季節は「霜降(そうこう)」と言うこともあって急に寒さを感じるほど…
季節を間違えたのかスモモの花(↑)やリンゴの花(↓)が咲いていましたが、
涼しくなったと思ったら暑くなり、今朝のように寒くなったりで
季節は、いつなんだと私も悩みます…(@@;)昨日は、〝京都 秋の都大路を彩る「時代祭」〟(関西NHK 10月22日)
10月22日
時代祭
平安神宮 左京区岡崎西天王町
葵祭・祇園祭とともに京都三大祭の一つ。
午前中、神幸祭の神事のあと、鳳輦(ほうれん)をはじめとする神幸列が京都御苑に向かい、苑内で行在所祭が営まれる。
正午、祭の中心をなす時代風俗行列が整えられて建礼門前を出発し、平安時代から明治維新までの各風俗の変遷を示す華やかな時代絵巻を繰り広げながら、平安神宮へ還幸し、夕刻、還幸祭の神事が営まれて祭は終了する。
明治28年、平安奠都(てんと)千百年紀念祭の事業として平安神宮が創建された際、市民による平安講社が組織されて始められた祭で、この日は桓武天皇が長岡宮から遷御した日にちなむという。
時代風俗行列は当初、山国隊を先頭とする六行列であったが、大正10年には8行列、昭和6年には10行列となり、現在は18行列、参列者は約2000人に及び、堺町御門から烏丸通・御池通・川端通・三条神宮道を経て平安神宮までの約4.5キロを練り歩く。
…後略…
(『京都歳時記』宗政五十緒・森谷尅久編集 淡交社 昭和61年)
「行列の概要」(平安神宮) 第2章 「牡丹の花」の武将
後白河のいらだち
徳子は承安2年2月中宮になり、高倉天皇死後の養和元(1181)年建礼門院の院号宣下があり、女院になった。
宮廷では明るくおおらかに過ごしたという推測もあるが、彼女の人柄を明らかにできる史料は皆無に等しい。
一方高倉には小督(こごう)との有名な純愛物語がある。
(『平家の群像 物語から史実へ』髙橋昌明 岩波新書 2009年)『平家物語』によれば、徳子に仕えた女房小督は双(なら)びなき美人であり琴の名手。
清盛の女婿(じょせい)藤原隆房に見初められたのち、高倉の寵愛を受けるが、婿二人を盗られたとする清盛の怒りを聞いて内裏を出、嵯峨野に隠れ住む。
八月十日余りの月の夜、天皇の命を受けた源仲国(なかくに)は、小督の弾く「想夫恋(そうふれん)」の琴の音を頼りに隠れ家を尋ねあて、連れ戻す。
内裏の人目につかぬところに隠し置かれ姫宮を生むが、清盛の知るところとなり、尼にされたうえ追放されて、嵯峨野に住んだという(巻六「小督」)。 高倉天皇の実像は結構多淫だったようだが、平家にとって幸いにも、それらの女性との間に、男子が生まれなかった。
徳子も入内(じゅだい)以来5年、6年経っても懐妊の兆しがない。
このことは大変重要な政治上の問題をはらんでいた。
徳子が皇子を生まなければ、皇位の継承に目途(めど)が立たないからである。
王家の家長としては、皇統の連綿を実現するのが絶対至上の命令で、皇位継承者不在のままでは、王家は危殆(きたい)に瀕する。 政治家の権力の核心は、つまるところ人事権にあるだろう。
院政の主宰者としての治天の君にとっても事情は同じで、その究極が皇位継承者指名権だった。
もともと後白河は、徳子の入内には気乗り薄で、清盛の攻勢に押しきられた感があった。
当時の政界の力関係を考えれば、清盛の娘に男子が生まれたら、次期天皇に立てざるをえないからである。
だから皇子が生れないのを理由に、あまたいる後白河の皇子を東宮に指名するという手がある。
だがそれは清盛の反発を招くだけだろう。
安元2(1176)年という時点で高倉16歳、徳子は22歳、二人はまだ若い。
もしその後男子が生まれたらどんな修羅場になるか。
小督の出家は史実だが、清盛の意志によるものかどうかわからない。
筆者が清盛なら断固追放するだろう。 皇位継承者が平家の皇子に限定されざるをえないとすれば、後白河の権力は空洞化する。
しかし焦眉の問題は、そのことですらない。
皇位継承者指名権の発動が、皇子が生まれる保証もないまま、いたずらに先延ばしを余儀なくされている。
王者最大の権能が侵された。
後白河にとって、平家への最大の不満、清盛に向けられた怒りの根はそこにあった。 この不満の爆発をかろうじて抑止していたのが、愛する后建春門院滋子の存在である。
が、彼女は安元2(1176)年7月、糖尿病がこうじて亡くなった。
天子が父母の喪に服する諒闇(りょうあん)期間中の10月23日、後白河の第八皇子が密かに天皇の住む閑院内裏(里内裏)に参った。
それから一週間経たない10月29日、今度は別の後白河皇子(第九皇子)参内の噂が流れ、翌月二日時忠につれられて姿を見せた。
高倉天皇はいずれの皇子も猶子(養い子)にしている。 高倉が後白河の皇子二人を猶子にしたのは、徳子に皇子が生まれない事態を予想し、皇嗣の候補として準備したのである。
それは時忠・親宗という二人の兄弟が関与していたことからもわかるように、亡き建春門院も同意していたことで、もちろん後白河の強い希望だった。
親宗は、後白河の近臣として知られた人物だからである。
滋子の死により、院・平家の対立という奔流をせき止めていたダムが決壊し始めた。 治承2(1178)年11月12日、入内して7年目の徳子がようやくにして皇子を生む。
清盛が待ちに待った皇子であり、言仁(ときひと)と命名され親王になり、12月15日には東宮に立てられた。
のちの安徳天皇である。
続いて翌年2月28日、高倉天皇の典侍であった藤原殖子(のちの七条院)が第二皇子(守貞<もりさだ>親王)を生んだ。
その乳母には徳子の実兄知盛の妻と頼盛の娘があてられ、養育は西八条亭で行われた。
言仁に万一ある場合を予想して、控えとされたのであろう。
4月16日、それらを見届けたかのように、後白河院の第八皇子が出家した。
長じて仁和寺二品(にほん)、道法(どうほう)法親王と呼ばれる人物である。
「内々猶予の儀ありて出家を抑留」していた第八皇子の、「東宮降誕の後」の出家は(『山槐記』)、彼を天皇の跡継ぎに立てる必要がなくなった結果である。 徳子は高倉が小督との間にもうけた皇女(範子<はんし>内親王)とも猶子の関係をもっていた。
これらは徳子の腹でない高倉の子女が、徳子の猶子もしくは一門の養育という形で、平家の管理下に置かれていた事実を示している。
院政期になると、院が天皇の後宮を差配することによって、皇子誕生の過程に深く介入し、さらに皇位のゆくえも自ら決定するという皇位継承システムができあがっていた。
それが、ここにきて藤原道長の時代に回帰したかのように、その実質を外戚の家(平家)に握られる状況になった。
(『平家の群像 物語から史実へ』髙橋昌明 岩波新書 2009年)今朝の父の一枚です(^^)/
モズに再会できて大喜びでした!
台風30号の動きが心配です。
父も私も気圧が下がると…
気圧の変化が自律神経に影響を及ぼす
気象病の原因と対処法
天気が原因で体調は悪くなる
低気圧が近づくと、頭痛やぜんそくの発作が出たり、冷えて関節が痛んだりする人がいますが、決して気のせいではありません。
気圧や湿度、気温などの気象の変化によって人体には不快な症状が引き起こされることがあります。
このような天気が原因で起こる体の不調を「気象病」といいます。
人の体には、外の環境が変化しても常に体温などを同じ状態に保とうとする働きがあり、自律神経が司っています。
しかし、自律神経の働きがうまくいかないと、気温や気圧が急に変化したときに血管や気管支などの拡張や収縮が追いつかず、不調を感じるのです。
●気象病の主な症状(省略)
●気象病を発症する要因(省略)
●気象病の症状を和らげる方法
・1分でできる耳のマッサージ(省略)
(『今さら聞けない 気象の超基本』今井明子 朝日新聞出版 2025年)今日から、心臓リハビリ(週1回)を再開しましたp(^^)q
エルゴメーター(自転車)を漕いでいるときの心電図・血圧・酸素飽和度などを右の機械で測ってもらっています。
加齢とともに心機能が落ちていくのですが、少しでも低下するカーブがゆるくなるように
普段の公園の散歩だけでなく、理学療法士さんに無理のない運動量のレベルをアドバイスしてもらっています。
久しぶりの心臓リハビリなので
運動時間30分ほど、消費カロリーは16.50kcal、回転回数は1654回でした。












