2014年6月30日月曜日

大阪天満宮 大将軍社

今日は,午前中に循環器科へ定期通院のあと出かけました.
参詣道は大勢の人…
【蛭子(えびす)門の由来】
当宮には六つの門がありそれぞれに独自の用途と由来を持っている
当門は入ってすぐ左手に「戎(えびす)社(蛭子社)」が祀られていたことから「戎門」と呼ばれてきた
江戸時代の「戎社」では毎年の正月・五月・九月の十日に「蛭子尊遷殿神事」を斎行しておりこの年三回の「十日えびす」には,数多くの参拝者が当門を利用した
その後「戎社」は境内西北に移されたが「戎門」の名は変わらずに今に伝えられている
(説明板などを転記しますが,入力ミスがあると思います(^^ゞ…)

大阪天満宮の大門です.
表門の随身さん
お寺では,仁王様が阿吽のお姿で守っておられますね.
向って右側を「矢大臣」
左を「左大臣」と呼ぶそうです.
大阪天満宮に来たのは,祭事に「大将軍社道饗祭」が行なわれると書かれていたからです.

十二支の「酉」に描かれているのが鶏でなく「鳳凰」なんですよね.
てんま天神梅まつり散策と梅香席鑑賞 」(PDF)が参考になりますし,
この記事を読みながら訪ねています.
本社
【登龍門】当宮は天保八年(1837年)の大塩の乱で本殿及び多くは社殿が焼失してその後弘化二年(1845年)に再建され現在に至っております
その当時から東・西唐門両側に龍の図柄の金燈籠がありましたが戦前の金属の供出でなくなり台座を残すのみとなっておりました
この度菅原道真公千百年大祭記念として篤志の方の奉納により昔ながらの図柄の燈籠が再現されることとなりました.
屋根の部分は威勢よく跳ね上がる鯉胴体には龍が巻き上がり逆巻く水面から天空をめざし舞い上がろうとしている勇姿は一見奇異に見えますがこの唐門こそ登龍門そのものであります
というのも龍門は中国の黄河上流で鯉などがその下に集まり多くは登り得ないが登れば龍となるという故事に基づいています
それが転じてそこを通り抜ければ必ず出世するといわれる関門の意となります
【大将軍社】
八衢比古(やちまたひこ)神・八衢比売(やちまたひめ)神・意富加牟豆美(おほかむづみ)神・久奈斗(くなど)神
当宮地主神として孝徳天皇の御代豊碕皇居の四方に鎮護神として奉祀せらる
現地名 南森町は往古大将軍の森と称せられた
昔は,北森町もあったようです.
【蛭児遷殿】
祭神 蛭児大神
祭日 一月十日
由緒
常は本社相殿に奉斎されている
一月十日には遷座ののち十日戎祭が斎行される
御祭神蛭児大神は戎・恵比須などとも書き福の神
漁民・商家の守護神として崇敬される

金燈籠

授与所でお聞きすると,大将軍社の道饗祭は,午前9時半にあったそうです(T_T)
住吉社
上に見えるのは
「鷽(うそ)」は天神様の愛鳥であったと伝えられる
「鷽守り」は一月二十四・二十五の両日の梅花際に参拝者へ授与される
楳咲きて
    よろこぶ鳥の気色かな
「楳(うめ)」は「梅」
松尾芭蕉五十一歳の作
星合橋(ほしあひはし)を渡って

お茶に梅ジュースをサービスしてくださった!(^^)!
室内よりも外でいただくことにしました(*^ー゜)
すべらんうどんのカレーうどんです(*^▽^*)
何故,「すべらんうどん」と命名されているのかはHPにアクセスしてください(*^ー゜)
昔のカレーうどんは,こんな味だったなと思います(*^-^*)
「星合の池」
毎年7月7日の七夕の日に星愛七夕まつりというイベントが行なわれているそうです.
天神天満繁昌亭
もう一度,天満宮に戻って
青銅牛は,「びんずる(賓頭盧)さん」のように撫でられて光っています(*^▽^*)
行年や
  薬に見たき
      梅の花
松尾芭蕉五十一歳の作
「菅家廊下」には,菅原道真の生涯を15場面,人形で紹介しています.
無形文化財保持者であった故小島与一氏の作品で,太宰府天満宮から寄贈されたそうです.
もう少し整備されていたらと思いました…
授与所にあった冊子『大阪天満宮の歴史』(300円)

   一 創祀(そうし)の由来
当宮が創祀されたのは,平安時代後期の天暦三年(949)のことです.
しかし当地には,それ以前から大将軍社が祀られており,当宮の創祀伝承もこの大将軍社との深い関わりを抜きにしては語れません.
大将軍社がこの地に祀られたのは,孝徳天皇が長柄豊碕(ながらとよさき)宮(現,大阪市中央区)に遷都された白雉(はくち)元年(650)のことと伝えられます.
遷都に際し,宮城の四隅に祀られた皇城鎮護の社に一つとして,都の西北に位置したのが大将軍社だったのです.
当時,この付近は未だ「樹木多く生い茂り,小池なども所々にこれあり」(寺井家『家事記録』)と記されるような淋しい場所でしたが,都への道筋にあたるとともに,近くまで大阪湾が深く入り込んだ水陸交通の要衝でもあったのです.
そのため,この地では毎年の六・十二月の晦日に,鬼気(もののけ)が都へ侵入するのを防ぐ道饗祭(どうきょうさい/みちあえのまつり)が行なわれていました.(後略)