2025年9月25日木曜日

墓参りの後に

今朝は、花屋さんで仏花を買ってお墓参りに行きました。

更新しました(_ _)
いつものように「中之門(なかのもん)」から境内に入っていきました。
 地蔵山(じぞうやま) 創建明治四十年代

 地蔵山は明治四十年代、大満直心(おおみぞじきしん)尼の発願により近隣および境内各所に祀られていた有縁無縁の地蔵尊を集めて、この小丘に合祠したのが始まりと伝えられている。
 此の山には約百五十体の地蔵尊や石仏が奉安されており、一段高い場所には、ご本尊として眼病に霊験ありと伝えられる立江(たつえ)地蔵が祀られている。
 西側には天王寺七名水の一つ「逢坂清水(おうさかしみず)の井戸」や「融通(ゆうづう)地蔵」を祀る祠があり、南側には檀信徒が永代奉安している北向地蔵尊がある。
 また、石畳をはさんで地蔵山の北向かいにあるのは無縁如来塔といい、石仏や縁の絶えた墓石が積まれ、中心に恒久の平安を祈るかの様に如来像が立っている。

 ○ご真言
  おん・かかか・びさんまえい・そわか
 ○縁日
  毎月二十四日(地蔵尊供 法要あり)
今日は、五智光院(ごちこういん)永代祠堂法要。
祖父母、母、義弟の法要をしていただきました。
父も妹も足が悪いので代表でお参りしてきました。
五智光院は空襲を免れています(「四天王寺の歴史」)
 相輪橖(そうりんとう)

五重塔や三重塔の相輪部分だけを塔にしたような、珍しい建築。
四天王寺は現在、和宗総本山であるが、かつては天台宗だった。
相輪橖は天台宗の比叡山延暦寺や日光山輪王寺などにわずかにみられる。
(『大阪名所図解』画・綱本武雄、解説・酒井一光 髙岡伸一 江 弘毅 140B 2014年)
赤い←印の塔は、

 五重塔

古社寺ファンなら、鉄骨鉄筋コンクリート造(ぞう)の五重塔と聞いて少々残念に思うかもしれないが、それが四天王寺創建当時・飛鳥時代の時代考証の成果だとすれば、また見方も変わってくるだろう。
四天王寺中心伽藍をみた後は、奈良・法隆寺の西院伽藍(五重塔・金堂一帯)を訪ねてみたい。
雲斗雲肘木(くもとくもひじき)、卍崩(まんじくず)し高欄(こうらん)など、両者の共通点探しが日本の寺院建築意匠のルーツ探しになるだろう。
(『大阪名所図解』画・綱本武雄、解説・酒井一光 髙岡伸一 江 弘毅 140B 2014年)
法要の後、墓参りをしました。
お彼岸ということもあってお参りをする人でいっぱいでした。
第2部 ◎平安時代の四天王寺
 コラム【6】四天王寺の日想観 

         南谷恵敬(みなみたにえけい)
 一 彼岸中日

 お彼岸の中日(ちゅうにち)、春分・秋分の日は、昼と夜の長さが同じになる。
太陽が真東から出て真西に沈む、そういう日である。
この日は仏教徒にとって非常に大切な日となっている。
なぜかというと、太陽の沈む「真西」十万億土(じゅうまんおくど)の地に阿弥陀如来(あみだにょらい)のおられる極楽浄土(ごくらくじょうど)がある、とされるからである。
この極楽浄土では阿弥陀如来が常時説法され、その声を聴いて誰もが安楽に生活している。
その地面は金銀や宝石で造られ、素晴らしく美しい花や木が生え、立派な楼閣がたくさん建っている。
そして、その木々の葉の擦れる音も美しい鳥たちのさえずりもすべて仏の説法になる、というのである(図1 極楽浄土の様子<当麻曼荼羅図(部分)>、四天王寺所蔵、鎌倉時代:省略)。
そのような素晴らしい浄土に誰もが生まれたいと願う。
では、どのようにしたらその極楽という素晴らしい世界に行けるのか。
その方法が『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』(略して『観経(かんぎょう)』)という教典に説かれている。
(『聖徳太子千四百年御聖忌記念出版 聖徳太子と四天王寺』編集:和宗総本山四天王寺 監修:石川知彦 法蔵館 2021年)
 二 観無量寿経の日想観

 『観経』は、5世紀ごろ、中国劉宗(りゅうそう)の畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)が漢訳したされる教典で、インド・マガダ国の阿闍世王(あじゃせおう)の悲劇と極楽往生のための観想法(かんそうほう)を説いたものである。
阿闍世王の物語というのは、マガダ国の太子阿闍世が提婆達多(だいばだった)にそそのかされ父の頻婆沙羅王(びんばしゃらおう)を幽閉、餓死させようとした《王舎城(おうしゃじょう)の悲劇》と呼ばれるもので、さらに、わが子の非道を嘆き、救いを求めた韋提希夫人(いだいけぶにん)の思いを釈迦(しゃか)は神通力で捉え、極楽浄土への往生すべとして十六観想という阿弥陀如来とその浄土の荘厳(しょうごん)と浄土への往生の行法を説いた、劇的で壮大な教典である。
この十六観想の最初に説かれているのが日想観(にっそうかん)である。
本文には次のように記されている。
「仏、韋提希に告げたまわく。汝及び衆生まさに心を専らにして、念を一処に繋(か)け西方を想うべし。いかんが想を作(な)さむ。凡そ想を作すとは一切衆生みな日の没するを見よ。まさに想念を起こして正座して西へ向ひ、諦らかに日を観ずべし。こころを堅住し、想を専らにして移らざらしめて、日没せむと欲して、かたち懸鼓のごとくなると見よ。すでに日を見おわりなば、まなこを開かむに、皆明了ならしめよ。是を日想観とし名づけて初観という」
(釈尊が韋提希夫人に告げておっしゃった。「汝および衆生は、まさに心を一つにして、想いを唯ひとところに集中して西方(さいほう)極楽浄土を願いなさい」と。そこで夫人は「どのようにしたら、そのような想いをなすことができるでしょうか」と質問された。釈尊は「およそ西方極楽浄土を想うとは、皆、太陽が西に沈む行くさまを見なさい。西に向かって正座して明らかに夕陽を観じなさい。心を集中して西方極楽浄土を想い、その想いを散乱させることなく、まさに沈まんとする夕日が天空に懸かる鼓のようであることを見なさい。そのようにして夕日を見終わったならば、目を閉じて、目を開けなくても真っ赤な夕日が見えるようにしなしさい。是を名づけて日想観という」と)。
 このように、西に沈みゆく夕日を見ること、そしてその情景が目を閉じても浮かぶようにすること、これが日想観であり、極楽往生の第一歩である、というのである(図2 日想観<当麻曼荼羅図(部分)。四天王寺所蔵、江戸時代>:省略)。
『観経』ではこれに続けて、水想観(すいそうかん)、地想観(じそうかん)、宝樹観(ほうじゅかん)などの十二観、つまり阿弥陀如来の姿や両脇侍(りょうわきじ)の観音菩薩(かんのんぼさつ)・勢至(せいし)菩薩の姿、浄土全体の情景を想いうかべるようにしなさいと書かれている。
そして、最後に、三輩観(さんぱいかん)といって、極楽往生する時、阿弥陀如来や極楽の聖衆(しょうじゅ)が迎えに来られる、これを来迎(らいごう)というが、その来迎のさまは生前の功徳のあり方により九段階あって、臨終者によって差がある、それを想いうかべよ、と説く。
しかし、なかなかそういうところまで観想するのは難しいため、まずは沈みゆく夕日を観想する、あるいは、実際に西に沈みゆく夕日を眺めるという行が積極的に行なわれた。

 …後略…

(『聖徳太子千四百年御聖忌記念出版 聖徳太子と四天王寺』編集:和宗総本山四天王寺 監修:石川知彦 法蔵館 2021年)
四天王寺からもう一つの目的地に向かっていると途中に「茶臼山」。
これまでのような酷暑だったら上がる気がおきなかった(^_-)

発掘された茶臼山本陣跡」(大坂城豊臣石垣公開プロジェクト)
昔、上がった記憶があるのだけど
その当時とはかなり違っていました。
整備されていて真田幸村への愛が溢れていました(^_^)v
転記しているとかなり時間がかかるので一部だけです。

 真田幸村名言 

関東勢百万も候へ、男は一人もいなく候

定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候。

十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか

恩義を忘れ、私欲を貪り人と呼べるか。

などなど名言の背景などが詳しく説明されていました。
もう一つの目的地
3月1日にリニューアルオープンしてからやっと訪ねることができましたヽ(^。^)丿
振り返るとかなり高台に立地していることが分かります。

大阪市立美術館(おおさかいちりつびじゅつかん)」(文化遺産オンライン)
特別展「NEGORO 根来 - 赤と黒のうるし」が開催中です。
四天王寺から歩いてきたので、
休憩を兼ねて腹ごしらえをすることにしました。
館内のカフェでビーフカレーです(^_-)
赤米というのが珍しいな!
この赤米の産地はどこか分かりませんが
たとえば「小佐の赤米・献上米」(兵庫県養父市八鹿町小佐地区自治協議会)
季節野菜の彩りもよかった(^_^)v
カレーポットでいただくのは久しぶりです。

今読んでいる本は、小松左京の『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記

「青春記」に書かれなかったこと〟(小松実盛)にある「漫画家」としての小松左京を知りたくて買ったのですが
読んでいると1970年の万博と現在の万博の違いを考えてしまいます。

日本万国博覧会の概要」(万博記念公園 太陽の塔オフィシャルサイト)
入場者数:6421万8770人
1日の最高入場者:83万6千人
平均入場者数:35万人

70年の万博は、高校の遠足で一度だけ入場しました。
会場入口で集合していた時の記憶だけ
何を見たのか覚えていません(;´Д`)
昔から行列に並ぶのが苦手だったので
パビリオンなどに入館せずブラブラしていただけかな?

来場者数と入場チケット販売数について」(EXPO2025 公式ブログ)
館内撮影禁止だとばかり思っていましたが、中には撮影できる展示品もあります。
青銅鍍金銀 羽人(うじん)」(デジタル大阪ミュージアムズ)

こんな説明が書かれていました(一部)
学芸員の方が楽しんでいる(^_-)

 履歴書 2025年3月1日現在

 ふりがな うじん
 氏 名  羽人

 性別 不明

 学歴・職歴
1~2世紀?月 中国の華北に生まれる
1~2世紀?月 六博(すごろく)の算木の容器持ちとして勤務
1~2世紀?月 退職
19××年×月 山口謙四郎さん宅に寄宿
1980年 9月 大阪市立美術館にて勤務開始
       この間、展覧会に出演し、大活躍
2025年 3月 大阪市立美術館の広報大使に就任
      現在に至る

 免許・資格
1~2世紀?月 仙人の資格あり。羽はないけど、飛べます。
 自己PR、アピールポイントなど
 長らくサービス業に従事しておりましたため、気遣いの「UJIN」と呼ばれています。
「UGAJIN」ではありません。
お仕えいたしました方には、西王母様、東王父様、はたまた鳳凰さんなど、各種の神々がおります。
仙草やお団子を給仕することはもちろんのこと、龍車の先導役もいたしました。
何せ私、飛べるのですから。羽はないのですが……ふふ。
ボードゲームが得意です。六博というゲームです。
かつて仲間たちと夜通し興じたものです。
今は、その仲間も中国に2人が残るのみですが。寂しいものです。
私、跪(ひざまず)いて手を広げおりますが、これ、実は、六博の算木を抱える癖が高じて、職業としてしまった名残なのです。
俗界では、算木の容器を抱えていたのですね。
やはり高貴なお方の傍らで。
だからよく見てください、私の身体、金、銀、銅でできているのです。
お金がかかっているのです。オリンピックで言えば三冠ですね。
あ、金メダル3つではないか。
あと、脚をよく見てください。そう、長いのです。
これ、跪いたまま走れるのですよ。恐らく。ふふ。

 本人希望記入欄(特に給料、職種、勤務時間、勤務地、その他についての希望などがあれば記入)
 日本国宝展に出たかった…

展示室でご覧ください!)
天気がこれまでのように猛暑だったら諦めていました。
ここ数日、少し涼しくなったので歩きました。

特集展示「売茶翁から花月菴―煎茶道はここから始まった!」が目的でした。

展示品は、撮影禁止でしたし資料も「出品リスト」だけだったのが残念ですが
伊藤若冲の「売茶翁像」(No.7)を見ることができました。
初めは売茶翁だけでもと来たのですが、
「NEGORO 根来 - 赤と黒のうるし」、「中国の金属工芸」、「アジアの彫刻」、「カザールコレクション - 装身具 -」と見て回りました(^_^)v

遠くて行けませんが
売茶翁生誕350年特別展 売茶翁と若冲」(10月7日~11月24日 佐賀県立美術館)

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    お彼岸のおまいりされたのですね。

    そのあと、茶臼山へ。。
    大昔というほどの若い頃に低い山だよ~と、
    一度行ったことがありますが。。
    もう何の記憶ものこっていませんが。(;^ω^)
    トホホです。
    大阪市立美術館はいいですね。
    館内は涼しいですし。。
    根来塗もなかなか出会うことがないですよね。
    「羽人」ですが、
    疫病退散でいただいたお札の絵の人に似ているようなきがしました。。

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    1. カイさんコメントありがとうございます。
      私も茶臼山は昔々のことで記憶がほとんどなく
      ただ美術館の方から上がったことだけ覚えています。
      「根来塗」についての知識が殆どなかったので興味深かったです。
      「羽人」は
      >疫病退散でいただいたお札の絵の人に似ているようなきがしました。。
      というコメントに2011年に心筋梗塞を発症したときに
      妹と姪からもらったお守り元三大師堂の「角大師(つのだいし)護符」を思い出しました(^_^)v

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