2025年6月4日水曜日

一気に暑くなりました

昨日は、雨、風が強かったです。
そのため寒いくらいだったのに
今日は、晴れて暑くなり夏日や真夏日になるところも…

天皇ご一家 沖縄に向けて出発 戦没者の慰霊などへ」(沖縄NHK)

母は、雨は雨でも鉄の暴風雨の中を逃げ惑っていました。
艦砲射撃の音は、地響きとなって遠く離れた徳之島にいた父のところにまで届いていました。
沖縄戦クロニクル~その時何が起こったのか~」(NHKアーカイブス)
韓国 イ・ジェミョン新大統領 日米韓の協力進める方針強調」(NHK)
ユン前大統領が『非常戒厳』を発令したことであの時の記憶が呼び覚まされたのだと思う。

韓国・光州事件 戒厳軍が市民を鎮圧」(NHKアーカイブス 1980年)

一方、中国は
天安門事件から36年 政府の徹底した言論統制で知らない若者も」(NHK)

戦前・戦中の日本も中国のように情報管理されていたので
日本の勝利を疑うことが非国民とされていました。
朝ドラ「あんぱん」はいよいよ昭和16(1941)年12月8日を迎えました。
昨日の第10週「生きろ」 (47)では、
次郎が暗室で印画紙を現像液に浸すところが描かれていて
のぶが「たまるかー!人が浮かび上がってきた!」とビックリしていましたね(^-^)
それにしてものぶに重い試練を与えますね!
あの時、次郎さんの写真を撮っておけば…
何故、あんなことを言ったのだろうとか…

民江たちを見ていると新型コロナの時の自粛警察みたいで、過去の話とは思えません。
自粛警察と誤った正義感」(法務省)
現在の視点で見るのではなく、当時、自分が生きていたらと思いながら見ています。
40年ほど前、暗室がなかったので土曜日の夜に
浴室でモノクロ写真のプリントの現像をやっていました。
徐々に画像が浮かび上がってくる瞬間、ワクワク、ドキドキ……
いつの間にか朝になったこともありました。

フイルムの現像は、失敗できないのでカメラ店のSさんに頼んでいました。
お店でいろんなことを教えてもらいました。
そのSさんが突然、店を閉めることになったのです。
帯状疱疹の後、ペインクリニックで治療しても痛みが取れなくて店を閉めることになったのです。

【Q&A】激しい痛み引き起こす帯状ほう疹 症状やワクチンは?」(NHK 6月2日)
朝ドラ「あんぱん」第10週「生きろ」 (46)でヤムさんの辛い過去が明らかになりました。
ヤムさんはシベリア出兵を経験していたのかなと思っていたのですが
予想だにしなかった欧州戦争(第1次世界大戦)なんですね。

   火星の話 

 …前略…

 第二次大戦の際の日系義勇兵と違い、これは全員日本生まれの一世達だ。
言葉も通じぬ戦友と、いったいどんな気持ちでヨーロッパくんだりまで出掛けて行ったのだろう。
そこで彼等が見たものはなんだろう。
人種差別の壁は、乗り越えることができたのだろうか。
単純な好奇心に押されて着手したリサーチは、やがて多くの資料をもたらした。

 …後略…

(『黄色い兵士達 第一次大戦日系カナダ義勇兵の記録』工藤美代子 恒文社 1983年)
 ヴィミリッヂ砦の攻防 

  一千九百十四年(大正三年)十二月、仏軍はこの堅砦を突破せんと企て、非常な損害を受けて退却した。
  翌年五月、再び大軍を発して之を攻撃したが、これ亦見事に撃退された。
  一千九百十五年の秋、英本国軍が之に代って、この堅砦を粉砕せんものと、猛烈に突撃を決行すること三度、遂に三度とも敗戦の苦を舐めさせられ、いたずらに独軍をして、その驕慢の鼻を、いやが上にも高らしむるに過ぎなかった。
  しかも独軍は、その翌年、千九百十六年五月、毒ガス砲弾の雨を、英軍の頭上に降らし、英軍の暫
(しば)しためらう隙に乗じ、一大逆襲に転じ、英軍は遂に撃破せられ、勝利の栄冠は四度独軍の頭上に輝いたのであった。(『アラス戦線へ』諸岡幸麿 北隆館)
 独軍は、必死でヴィミリッヂの守りを固め、生あるものは鳥獣といえども通過を許さぬとうそぶいていた。
 これに対してカナダ遠征軍は、四度の苦杯をなめた味方の、今度こそは弔い合戦と意気まさに盛んだった。
アラス戦線は十五マイルの間に、約二千門の砲列を敷き、戦機の熟するのを待った。
 総攻撃開始の日、いつもは出ない湯気の立った部厚いハムに美味しいパンの御馳走が用意されていて、兵士達は最後の日の近いのを知る。
そして私達は、黄色い者の、白い者も、黙々として、一人一人固き握手をなし、ただニコリとするのみであった。この際、我々の死所は堅砦ヴィミリッヂであるといふことは、期せずして一同の頭に浮かんだ。」(『アラス戦線へ』)
 ここで初めて、黄色い兵士と白い兵士の皮膚の垣根が取り払われたように私には思われる。
死の前には、すべての兵士は平等である。
彼らのカラーは、カナダ一色に塗りつぶされ、ドイツ軍に向かって突撃するのだ。
 アラス戦線総攻撃に四月十一日まで加わった諸岡の詳細に記された戦場の描写を読むと、よく生命が助かったものだと驚くより、あきれた気持にさせられる。
諸岡自身書いているように、兵士は「消耗品」だった。
次々と消耗され、次々と補給された。
  ヴィミリッヂの戦線は、すでに地の利を占め、一帯の高地に塹壕を深くし、敵は逸を以て労を待つ優位にあった。ことに塹壕の全面は起伏高低甚(はなは)だしく、前身に頗(すこぶ)る困難を極めた我が軍は、丘陵に要害による敵の瞰射(かんしゃ)に殆ど混乱に陥らんとしたが、漸く陣容を立て直し、敵の猛射に屈せずヒタヒタと堅砦に肉迫して行く。
  我が軍の砲兵は、歩兵が突撃戦に移ったといふ信号を受けると、一層猛烈に砲兵陣地に一大猛射を浴びせ敵軍の潰乱を来たさしめ、味方の突撃を容易ならしむる為に、堅砦ヴィミリッヂの丘陵を焦土と化し、砲弾の巣窩となさんとして、幾百重となく張廻らされている鉄条網は、殆ど影も形もなく飛散し、塹壕は平地と変り、丘も谷も一面の平地となってしまった。
  堅砦一帯の高地は爆煙を以て蔽はれ、我が突撃部隊は、味方の屍を乗り越え乗り越え敵の塹壕間近に突進して行った。
  敵の砲兵は必死になって撃って、撃って射ち捲くり、砲弾は殷々
(いんいん)として頭上に吼へ、カタカタと機関銃弾は雨霰と降りそそぎ、味方の兵は、バタリバタリと相次いで倒れこの悲壮な突撃戦、私達は興奮の絶頂に達した。そして一切夢中である。只聞こゆるものは、
  「前へ! 前へ! 伏せ!」
  と云ふ上官の命令のみだ。
(『アラス戦線へ』)
 連隊長の「突込めッ!」という号令と共に、突撃隊は敵の塹壕に殺到し、猛烈な機関銃弾を浴びて、大半が討ち死にする。
それでも後から後から、あたかも大波が押し寄せるように、幾十万の歩兵が友軍の死屍を乗り越えて突撃した。
 戦いがまさにたけなわの時、興奮しながら諸岡は隣りにいた佐藤義勇兵に話しかける。
オイ! 実に激戦だなア。日露戦争の時と較べたらどうかい? どっちが激しいかい?
どうしてどうして日露のときも激しかったが今度はまた格別だ。ナニ奉天の大会戦、あれだって俺達の正面はこれ程激しくはなかったよ
 この会話が、本当に諸岡の言うように、突撃の真最中に交されたかどうかは、はなはだ疑問だが、日露のときよりまだ激しいという友の答が、諸岡に深い満足を与えたのは確かだろう。
 ここに登場する佐藤義勇兵以外にも、日露戦争に従軍した邦人兵士は何人かいた。
さすがに、にわか造りの軍人と違って、戦場での駆け引きは一際目立ったという。
斥候に出れば正確な報告をなし、沈着冷静に自己の立場を守り、突込む時はけして時機を誤らず猛然として突込む。
諸岡は手放しで日露戦争の帰還兵達を誉め上げた。
(『黄色い兵士達 第一次大戦日系カナダ義勇兵の記録』工藤美代子 恒文社 1983年)
今朝の父の一枚です(^^)/
ムクドリが枇杷の実を啄んでいるようです。

 第2章 住宅地や餌台にくる鳥―ムクドリ
 ✤ 集団で採餌


 エサは樹上や地上でとる。
広い芝生などで、数十羽のムクドリが並んでノコノコと歩きながら、集団で昆虫などを追い出して捕食することもある。
農地を、耕運機で耕していくと、その後からムクドリの群れがついてまわり、土中のケラやミミズなどの小動物が掘り返されて出てくるのを捕らえてしまう。
 また、果実も好物であり、季節に応じてどこで何が熟すかをよく知っているようだ。
江東区の亀戸緑道公園では、サクランボが熟す5~6月ころになると、連日、数十羽のムクドリが飛来して食べてしまう。
また、秋にはリンゴやナシなどをつつくので、果樹園では害鳥として嫌われている。
しかし、野生動物との触れ合いの少ない都会にあっては、ムクドリやメジロ、ウグイスなどのために、わざわざ柿をとらない家もある。
餌台でもおなじみの鳥で、人の与えるパンや果物などをよく食べる。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)