しばらく歩くとJR奈良線を横切ります。
編集は終わりましたが、いつものように転記間違いなどがあると思います(o_ _)o 「右 ミむろみち」の道しるべ
三室戸寺に向っている観光客は、見かけないなぁと思いながら歩いていたのだけど考えが甘かった
三室戸寺に着くと観光バスから大勢の団体さんが降りてきた!「◎蛇体橋の話(宇治民話の会)」(三室戸寺)
「蟹満寺(かにまんじ)」(木津川市)にも「蟹の恩返し」が伝わっています。受付の近くに 「新羅大明神」
〝「新羅神社考―「新羅神社」への旅 京都府の新羅神社(6)〟(三井寺)
「三井寺(園城寺)より新羅社を勧請し、お祀りして……
古くからの産土神としての神社があった場所に三室戸寺が後に創建された」 三室戸寺(みむろとじ)
明星山(みょうじょうさん)と号する本山修験(ほんざんしゅげん)宗寺院。
西国三十三所観音霊場第10番札所。
寺伝では宝亀(ほうき)年間(770~780)の創建というが不詳。
三井寺(みいでら)の修験僧隆明(りゅうめい)が1099(康和<こうわ>元)年ごろに再興して以降、寺運は隆盛に向かった。
古来紅葉の美しさで知られ、多くの人びとが訪れている。
文明(ぶんめい)年間(1469~87)に後土御門(ごつちみかど)天皇の勅命により、現在地にうつった。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)盛時には多数の子院(しいん)諸坊を擁する、洛中・洛外をつうじて屈指の巨刹(きょさつ)であったが、中世以後、再三火災にあい、堂宇(どうう)のほとんどを焼失した。
寺地の変動も数次にわたり、寺勢は不振をきわめた。
明和(めいわ)~寛政(かんせい)年間(1764~1801)には金蔵院(こんぞういん)1坊を残すのみとなり、今日に至っている。 本堂は1814(文化11)年の再建。
また、三重塔(江戸期)は播磨国(はりまのくに)の高蔵寺(こうぞうじ)から1910(明治43)年に当寺にうつしたもの。
平安期の木造阿弥陀如来坐像および両脇侍(わきじ)坐像・釈迦如来像、鎌倉期の木造毘沙門天(びしゃもんてん)立像など所蔵する仏像は古く、いずれもが国重文。
なお本殿背後の十八(じうはち)神社はもと同寺の鎮守(ちんじゅ)社で、現在は宇治市兎道(旧三室戸村)の産土神(うぶすながみ)として地元の尊崇が篤い。
祭神(さいじん)はもとは名のように18柱であったが、今は大物主命(おおものぬしのみこと)・手力男(たぢからお)命・熊野久須毘(くまのくすひ)命の3柱にとどまる。
本殿(国重文)は室町期の建立。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年) 「狛蛇(宇賀神)」
宇賀神を撫でると、財運(金運)・良運がつくといわれているそうですよ(^_-)
宇賀神の「耳、髭、尻尾」にそれぞれご利益があるそうです。
みなさん撫でておられましたし、σ(^^;)も耳、髭、尻尾をなでました!観光客は大勢いたのですが、チャレンジする人があまりいないようなので(^_-)
球の中にある、卵を何度か動かしていると立ちました !(^^)!鴨さんも出会っています
あじさいの三室戸寺へ(2014年6月8日 日曜日)
朝7時。メールの着信。
「これから迎えに行くから用意してね!」
あれっ?何か約束していた???
昨日のブログを見た事務所の玲ちゃんがせっかく晴れたんやし
宇治の三室戸寺へ紫陽花を見に行こう!という話でした。
気を遣わせてすみません
ばたばたの身支度。🐰は留守番。
初めて行ったのですが見ごろまであと少し、でした。
それにしてもたくさんあります。
でもこんな狛ウサギにも会えました。
少し蒸し暑く真夏のような空。
帰りには宇治橋まわりで抹茶ソフトをたべてひと休みでした。
さて・・・今は心の中にぽっかり穴が開いていますが
少しずつ、焦らずに行きたいと思います。
みんな、おおきに*(^_^)*「狛兎 - 兎の像」
「菟道稚郎子は日本書記に、菟道の山の上に葬られたとありますが、当山本堂の裏山の古墳が、稚郎子のものだといわれています。」
巻第十一
仁徳天皇(にんとくてんのう) 大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと)
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の謙譲とその死
…前略…
太子(菟道稚郎子)がいわれるのに、「自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」といって、ついに自殺された。
…中略…
「天命なのです。だれも止めることはできません。もし先帝のみもとに参ることがありましたら、詳しく兄王が聖(ひじり)で、度々辞退されことを申し上げましょう。あなたはわが死を聞いて、遠路を駈けつけて下さった。お礼を申し上げねばなりません」とおっしゃり…中略…。
そしてまた棺に伏せってついに亡くなられた。
大鷦鷯命は麻の白服をきて、悲しみ慟哭(どうこく)されることはなはだしかった。
骸(なきがら)は兎道の山の上に葬った。
(『日本書紀(上)』宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)芭蕉の句碑
山吹(やまぶき)や宇治(うぢ)の焙炉(ほいろ)の匂(にほ)ふ時(とき)
宇治(京都府)は山吹と茶の名所。
山吹の花が咲き乱れるときは、あちらこちらに、製茶のよい香りが漂う。
花の色と茶の香の交感。
(『袖珍版 芭蕉全句』松尾芭蕉 堀信夫監修 小学館 2004年) 謡曲「浮舟」と浮舟古跡碑
謡曲「浮舟」は、夫薫中将と兵部卿宮(匂の宮)との恋の間に揺れ迷う女性浮舟を描いた源氏物(宇治十帖記)である。
旅僧が初瀬から上洛の途次、宇治で一人の里女に会い、浮舟の物語を聞く。
里女は「自分は小野の里に住む者です」。と言い、旅僧の訪問を期待して消え失せる。
旅僧が比叡山の麓の小野で読経して弔っていると浮舟の霊が現れて、宇治川に身を投げようとしたが物の怪に捕えられ、苦しんで正気を失ったところを横川僧都に助けられた次第を物語る。
旅僧の回向で心の動揺も消え、都卒天に生まれ得ると喜び、礼を述べて消えて行くという雅びた幽玄味を持つ曲である。
「浮舟と古跡碑」は、浮舟の宿命を懊悩が伝わる供養塔として追慕の念が絶えない。
謡曲史跡保存会 源氏物語 宇治十帖(七)
浮舟(うきふね)
正月、中君のところに宇治から消息があった。
浮舟のことを忘れられない匂宮(におうのみや)は、家臣に尋ねさせたところ、まさしく浮舟は、薫君にかくまわれて宇治にいることがわかった。
そして、ある夜、闇に乗じ、薫君の風(ふう)を装って忍んで行く。
浮舟が事に気づいた時はもう遅かった。
浮舟は、薫君の静かな愛情に引きかえ、情熱的な匂宮に次第にひかれていく。
薫君は物思いに沈む浮舟を見て、一層いとおしく思われた。
如月(きさらぎ)の十日頃、雪の中、宇治を訪れた匂宮は、かねて用意させていた小舟に浮舟を乗せ、橘(たちばな)の小島(こじま)に遊び、対岸の小家に泊って一日を語り暮らした。
橘の小島は色もかはらじを
この浮舟ぞゆくへ知られぬ
浮舟は、二人の間でさまざまに思い悩んだ末、遂に死を決意する。
平成十八年十月
(財) 宇治市文化財愛護協会先ほどの宇賀神について三室戸寺の宇賀神ではありませんが
第九章 人々の暮らしの中の存在
2 美女の頭上に衝撃の姿 宇賀神
七福神の紅一点、弁財天は、琵琶を奏でる美女として絵や彫像として表現されてきました。
先ほど紹介した日本橋の七福神巡りで、弁財天をお祀りしているのは水天宮。
こちらでは寶生辨財天(ほうしょうべんざいてん)という弁天様が境内に左手にある朱塗りのお社の中に鎮座しています。
いつもは御扉が閉じていますが、毎月五日と「巳(み)の日」には開かれることになっています。
その日にお参りに行くと、美しい顔でたくさんの手に宝を持つ弁天様に会うことができるので、そのお姿をぜひよく見てください。
弁財天の美しい顔の上には鳥居がのり、そしてその鳥居の奥にはなんと男性の顔が。
さらによく見ると、男性の顔の下は蛇になっています。
この人頭蛇身の男神は、宇賀神(うがじん)といいます。
宇賀神の「うか」は、食物、とくに稲のことを意味する語で、古事記に名が登場する宇迦御魂(うかのみたま)命という稲の神に由来するといわれています。
宇賀神の出自はよくわかっていないのですが、鎌倉時代くらいから登場するようです。
ウカノミタマは、女神であるとも老いた男神であるとも考えられているため、人頭蛇身の宇賀神も、頭の部分が女性であったり、老いた男性であったりします。
(『神話でたどる日本の神々』平藤喜久子 ちくまプリマー新書 2021年)
なぜ蛇の姿をしているのかというと、蛇は水辺に住むため、水神とされ、水田の水も司るという信仰があったからだと考えられます。
そうしたことから人頭蛇身という、ぎょっとするような姿が生まれていったようです。
さて、この人頭蛇身の宇賀神ですが、単体として祀られるだけでなく、水神としてつながっているためサラスヴァティー河の神で水神である弁財天のなかに取り入れられていきます。
そうして生まれたのが「宇賀弁財天」です。
とくに中世から江戸期にかけて、水天宮で見ることができるような、とぐろを巻いた蛇に老人の頭がついているという衝撃的な姿の像を頭上に戴(いただ)く弁財天像が造られるようになりました。 滋賀県琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)の宝厳寺(ほうごんじ)は、厳島、江の島と並んで三大弁天と称される弁天信仰の中心地の一つです。
宝厳寺では弁天堂や宝物殿も含めると複数の宇賀神を戴く弁天像を見ることができます。
江の島の場合は、江島神社の参道でもある弁財天仲見世通りにある「岩本楼」という旅館で古い宇賀弁財天を見ることができます。
旅館でそうして? と思われるかもしれません。
実は、江の島は神仏習合が続く江戸時代までは、岩本院という寺院が弁財天を祀る場所でした。
明治期になり、神仏分離が行われ、江島神社となって仏教色が排除されたときに、岩本院は、岩本院は、宿坊も兼ねていたために岩本楼という旅館となり、本尊であった八臂(はっぴ)弁財天像(宇賀弁財天)もそこに安置されることになりました。
江戸期の宇賀弁財天像の風情をとてもよく残したもので、本館の一階で見せていただくことができます。
頭上の宇賀神に注目しつつ、江の島の歴史や神社とお寺の関係についても振り返ってみたいものです。
(『神話でたどる日本の神々』平藤喜久子 ちくまプリマー新書 2021年)雨は止んだのだけど一気に蒸し暑くなり汗だくになったので
今日は、帰ろうと歩いていると案内標識(↑の道しるべではありません)が目に入り進路変更。
目指した 「源氏物語ミュージアム」に着くと…
月曜日が休館日で、前日が祝日でもないのに
なんと工事中で臨時休館していました(^_^;
仕方ないのでそのままトボトボ歩いていると宇治までやってきました。
ブラタモリ(2018年5月5日)でも紹介されていた「通圓茶屋」
そんな歴史があるとは知らず、以前、茶だんごをお土産に買っていた。宇治川は水量が多く、流れも急でした。
橋寺放生院(はしでらほうじょういん)と宇治橋(うじばし)
…前略…
宇治橋は古代からしばしば流失し、その都度修造されているが、1286(弘安9)年には叡尊(えいそん)が修造し、その後も織田信長・徳川家康らによってかけ替えられ、江戸時代は定期的に修造や修理が行われた。
現在の橋は1936(昭和11)年の建造で、長さ153m。
現在付替え工事が行われている(1996年完成予定)。
橋の中央部上流側に突き出した部分があるが、三ノ間(さんのま)とよばれ、秀吉が茶の湯の水をくみあげさせた所という。
また、三ノ間にかつて橋の守護神橋姫が祀られていたが、現在は橋の西詰めにある橋姫神社に移されている。
…後略…
(『京都府の歴史散歩<下>(旧版)』山本四郎 山川出版 1995年)橋姫神社にやってきました。
日吉社(右)、橋姫社(左)
源氏物語 宇治十帖(一)
橋姫(はしひめ)
「その頃、世に数(かず)まへられ給はぬふる宮おはしけり。」と「宇治十帖(うじじゅうじょう)」は書き始められる。
光源氏(ひかるげんじ)の異母弟の八宮(はちのみや)は、北方(きたのかた)亡き後(あと)、宇治の地で、失意と不遇(ふぐう)の中に、二人の姫君(ひめぎみ)をたいせつに育てながら、俗聖(ぞくひじり)として過ごしておられた。
世の無常を感じていた薫君(かおるのき)は、宮を慕って、仏道修行(ぶつどうしゅぎょう)に通い、三年(みとせ)の月日がながれた。
晩秋の月の夜、薫君は琵琶と琴を弾かれる姫君たちの美しい姿を垣間見て、
「あはれになつかしう」思い、
橋姫の心をくみて高瀬さす
棹(さお)のしづくに袖ぞぬれぬる
と詠んで大君(おおきみ)に贈った。
出家を望まれる八宮は、薫君を信じ、姫君たちの将来をたのまれる。
その後、薫君は、自分が源氏の実子ではないという出生の秘密を知ることになる。
平成18年10月
(財)宇治市文化財愛護協会方向音痴のσ(^^;)
迷いに迷ってやっと目的地に着きました。
宇治で入るなら宇治茶のお店と思いでしょうが(^_-)
紅茶の専門店へ。
宇治紅茶館
宇治で本格的な紅茶を楽しむ
お茶屋さんが立ち並ぶ宇治で本格的な紅茶が楽しめるお店。
古民家を改修した建物で、中は北欧のカフェを思わせる空間。
ここは、スリランカの高級茶葉ムレスナティーを扱う貴重なお店だ。
カフェでは、このお店オリジナルフレーバーのクリーミィーソフィアとカカオマロンをはじめ、30数種類のフレーバティーを取り扱っている。
その日のおすすめフレーバーを味わえるサービスがついており、紅茶がこんなにバラエティがあって美味しいものなのかと発見できる。
(『しかけに感動する「京都名庭園」』烏賀陽百合 誠文堂新光社 2018年) 注文してから焼いてくれる「究極のホットケーキ」は、ムレスナティーを扱うお店でしか食べられない特別メニュー。
特注の銅板で焼き上げたフカフカのホットケーキは、厚みが3センチもある。
ここにお店オリジナルのアールグレイシロップがかかっていてとても美味しい。
…後略…
(『しかけに感動する「京都名庭園」』烏賀陽百合 誠文堂新光社 2018年)
オッ!と思ったのが塩(左から二つ目)がついてきた。
そういえばぜんざいを食べる時に塩コンブがついてくるのと同じだなぁと思った。
生クリームとジェラートも食べていて口の中が甘くなっている時に口直しになりました。店内の様子が素敵なので写したかったのですが、お客さんがいたので諦めました。
宇治紅茶館の「PHOT」をご覧になるといいと思います。ちょっと路地を入ったところにあるので
スマホ等で「ACCES」を参照するといいと思います。
ホットケーキとアイスティーをいただいたおかげで元気になり向かったのが「 平等院鳳凰堂」
やはり大勢の観光客が来られていました。
参道から人、ひと、で溢れていましたが…
◆鳳凰堂は平安時代の「極楽浄土テーマパーク」
この鳳凰堂は、見た目の美しさが100パーセント重視された、なんとも珍しい建築になっている。
機能性を考えた建築の造りでは一切ない。
頼通は「自分が死ぬまで建物が持てばいい」という考えで、当初屋根瓦は腐りやすい木瓦だったという。
(『しかけに感動する「京都名庭園」』烏賀陽百合 誠文堂新光社 2018年) 平等院学芸員の田中正流(たなかまさる)氏は、調査のため鳳凰堂の楼閣に上がった時、建物としてあまりにも機能性を欠くのでとても驚いたそうだ。
楼閣の縁は歩くにはあまりにも狭く、立つと頭が屋根に当たる。
躙口(にじりぐち)よりも小さい扉を開けて中の様子を窺うと、なんと建物の中には床がなく、そのまま下の柱に繋がっていた。
つまりこの楼閣は張りぼて。
ここに上がって景色を眺めることは、まったく想定されていない。 北翼廊と南翼廊の渡り廊下は地面からかなり高く、はしごも階段もないので上がることができない。
驚くことに、よく見ると渡り廊下と中堂はまったく繋がっていない。
渡り廊下は中堂に行くためのものではなく、単なる「お飾り」なのだ。
まるでどこかの遊園地にあるシンボリックなお城のようだ。
美しさだけを追求した究極の建築。
鳳凰堂は藤原頼通の理想を表した、見た目重視の「極楽浄土テーマパーク」なのだ。 ◆灯籠から1000年の月日に思いを馳せる
平等院の庭園で注目して欲しいのは、鳳凰堂の前に据えられた「平等院型灯籠」だ。
通常の灯籠は、ロウソクを灯す火袋の部分が一つの石で出来ている。
しかし、平等院型灯籠は向い合う二枚の板石によって火袋が作られている。
この平等院型灯籠は、興福寺にある国宝「金銅燈籠」を参考にして藤原頼通が作らせたと言われている。
初めは金銅だったが、今は石灯籠。
基礎の石は平安時代、笠や竿の部分は鎌倉時代、宝珠や火袋は室町時代のもと言われる。
この灯籠が1000年という時間ずっと平等院を見守って来たのかと思うと、えも言われぬ感動を覚える。
石は変化することなく、ずっとその場所にあり続ける。
何百年もの時代を経て、その風景を伝えてくれる。
そして石を通じて昔の人と繋がるような気持ちになる。
どんな人がこの石を選んだのか、どんな職人がこの灯籠を彫ったのか、どんな庭師がここに設置したのか……。
そんなことを想像するだけで楽しい。
平等院型灯籠を見ていると、そんな長い月日を感じさせてくれる。 藤原頼通も、まさか自分のためにだけに作った極楽浄土の世界が1000年も残り、後世の人々にこれほど愛されるとは思ってもみなかっただろう。
当時はもちろん周りに囲いなどなく、鳳凰堂から宇治川までずっと景色が繋がっていた。
学芸員の田中氏が「当時、『極楽いぶかしくば(信じられなくなったら)宇治の御寺(みてら)をうやまえ』という『後拾遺往生伝(ごしゅういおうじょうでん)』の一節が童謡にも歌われているそうです。宇治川から眺める鳳凰堂の姿はさぞかし美しかったでしょうね」と話してくださった。
山や川の自然の風景に浮かぶ鳳凰堂は、まさに極楽浄土そのものであっただろう。
…後略…
(『しかけに感動する「京都名庭園」』烏賀陽百合 誠文堂新光社 2018年) 梵鐘(模造)
平等院の鐘は、「姿(形)の平等院」として日本三銘鐘の一つにあげられます。
鐘身にほどこされた装飾が美しいことで有名です。
昭和47年、寸分違わぬ姿で復元された二代目です。
国宝の鐘は「平等院ミュージアム鳳翔館」で見ることができます。 源三位頼政公の墓 宝篋印塔
源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請により、源氏として初めて従三位に叙せられました。
歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残しています。
治承4年(1180)5月26日平家追討の兵を挙げた頼政は、宇治川で平知盛軍の追撃を受け、平等院境内にて自刃しました(歳76歳)。
辞世
埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ悲しかりける 巻第四 頼政最後
むもれ木の花さくこともなかりしに
みのなるはてぞかなしかりける
埋れ木にも似た我が生涯に花咲くような想い出もなかったが、こうして身のなる果(はて)はかなしいことだ。
「身」は「実」をぁぇ、「埋れ木」「花咲く」「実のなる」を縁語として連ね、自嘲(じちょう)の言葉をつづる。
或いは「実のなる」には武将としての死を満足する思いも秘められているのであろうか。
(『平家物語 上 新潮古典集成』水原一校柱 昭和54年)
画像は、撮影した順に載せていません。
生クリームとジェラートも食べていて口の中が甘くなっている時に口直しになりました。店内の様子が素敵なので写したかったのですが、お客さんがいたので諦めました。
宇治紅茶館の「PHOT」をご覧になるといいと思います。ちょっと路地を入ったところにあるので
スマホ等で「ACCES」を参照するといいと思います。
ホットケーキとアイスティーをいただいたおかげで元気になり向かったのが「 平等院鳳凰堂」
やはり大勢の観光客が来られていました。
参道から人、ひと、で溢れていましたが…
◆鳳凰堂は平安時代の「極楽浄土テーマパーク」
この鳳凰堂は、見た目の美しさが100パーセント重視された、なんとも珍しい建築になっている。
機能性を考えた建築の造りでは一切ない。
頼通は「自分が死ぬまで建物が持てばいい」という考えで、当初屋根瓦は腐りやすい木瓦だったという。
(『しかけに感動する「京都名庭園」』烏賀陽百合 誠文堂新光社 2018年) 平等院学芸員の田中正流(たなかまさる)氏は、調査のため鳳凰堂の楼閣に上がった時、建物としてあまりにも機能性を欠くのでとても驚いたそうだ。
楼閣の縁は歩くにはあまりにも狭く、立つと頭が屋根に当たる。
躙口(にじりぐち)よりも小さい扉を開けて中の様子を窺うと、なんと建物の中には床がなく、そのまま下の柱に繋がっていた。
つまりこの楼閣は張りぼて。
ここに上がって景色を眺めることは、まったく想定されていない。 北翼廊と南翼廊の渡り廊下は地面からかなり高く、はしごも階段もないので上がることができない。
驚くことに、よく見ると渡り廊下と中堂はまったく繋がっていない。
渡り廊下は中堂に行くためのものではなく、単なる「お飾り」なのだ。
まるでどこかの遊園地にあるシンボリックなお城のようだ。
美しさだけを追求した究極の建築。
鳳凰堂は藤原頼通の理想を表した、見た目重視の「極楽浄土テーマパーク」なのだ。 ◆灯籠から1000年の月日に思いを馳せる
平等院の庭園で注目して欲しいのは、鳳凰堂の前に据えられた「平等院型灯籠」だ。
通常の灯籠は、ロウソクを灯す火袋の部分が一つの石で出来ている。
しかし、平等院型灯籠は向い合う二枚の板石によって火袋が作られている。
この平等院型灯籠は、興福寺にある国宝「金銅燈籠」を参考にして藤原頼通が作らせたと言われている。
初めは金銅だったが、今は石灯籠。
基礎の石は平安時代、笠や竿の部分は鎌倉時代、宝珠や火袋は室町時代のもと言われる。
この灯籠が1000年という時間ずっと平等院を見守って来たのかと思うと、えも言われぬ感動を覚える。
石は変化することなく、ずっとその場所にあり続ける。
何百年もの時代を経て、その風景を伝えてくれる。
そして石を通じて昔の人と繋がるような気持ちになる。
どんな人がこの石を選んだのか、どんな職人がこの灯籠を彫ったのか、どんな庭師がここに設置したのか……。
そんなことを想像するだけで楽しい。
平等院型灯籠を見ていると、そんな長い月日を感じさせてくれる。 藤原頼通も、まさか自分のためにだけに作った極楽浄土の世界が1000年も残り、後世の人々にこれほど愛されるとは思ってもみなかっただろう。
当時はもちろん周りに囲いなどなく、鳳凰堂から宇治川までずっと景色が繋がっていた。
学芸員の田中氏が「当時、『極楽いぶかしくば(信じられなくなったら)宇治の御寺(みてら)をうやまえ』という『後拾遺往生伝(ごしゅういおうじょうでん)』の一節が童謡にも歌われているそうです。宇治川から眺める鳳凰堂の姿はさぞかし美しかったでしょうね」と話してくださった。
山や川の自然の風景に浮かぶ鳳凰堂は、まさに極楽浄土そのものであっただろう。
…後略…
(『しかけに感動する「京都名庭園」』烏賀陽百合 誠文堂新光社 2018年) 梵鐘(模造)
平等院の鐘は、「姿(形)の平等院」として日本三銘鐘の一つにあげられます。
鐘身にほどこされた装飾が美しいことで有名です。
昭和47年、寸分違わぬ姿で復元された二代目です。
国宝の鐘は「平等院ミュージアム鳳翔館」で見ることができます。 源三位頼政公の墓 宝篋印塔
源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請により、源氏として初めて従三位に叙せられました。
歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残しています。
治承4年(1180)5月26日平家追討の兵を挙げた頼政は、宇治川で平知盛軍の追撃を受け、平等院境内にて自刃しました(歳76歳)。
辞世
埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ悲しかりける 巻第四 頼政最後
むもれ木の花さくこともなかりしに
みのなるはてぞかなしかりける
埋れ木にも似た我が生涯に花咲くような想い出もなかったが、こうして身のなる果(はて)はかなしいことだ。
「身」は「実」をぁぇ、「埋れ木」「花咲く」「実のなる」を縁語として連ね、自嘲(じちょう)の言葉をつづる。
或いは「実のなる」には武将としての死を満足する思いも秘められているのであろうか。
(『平家物語 上 新潮古典集成』水原一校柱 昭和54年)
画像は、撮影した順に載せていません。
こんばんは~
返信削除三室戸寺へ行かれたのですね。
私も西国さんで、アジサイの頃におまいりさせていただきました。
紫陽花を楽しみに訪ねましたので、
ハスの花や紫陽花に気を取られ、
狛蛇や狛うさぎは、まったく気づきませんでした。(*^-^*)
三宅八幡宮で狛鳩があることを知りましたので。。
今なら、狛うさぎなど気づいたかも知れません。
Kazeさん、いつもよく調べられていますね。
へぇ~そうなんだと、いつも教えてもらっています。
一つ二つは、覚えておかないと思っています。(*^-^*)
今回は、狛うさぎ、狛蛇は覚えていると思います。
ありがとうございます~!(^^)!
カイさんコメントありがとうございます(^^)/
返信削除カイさんは、西国さんも四国さんも満願を達成されているのですごいなと思います。
σ(^^;)も病気をしなかれば西国さんをもう少しで……(^_^;
泊まりがけは無理ですが、京都などは、お参りできるので時々は訪ねたいと思っています。
事前に本は読みますが、帰ってきてから画像を整理していると
本を読んだ時に気がつかなかったことや抜けていることが多々あります(^^ゞ
そため調べ直したりしてついつい更新が遅くなります。
それも楽しみの一つですが(^_-)
旅や町歩きの楽しみは、人それぞれだと思います。