2020年7月2日木曜日

梅雨の中休みかな?

歩き始めは、曇っていて風も涼しかったのですが
途中で、青空になると一気に真夏になりました…
子どもの頃は、よく出会ったけど…

ケラ〔ケラ科〕
体色は茶褐色。頭部は卵型で細長い。
前脚は扁平で太く、土を掘るのに適した形態になっている。
雌の産卵管は退化している。
●体長は30mm内外。
土中のトンネル生活に適応したためにモグラのような体型になった。
英語でも mole cricket(モグラコオロギ)という。
●日本全土に分布する。田畑などの土中に住む。
●幼虫も成虫も1年中見られる。
●都市部でも今ほど道路が舗装されていなかった時代には、春や秋の夕暮れになると街灯のあたりでジーと雄の鳴き声がよく聞かれた。
子供のころ、この鳴き声をミミズの鳴き声と教わった。
雑食性で農作物に害を与えることもある。
(『校庭の昆虫』田仲義弘・鈴木信夫 全農教 平成11年)
昨夜の歴史秘話ヒストリア「スーダラ節が生まれた」を見ていると
植木等さんのお父さんについて紹介されていました。
7月31日に発病する直前、7月27日に奈良県御所市柏原にある「水平社博物館」を訪ねていました。
展示品の中に植木等さんの本が展示されていました。
夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』(朝日文庫 1987年刊)だったかな?
その時は、品切れになっていたので諦めていたのですが、番組を見て検索するとちくま文庫から出版されていました。

植木等さんがスーダラ節を歌うことを悩み、父、徹誠さんに相談すると
親鸞聖人の教えに通じると背中を押してくださったそうです。

悪性(あくしょう)さらにやめがたし 心は蛇蝎(だかつ)のごとくなり」(正像末和讃)

7月7日(火)午後3時08分から再放送があります。
また、番組のブログ「スーダラ節が生まれた」に内容が紹介されています。

部落差別や様々な差別などを知る場であった「大阪人権博物館」は、ゆかりの地を大阪市によって奪われてしまいした。
7月2日
 新田義貞が越前の藤島で戦死した。 1338(延元<えんげん>3、暦応<りゃくおう>元)年

 1336年、新田義貞(にったよしさだ)は後醍醐(ごだいご)天皇の皇子を奉じて越前(えちぜん)に向かった。
近江(おうみ)から木芽峠(きのめとうげ)を越える義貞軍は、10月半ばというのに異常な寒さと吹雪に悩まされ、ようやく敦賀(つるが)の金(かな)ケ崎(さき)城に入った。
しかし越前守護の斯波高経(しばたかつね)に攻められて、翌年3月に落城、皇子や長男を失って北に逃れた。
 義貞はやがて勢いをもり返して、府中(ふちゅう<武生(たけふ)市>)を攻め落した。
しかし閏(うるう)7月2日、藤島城(福井市)攻撃のためにわずかな手勢(てぜい)をひきつれ水田のあぜ道を進む途中、敵の矢をうけて田に落ち、南朝方の大将としてはあっけない戦死ととげた。
『太平記(たいへいき)』は義貞の戦死を「犬死(いぬじに)」と酷評している。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
京都の通史を知るのに便利だなと思っているのが『物語 京都の歴史 花の都の二千年』です。
その中かから「建武の新政の京都」、「新政の瓦解」を転記しますφ(..)
第四章 南北朝・室町・戦国の京都
 一、公武の政権所在地としての京都
   建武の新政の京都

 
 倒幕の勢力によって六波羅探題が滅亡したことを、隠岐から脱出していた後醍醐天皇が聞いたのは、伯耆(ほうき)国船上山(せんじょうさん)においてであった。
ただちに光厳(こうごん)天皇の廃位と関白以下の停廃を行い、年号を元弘(げんこう)に戻して元弘3年(1333)とし、すべては元弘の後醍醐の政策に返すこととした。
やがて途次に赤松円心や楠木正成の出迎えを受けて、6月5日、二条富小路(とみのこうじ)の御所に入っている。
(『物語 京都の歴史 花の都の二千年』脇田修、脇田晴子 中公新書 2008年)
 新政の中央における施策としては、記録所・恩賞方・雑訴決断所・武者所の設置である。
記録所は後三条天皇以来の親政の荘園政策のシンボル的機関であるが、天皇親裁をまず基本とする新政と、民事訴訟を決裁する雑訴決断所の設置にともなってそちらに重点が移っていったようである。
これらの役所は、二条の内裏を中心に二条大路を挟んで万里小路(までのこうじ)から京極にかけての場所に置かれた。
 しかし、この新政が1年と経たないうちに矛盾を露呈し始めたのは、「二条河原落書」の風刺するとおりであった。
楠木正成など倒幕の功臣たちを配置した雑訴決断所は、

 器用堪否(きようのかんぷ<能力の有無>) 沙汰(さた)モナク モルゝ人ナキ決断所

と皮肉られた。
後醍醐の土地政策の失敗、その改変などで、混乱を重ね、洛中は、

 本領ハナルゝ訴訟人 文書(もんじょ)入タル細葛(ほそつづら)

と証文を入れた葛筥(つづらばこ)を担いで諸国から上ってくる訴訟人に満ち満ちたのである。
能楽の「砧(きぬた)」は、訴訟のために長々と在京する武士、その留守を守る妻が恨みの末に死んでしまう悲劇を謡っている。
また、「鳥追舟(とりおいぶね)」は、その留守に家来が家を乗っ取って、主人の妻子を追い使う話である。
狂言「鬼瓦(おにがわら)」は訴訟に勝った武士が、お礼に因幡堂(いなばどう)に参り、軒の鬼瓦を見て、それとそっくりだと故郷の妻を思い出すという喜劇である。
このように、能楽・狂言に書かれるほど、ことは社会問題化していたのである。
 京都の都市政策については、市棚等の支配権をもつ東市正(ひがしいちのかみ)の職を、半ば世襲化していた検非違使の中原氏を廃して、功臣名和長年(なわながとし)をあてた。
後醍醐は乱以前にも、飢饉にあたって二条町で米の安価放出を行ったり、都市政策に力を注いでいたから、何らかの構想をもっていたかもしれない。
しかし、そこまで実現することなく瓦解してしまったのである。
後醍醐の大内裏新造計画の新銭鋳造、そして政策の絶えざる改変は、後醍醐に対する不信感をたかめ、足利軍の京都攻めにあたって守備の軍陣の督促、恩賞の触れに対して、

 カクバカリタラサセ給フ綸言(りんげん)ノ汗ノゴトクニナドナガルラン

と、綸言汗の如しを皮肉って、垂らすと誑(たら)すを掛けた落首が読まれる結果となった。
 もっとも大きな不満は、世襲化しつつあった官職や土地領有権を否定し、後醍醐の決定に任せようとした点である。
それに対して、世襲の所領を幕府に安堵(あんど)されて、忠節に励んでいた諸国の武士たちが不満をいだいたといわれるが、公家たちもまた、世襲化し、家職化しつつあった役職を改廃されて、動揺したわけである。
 「朕(ちん)の新儀は未来の先例」と胸を張った意気込みはよかったのだが、実質がともなわなかった。
佐藤進一氏は、延喜聖代に帰るという単なる復古主義ではなく、宋代の官僚制の上に立つ皇帝専制政治をめざしたのだが、基盤としての士大夫(したいふ<官僚>)を輩出する地主層が未成熟だったから理想倒れに終わったという卓見を出されている。
 新政の瓦解

 知られているように、新政の瓦解は、諸国武士層の代表として幕府を作ろとする足利尊氏と大塔宮護良(もりよし)親王との確執、それに絡んだ天皇寵愛の阿野廉子(あののれんし)、そして、いずれは天皇方と足利方の闘争となっていく。
建武3年(1336)2月、楠木正成と新田義貞に敗れていったん九州に退いた足利尊氏が、はや4月には、上洛の途についた。
6月には北朝の光厳院を奉じて京都に入り、東寺に陣を定めた。
弟の直義(ただよし)は三条坊門の御所に陣を置いている。
6月13日からの洛中合戦は、内野と法成寺(ほうじょうじ)河原と八条坊門大宮のあたりが激しかった。
この合戦で「三木一草(さんぼくいっそう<結城、楠木、伯耆の名和、千種>)」など宮方の目ぼしい人々はみな討ち死にしたのである。
これで政権は一応尊氏に帰したかと思われた。
しかし、後醍醐天皇は吉野にはしり、以後細々ながら、60年近く両統並立の内乱時代が続くのである。
 しかし尊氏は、本領地の安堵、恩賞・感状の発布などで諸国の武士の心を引きつけ、新田義貞、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の戦死による南朝勢力の倒滅により征夷大将軍として幕府を立てて、体制を固めていったのである。
その基本方針は鎌倉幕府の土地政策の復活であった。
さて、暦応(りゃくおう)2年(1339)、後醍醐天皇が吉野で亡くなった。
尊氏は天皇の冥福を祈るためとして、大覚寺統の亀山殿を寺とすることを北朝に奏上し、反対を抑えて天龍寺とした。
それは南朝の終焉を読み取ったものであり、同時に大覚寺統の拠点である亀山殿を消滅させる意味ももっていたであろう。
その費用弁出のために、開山の夢窓国師(むそうこくし)の提案によって、貿易の天龍寺船が発遣されたのは有名である。
 一致して幕府を築いてきた尊氏・直義兄弟の不和、直義の毒殺に帰する観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)、その虚をついた南朝方の京都侵攻などを織り込んで、段々と収束していった。
その動乱の叙事詩『太平記』は、二代将軍義詮(よしあきら)の急死によって、嗣子(しし)の10歳の義満(よしみつ)を補佐するために、細川頼之(よりゆき)を執事職に任命したところで終わっている。
足利幕府はこの生まれながらの将軍義満の時に最盛期を迎えるのである。
(『物語 京都の歴史 花の都の二千年』脇田修、脇田晴子 中公新書 2008年)
今朝の父の一枚です(^^)v
途中で青空が見えました。

梅雨の中休み 晴れ間見られそう」(えりの気象日記 7月1日)