1478)年から5年の歳月を要して建立した寺院(山科本願寺)がありましたが、その一向宗が法華宗を「退治」すると聞き、逆に法華衆徒が出撃して山科本願寺を焼いたのでした。
法華一揆の主体は上京・下京の信者町人で、その勢三、四千人であったと申します。
 ところがそれから4年後の天文5(1536)年、こんどは山門の大弾圧を受けるのです。
天文法華の乱といわれるものですが、きっかけはこの年3月、ある法華門徒が延暦寺僧の説法を聞いてこれを論破したことから、7月、大挙襲撃され、法華門徒の町人たちは二十一ヵ本山に集結して防戦したのですが、敗れてしまいまいした。
この乱により下京は全焼、上京もほぼ三分の一が焼失、法華宗寺院も京都を追放されてしまいます。
帰洛が許されたのは6年後ですが、そのときは十五ヵ寺でした。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
今朝の父の一枚です(^^)v
えりの気象日記でてるてる坊主は「男の子?、女の子?」という問題が出ていました(*´▽`*)

16日 晴れ間の見られるところも」 (7月15日)